堪能した今年の桜、昨日と今日の台風並みの嵐でもう大半が散ったかもしれない。それでもわが家の窓から見える嵐山はところどころにピンク色の塊があって、葉桜になりかけていはするものの、まだ花見気分にはなれる。
去年は「今年の桜」と題して桜の写真をたくさん投稿したが、今年は開花前からそのつもりはあまりなかった。そう言えば今年の桜の写真は先月28日に「常磐線を「いわき」まで乗る」の最初に載せた。いわき行きの旅行記についてはまだ数回分を書くつもりでいる。本来ならばそれを連続で投稿した方がいいのだが、もっと以前から書こうと決めていたことがある。それを今日から断続的に始める。「駅前の変化」シリーズで、昨夜そのための最新の写真を加工し、それが「その310」に相当することがわかった。今日が「その254」であるので毎月投稿して2か月分ほどある。今日の投稿は5か月ぶりで、その5か月前に何度か書いたように、撮影した写真は少なくても1年以内に載せたい。それで本カテゴリー用の未発表写真の最も古いものが去年4月7日で、今日はそれを載せるべき最終日に当たっている。そしてちょうど桜が咲いていた頃であるので、前述の「今年は開花前からそのつもりはあまりなかった」ことの理由がわかるかと思う。いわき旅行記はしばらく中断して嵐山の桜、しかも去年のそれを載せることになるが、一方では新年度の始まりであるから、自治会関係のその後のあれこれを話題に出来る。嵐山の桜は有名であるので、ブログのネタとしてあまり悪くもないが、自治会のことはわざわざ書くべきことでもないと思われがちで、それを思うと筆の勢いも鈍る。それでもせっかく撮りためた駅前の変化を記す写真であり、その発表がてらに埋め草的文章は必要だ。もっとも、写真本位と割り切って、文章を写真1枚に2,3行程度にすることも出来るし、そのことを考えたことは何度もある。だが、長文が癖になっていることもあって、その姿勢を容易に崩せない、崩したくないので、だらだらと文字を連ねてしまう。「その310」まで用意している各投稿は、載せるべき写真の名前を加工した時点で割り振っている。その今日の投稿分は昨日調べると3枚の写真を載せることになっていた。その3枚をヤフー・ボックスからダウンロードしようとしたところ、1枚が見当たらない。おそらくMOディスクからヤフー・ボックスにアップロードする際に見落としたのだろう。そしてMOに保存したものはすでに消しているので、見当たらない1枚はもう復元出来ない。手間を増やすと失われる可能性が増す。ヤフー・ボックスに保存しておくとデータを失わずに済む確率が増すが、保存する過程で見落としからデータを失う現実は、人間は常にうっかりして失敗することをよく示している。
それは自己責任で、簡単に言えば「ボケ」だが、誰にでもそれはあるし、また年齢を重ねるとその度合いが増すのは、生物学的に言えば細胞が複製を繰り返す中で複製し切れない箇所が増大するためで、このことは筆者がMOディスクに保存した写真をヤフー・ボックスに移動させる際に見落としがあることと同じで、移動の回数が増えると壊れて行くものが多くなる。引っ越しがそうだ。必ず茶碗や皿の1枚を割ったり、またこれはもう使わないかと思って処分するものがあったりする。そのように失われて行くものがなければ新しいものが入って来ないと肯定的に捉えるのがよく、自分のうかりを「ボケ」がひどくなる前兆かとあまり深刻に思わない方がよい。3枚用意していたはずの1枚はどんな写真であったかは筆者にはおおよそわかるが、同じ角度で撮った翌日の写真があったりするから、1枚くらいなくなってもどおってことはない。またそうでなくても、なくなったものをあまり気にすることはない。年月を経ることは何事も失って行くことと思えばよい。なぜこんなことを書くのか、それは今の筆者の気分を表わしているかもしれない。そのことを書く。昨日は暴雨風で家から一歩も出なかった。もう10年ほどになるか、隣家の隣りは裏庭であった場所に大きな黒い犬を飼っていた。犬をいつ散歩に連れて出るのか、その様子を見たことがない。昼間は誰もおらず、犬は放し飼いにされ、糞尿をあちこちにしながら、孤独であった。救急車のサイレンんを聞くと必ずそれを恐がって狼のように悲しい遠吠えをした。その犬の姿をまともに見た人は近所には誰もいなかったはずだ。筆者は去年春に裏庭向こうの小川沿いの道から瓦礫の掘り出し作業をしたが、その時、犬はわずかな隙間から鼻をこちらに突き出して筆者がどういう人間か確かめていた。その犬が昨日の夜、今までにない大きくて悲しい声を数時間上げ続けた。それがあまりに異様で、家の人がどうにかすればよいのにと、家内とともに腹立たしかった。そして、これは雨が上がり、すっかり日差しで明るくなった1時間ほど前のことだ。その家の前に黄色の小型トラックが停まった。家の外に出てみると、ゴミ回収車ではないが、それに類するものだ。運転手とその助手は深緑色をしたプラスティック製の長方形の大型トレイを取り出して家の中に消えた。トレイは畳1枚分より少し小型で、犬を乗せるにはちょうどよい。もうしばらく待つと、それに黒い犬が載せられて出て来る様子が確認出来たろう。だが、筆者はそうしなかった。その理由をもっと詳しく書くことが出来るが、今しがた起こったことであり、近所のことであり、これ以上書くことはまずい。ともかく、昨夜の犬の断末魔は死期を悟ってのものだったようだ。近所ではほとんど知られなかった犬であるし、飼い主も生きているから生かしておくといった程度の扱いであったようであるから、死んだところでさして気にも留めず、むしろほっとするかもしれない。老人も今では同じように扱われたりする。筆者はその犬のように飼われてはおらず、また狭い場所に終日閉じ込められてもいないが、いつかは犬と同じ悲しい気持ちでこの世から離れる瞬間を味わう。その時、眼前に見えている景色が桜満開であればと思う。