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●ものは考えようを考えよう
露しておきたい思いがあって毎夜ブログの文章を綴っているのかと言えば、そんな覚悟のほどもない。暇つぶしかと言えばそうでもない。あまり深く考えずにとりあえず書いておこうというのが当たっている気がする。



それに、これはつい先日のことだが、以前投稿した韓国ドラマの題名とその内容をすっかり忘れていることに気づき、愕然としながらもその文章を書いたのは自分であるから、忘却も含めて自分史があると思い直した。つまり、忘れてしまってもいいので、書いておくことはいいと考える。無益も益のうちと思わない限り、毎晩こんな文章を書き続けることは出来ない。自分を強く信じているというのでもないが、ほかに信じる人がいないのであれば、自分を見つめて自分に賭けるしかない。自分に裏切られることはまずないからだ。あるとすれば前述のように、自分の過去を忘れることだが、何でもかんでも覚えていると前に進めない。適当に思い続け、適当に忘れて行く。人間の頭はそうなっているはずで、自分の文章を覚えていないことにあまり衝撃を受けなくてもよい。今日は家内と午後から出かけたが、家内が3回ほど勘違いから発言した。それを指摘しても譲らず、もう一度諭すと自分の過ちを認めた。まだ5分も経っていないことを忘れて、ほかのことを記憶しているのだ。これが呆けの始まりかなと思った。今秋に60になる家内は筆者より呆けるのが早いかもしれない。呆けても本人はそれがわからないのであれば、何も問題はない。困るのは周囲だが、本人はそのことに自覚はないから、呆けても一向にどおってことはない。呆けることと狂うことは少し違いがあって、呆けなくても狂う人がある。どっちが始末に悪いかとなれば狂う場合だが、誰でも多少は狂っていると言うしかないから、人間、ものは考えようで、呆けも狂いも受け入れてこれが人生だと達観するのがよい。なぜこんなことを書くかと言えば、ここ10日ほど多少神経が参る出来事があった。ものは考えようで、別に気にしなくてもいいことだが、思い返すとむしゃくしゃする。人間、みな価値観が違うとはいえ、教養が皆無の成金と話し合わなければならないことほどやっかいなことはない。60を超えると、人生の残り少なさを思うからでもないのだが、いやな人や事柄とは極力関係したくない。
●ものは考えようを考えよう_d0053294_128387.jpg

 そういういやな経験もまたものは考えようで、本当はいいように受け止めればいいのだろう。いやな体験は自分がしでかした間違いなら許すほかないが、他人に迷惑をかけられるとなると、誰しも反発はする。それに反抗せずに、ものは考えようとして呑気にかまえる態度もあるだろうか。これは難しい問題だ。昨日書いたように、子どもがいじめから自殺するのは、「ものは考えよう」という大きな気持ちにはとうていなれないからだ。小さな心ははち切れんばかりになり、悔しさの持って行き場がないままに、それから一気に脱出するために自殺してしまう。ところが、教師たちは大人であるから、「ものは考えよう」の態度でそのことに接し、何事もなかったかのような状態に一刻も早く戻そうとする。その場合の「ものは考えよう」は、自分たちの保身のための言い訳だ。「そりゃ確かにいじめらしきものはあったかもしれませんが、その証拠と言えるものは出て来ませんし、仮に出て来てもそのことと自殺との因果関係は証明されませんよ。ものは考えようですからね。本音を言えば、自殺してくれてかえってありがたいと思っている子どもたちも多いかもしれませんよ。これはオフレコですけどね。」ま、こんな調子で、自殺する者が悪いと言わんばかりのことが繰り返される。いやな経験も「ものは考えよう」というのは、やはり昨日書いたいじめや体罰の連鎖だ。自分がされたので、いつか自分が誰かにする。これはとても多いはずで、だいたい体罰を与える者はむしゃくしゃしている気持ちを何かに発散したいからだ。そのむしゃくしゃは体罰を受けた者に伝染し、それがどんどん弱者に伝染して行く。最後は子どもが動物を虐待するといったことで終わるが、その先に自殺してしまう子がいる。つまり、子どもの自殺は、いじめをする子どもが直接的には悪いが、どんどん上部へと原因を辿って行くことが出来る。だいたいは父親が会社で上役からひどいことを言われたといったところに到着するが、会社の社長はさらに業界の思わしくない傾向にむしゃくしゃしているから、最後は国の経済ということになるか。その先には世界経済があるから。子どもの自殺はなくならないだろう。なくなるとすれば、「ものは考えよう」の思いをいいことに限定するしかない。世界経済が悪くても、経済以外に幸福感を見出そうということだ。ブータンに大いに学ばねばならないか。
●ものは考えようを考えよう_d0053294_1283796.jpg

 先月の末だったか、右京図書館に自転車で行ったところ、返却窓口でDVDを1枚家に忘れたことに気づいた。往復1時間ほどかかる道のりで、しかも寒い日だ。おまけに自転車はあまりのオンボロで、ペダルの回転がとても重い。自分の頓馬さを一瞬嘆いたが、返却せねば新しいDVDが借りられない。それで仕方なく家に戻った。同じ道を行くのは面白くないので、めったに走らない道を選んだ。それで気分は少しは新鮮になった。それにとても安い野菜をとある店で見つけた。走りながら値札が目に入ったのだ。家に附いて野菜を下ろし、DVDを手提げ袋に入れてまた図書館に向かった。帰りはさきほどとはまた違う道を進み、梅津の四条通りに出て、ムーギョとトモイチに立ち寄るためだ。四条通りに出るにはいくつかのルートがあって、まだ最短距離を覚えていないが、その日にようやくそれがわかった。四条通りまで200メートルほどといった地点に出た時、前方の空が眩しくオレンジ色に光っていた。そのことにびっくりした。冬の輝かしい夕日だ。松尾山の向こうに太陽が隠れた直後だ。カメラを袋の中に入れていたが、自転車を急に止めて撮影する気にはならなかった。自転車を猛烈な速度で漕いでいたからで、うまい具合に写る場所は一瞬のうちに過ぎ去った。いや、正確に言えば、一瞬のうちに空の輝きが見えなくなった。走りながら思ったことは、「ものは考えよう」だ。その日は物忘れから図書館を二度往復する羽目になった。だが、そのおかげで素晴らしい夕陽に出会えた。そう思うことにした。それほどに見事な輝きであった。とても得したような思いで四条通りに出ると、先ほどの夕焼けが前方すなわち西の空に見える。ほんの少しだが、先ほどより輝きの度合いは減少している。10秒単位でどんどん夕焼けは暗くなって行くだろう。今度は自転車を止め、10メートルほど後戻りして撮影した。先ほどとは違って電信柱や建物、車が視界を狭めて感動は半減だ。それでも空は輝いてはいる。ムーギョでさっさと少しの買い物を済ませ、店の前の信号から西を見ると、まだ明るい。そしてまた撮った。他人には平凡な日没の光のはずだが、筆者にとっては失態を慰めてくれる輝きであった。「ものは考えよう」で、失敗や悪運など、マイナスの事柄の中にも楽しみを見出すべきだ。弱者の価値観に過ぎないだろうが、本当は心が豊かであると思い込めばいい。大金は持っているが心のない者があまりに溢れていて、弱者には住みにくい人の世だ。そんなことを思った時、心の中に優しい人を思い浮かべることだ。
●ものは考えようを考えよう_d0053294_129788.jpg

by uuuzen | 2013-02-17 23:59 | ●新・嵐山だより
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