●嵐山駅前の変化、その256(桜の林、温泉)
焼き、鮭、ソーセージ、それに緑色はホウレンソウのおひたしだろうか、お弁当のおかずはだいたいそんないろどりだ。今は200円弁当という信じられないほど安価なものが売られていて、それを買って来るのもいいかもしれない。



花見の弁当に格別高価なものをという人はあまりいないのではないだろうか。そう言えば筆者は桜の下で弁当を広げたことは大人になってほとんどない。桜の名所に住んでいるのであるから、いくらでもいい場所を確保出来るのに、観光客に混じって花見をしながら食事をする気がしない。今日の投稿でも載せる桜の林で、去年の今頃、わが自治会のある組の若い母親たち数人が小さな子どもたちと一緒に桜の老木の下に集まって花見をしている光景に出会った。その木は温泉計画のために根こそぎされる運命にあることが図面からわかっていたので、母親のひとりが筆者を見つけてあいさつをした時、「この桜の木も今年限りですね」と告げた。すると、計画のことをあまり知らなかったのか、少し驚いたようであった。それから1年、その木があった場所にはすでに建物が建ち、屋根の塗装が半ば終わっている。若い母親たちはその建築現場を見ながら、去年は絶好の天気に花見をしてよかったと思っているだろう。だが、すっかり悲しむには当たらない。どうにか林の半分は無傷のまま残され、場所を50メートルほど移動すれば、去年と同じように満開の老木の下で花見が出来る。そういう木がまだどうにか何本か残っている。一昨日、そうした木の一本の下で、背広姿の男性ばかりが30人ほど車座になって談笑していた。若い人は少なく、大半が60前後で、しかもほとんど誰も弁当らしきものを広げていなかった。酒もなかったかもしれない。そのような花見もあるのかと、やや奇異に思ったが、満開の桜の下には弁当や酒がつきものと思う方があまりに単純なのかもしれない。花をしばらく愛でた後は、近くの料亭で食事するかもしれない。年齢からしてもそうだ。まさか200円程度の弁当に缶ビールでは、あまりにわびしいではないか。
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 今日の写真は去年4月9日のもので、まだしばらくはこのカテゴリーへの投稿が続く。訪問者数が一気に落ちたので、面白くない内容と思われている。そこでどうにか面白い話を工夫しようかと思わないでもないが、自治会ネタはそれこそどうでもいいような話だろう。それほどに自治会離れが全国的に顕著なはずで、これは核家族化と軌を一にしている。昨夜少し見たNHKのTV番組で、日本の女性が置かれている現実を示すものがあった。少子化の原因がどこにあるかといった問題が提起され、若い女性が日本の現実を告発していた。印象深かった場面がある。子どもは3歳までは母親がしっかりと自分で育てるべしという意見が昔の日本では根強かった。それを「3歳児神話」と呼ぶことを初めて知った。それが若い女性を中心に今では根拠がないとすっかり否定されているそうだ。3歳まで母親が面倒を見なければ、子どもは情緒不安定になったり、とにかくうまく育たないという意見は、確かにどこか差別的ではある。それを言うのであれば、父親の存在はどうかという問題も同時に議論すべきだが、昔の日本では子どもにとって必要なのは母親であって、父はいなくてもいいという考えが支配的であったのだろう。実際そのような家庭は映画や小説ではあたりまえのように登場する。それほどに男社会で、男は仕事だけしていればよく、また女を扶養する義務があるという社会であった。ところが、父親の不在は、仕事に熱心であるという前提があってこそ許されるのであって、父がいない母子家庭は差別されがちであった。筆者は母子家庭育ちで、父をほとんど知らずに育ったが、そういう子どもは精神的にどこか歪にならざるを得ず、情緒不安定になるのは自然なことだといった意見がまかり通っていた。母子家庭であるから、母親は働き手にならざるを得ず、したがって3歳になるまで子どもの面倒を見ることは出来ないかと言えば、わが家ではそうではなく、筆者は3歳どころかもっと大きくなるまで毎日母の目の行き届くところで育った。にもかかわらず、父がいないことの欠点の方が大きく、人格はきっとどこかおかしいと世間は見がちであった。
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 息子が生まれた時、家内はしばらく勤めを辞めたので、ふたりで子育てをした。乳離れするとまた家内は外で働き始めたが、筆者は自宅で仕事をしていたから、息子は保育園に入るまでしっかりと親の目の届くところで過ごした。これは筆者が3歳児神話を信じていたためと言うより、仕事柄そうなったといった方がよい。だが、一方では自己表現がまだあまりうまくない幼い子は、出来るのであれば両親が終日目配りすべきという考えはあった。それは今も変わっていない。そのことでひとつ思い出すのは、家内の同年齢の友人が結婚して最初の子をもうけ、すぐに、つまり0歳で保育園に入れて勤め出したことだ。その女性は京都で暮らし始めていた筆者ら夫婦に保険の勧誘でやって来た時にその話をした。家内は非常に驚いた。というのは、その友人の結婚相手はなかなかしっかりした男性で、経済的にも恵まれており、その収入だけで充分生活出来たからだ。家内にすればその友人がなぜわが子を他人に預けてまで働きに出るのか、その理由がわからないと言った。人さまざまであるから、そういう生き方を否定はしない。だが家内は、まだおっぱいがほしくてたまらない子を保育園に預けて他人任せに出来るのであれば、何のために子を産んだのかと筆者に疑問を隠さなかった。つまり、外で働くことが子育て以上に楽しいのかという思いだ。それに、まだ言葉を発せず、自己主張出来ない子に、いや、そうであるからこそだが、無理やり保育園に委ねるということが許せないようであった。親はきっとこう言う。子どもは少しでも早く、同じような子どもにたくさん囲まれてもまれた方が社会性が身につく。だが、それこそ「3歳児神話」が否定されるのと同じほどに根拠がない。人は自分のつごうのいいように物を考え、また主張する。筆者が言いたいのは、3歳になるまでの子は大人とは全く違う保護されるべき存在で、大人が自分にいいように判断することはその子に対して暴力となりかねないことだ。このブログでもよく書くように、大人のわが子に対する勝手な思い込みはその後も続く。幼児教育やまた小学生になっての塾通いだ。英語の単語ひとつ覚えることを嫌った母親が、小学生になったわが子が英語が好きになるように塾に通わせる。そしてその費用を稼ぐために外に出て働く。そんな環境でその子が英語好きになることはまずない。母親は子どもに英語を押しつける暴力を自覚せず、むしろあなたのためにわたしは外で働いて塾の費用を必死に稼いだと恩きせがましく思うだろう。これは子に対する二重の暴力だ。
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 先のNHKの番組で印象に残ったのは、60歳くらいだろうか、むっつりとした表情の男性が3歳児神話否定の根拠は乏しいと言った。すると、たちまち女性たちから総攻撃を受け、反論の隙さえ与えられず、無理解で時代錯誤な男性の典型を演じてしまった。その男性にもう少し発言の機会を与えるべきであったのに、司会も女性に加担して、『今時そんなことを言う人はいないです』といった嘲笑の対象にしてしまった。そこに何となく筆者はいやらしさを見た。ある女性はその男性の意見に対して、「その意見は日本が隣近所の長屋暮らしをしていた時代のもので、今の若い母親たちは核家族家で誰に相談することも手助けしてもらえることもなく孤立している。」と返した。確かにそれはあるだろう。だからと言って、生まれて間もない子を他人に預けて働きに出ることを奨励すべきはない。女性が結婚、出産と続く「生物学的な差によるハンディキャップ」のために、男性よりきわめて不当な扱いを勤め先で受けているというのは今も昔も日本では変わらないだろう。その一方、夫の給料だけでは暮らして行けない世の中になっていて、共働きは普通になっている。そういう時代になったのはここ20年ほどではないか。筆者が30代の頃、家内を働かせていることは親類の侮蔑の対象であった。甲斐性なしがそんな残酷なことを妻にさせるというわけだ。ところが、時代は変わって、女性も金のためではなく、働くことそのものの面白みを感じるようになり、また子どもは夫婦で作ったものであるから、夫婦が同じくらいに子育てをするのが理想とも思うに至った。そこに家事の均等も加わる。昔なら考えられなかったことが今はあたりまえになったが、それでも日本の女性はまだまだ自分たちは男の奴隷的存在であると不満を囲っている。
 「3歳児神話」のおかしなところは、前述したように、子育てを母親特有のものとしていることだ。これでは父子家庭に育った子は立つ瀬がない。子が育つ過程において、母も父もしれなりの役割がある。筆者は父がいなかったので、母は父の役割も演じた。それに無理があるのはわかる。だが、そうする以外に方法がない。子を育てて思うことは、子は遺伝的要素に支配される面が大きいし、またどういう育て方をされるかにもかかっている。その後者に関係するのが3歳児神話で、3歳までは実の母親からたっぷりと愛情を注がれるべきとするのは、これはこれで正しい。ただし、その愛情の形が問題で、それが今はわからない馬鹿な母親が増えている。結局3歳児神話はさして意味あることではないだろう。どんな育て方をされても、子どもはなるようになって行く。だが、親の問題として考えると、3歳までの手間のかかる時期、わが子のそばに少しでも長い間いることは、後になってどうにも取り返しのつきようがない絶対的な貴重な時間であって、その幸福を噛みしめることが出来るのであれば、ほかのどんなことも捨て去った方がよい。働いて賃金をもらうことはいつでも出来る。それを言えば、一旦会社を辞めると次に就職出来るのはろくな職場ではないという意見が返って来る。それでもいいではないか。3歳までの子どもを保育園に預けるのは、収入にもよるがかなりの費用がかかる。それを稼ぐために働くでは本末転倒だ。それがわからないとすれば、子を産む資格はない。それに、そういう母親は、老いた時に子は面倒を見ず、金を払って誰かに任せるだろう。自分がされたことをするのが何事においてもの真実だ。「3歳児神話」でもうひとつ思うのは、0歳から3歳までの子をそれなりに追跡調査してそれが真実ではないと判断した研究があるようだが、そんな研究が研究に値するのか。3歳まで母親がわが子を育てか、他人任せにしたか、それをどう数量化出来るのか。また出来るとして、子どもがまともな少年になったかそうでないかをどう結論づけられるか。それは各種テストを実施するのだろう。何ともアホらしい研究で、よくもまあそんなことを研究して「3歳児神話」を崩すのに熱心な人があるものだと思う。「3歳児神話」が真実かそうでないかは筆者にはどうでもよい。自分の産んだ子におっぱいを吸わせたり、抱きかかえたりすること以上の喜びがあるのだろうか。子どもが試験管の中で受精し、やがてはそこから出産する時代になるだろう。今はその過渡期とすれば、母親が子をもうけてすぐに保育園に預けて金儲けに熱心になるのは理解出来る。子どもは社会のもので、生まれた子はすべて即座に一か所に集め、そこで成長させてから、ほしい人に分けるというシステムが将来は出来ているかもしれない。そうなれば、性交も同様で、発情した男女はある場所に行き、いつでも誰とでも交わることが出来るようになるだろう。そんな時代になれば、人類みな兄弟、全員が独身であり、全員が何千万の子を持つ。わが子という概念がなくなり、教育熱にはやし立てられることもない。冒頭の卵、鮭でそんな世界を想像した。
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by uuuzen | 2013-04-09 23:59 | ●駅前の変化 | Comments(0)


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