●ムーンゴッタ・2012年11月
拠を示せと言われると困る。写真を撮影した日のことだ。先月の満月写真を今日載せても誰も違いがわからない。今日撮ったことが確実な証拠が写真に写り込んでいるといいが、それは不可能ではないか。



d0053294_133734.jpg写真に撮影した年月日を写し込む機能があるが、日づけの設定が間違っている場合は役に立たない。写真は確かなものが写っていると思われがちだが、デジカメ時代になって加工技術は誰にとっても容易になり、絵を描くように写真を修整することが出来る。証拠というものがますます曖昧になり、写真こそ最も嘘をつくものと認識され始めてもいる。そうなると写真が面白いのかどうか。美容整形が盛んになっていることと写真の加工を当然のように行なうことになったのはおそらく深い関係がある。天然の美女がなかなかいないのと同じように、加工しない写真が感動を与えることも稀だ。こうなれば、簡便に何でも出来てしまうことがいかに味気ないかを思い知る。ところがその便利さに慣れるとなかなか後戻り出来ない。そう言う筆者もデジカメがあることによってこのブログに毎回写真を載せ得るし、またその写真に絡めてどうでもいいことを書くことも出来る。となると、すべてはデジカメのおかげか。いや違う。デジカメを持たなかった昔からこのような長文を毎日のように書いていた時期が数年あった。筆者はカメラの知識に詳しくない。そう言えば自分のお金で買ったカメラは一台もない。デジカメも友人からもらったり、また無料で入手したもので、カメラにさっぱりこだわりがない。パソコンにこだわりがないのと同じで、機械類にはあまり関心がない。機械や装置の美はあるとは思うが、機械の目的はまず用途だ。それをこなせるのであればある程度はどれでもよい。今阪急電車の車内に、キャノンのEOSの新型デジカメの写真が男女計3人を起用した3枚のポスターが吊られている。TVでもその3人が登場してコマーシャルが流れている。そのポスターを見ながら、一眼レフはいつまで経っても大きなレンズが飛び出ていて、そんな重くてかさばるカメラを持ち歩くのは大変だと思う。レンズが大きい分、いい写真が撮れるのだろうが、いい写真とは何かと思う。筆者はこのブログに載せる500×360ピクセルの写真で充分と思っているから、一眼レフは不要だ。どうしても必要な時は甥に借りるが、母はこれを非難する。カメラくらい買えと言うのだ。確かにそうだ。1か月ほど前、梅田の中古カメラ店をたまたま覗き、甥が持っている一眼レフが2万円ほどで売られているのを見た。おそらくネット・オークションでは1万円で買えるだろう。筆者にすれば本1冊の値段だ。本なら何万円でも気にせずに買うのに、長持ちするデジカメを買わないのは、やはり母が言うように筆者はそうとう変わっているのかもしれない。
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 一眼レフを手にすれば撮影行為が儀式に思える。その緊張感は心地よい。筆者が使っている古い型の小型カメラでは、そのような緊張はない。それが悪いとは言えない。人間は礼服も着るが、普段着でいることの方が多い。筆者にすればブログ用の写真は普段着であり、こうして書く文章もそうだ。それが儀式的なものより価値がないとは思っていないが、読み返しもしない書きっ放しであり、かなり無責任ではある。だが、その無責任を責めるつもりはあまりない。このブログを誰かに読んでくれと言ったことはないし、勝手に書き、誰か知らないが勝手に読むので、そこに義務や責任といったものは存在しない。無料で書き、無料で読まれる。したがってプロの書き手が言うようにブログはゴミのような情報と文章であるのだろう。責任や義務から縁遠いからで、ぴりりとした精神の締まりが書き手にも読み手にもない。それはよく承知していながら、やはりこうした日記的な文章にもそれなりの効用はあると思っている。そのごくわずかな価値のために写真を撮り、文章を書く。その一方で、以前に書いたが、大型カメラに関心がないわけではない。いきなりハッセルブラッドをほしがるのも筆者らしいが、そのデジカメは家が一軒買えるほどの価格であるようで、これは宝くじで高額を得るしか入手方法がない。それで想像するだけだが、そのカメラがあれば撮ってみたいものはある。それは儀式的な印象を人に与えると思う。その自信があると言いたいのではないが、カメラを持ち歩いて以前から撮りたいと思っているものをようやく撮ることは、筆者の人生において儀式と言うべき行為だ。それが写真に影響して、写真を見る人にもそれが多少は感じると信じたい。もう少し書いておくと、その写真行為が儀式と言うのは、シャッターを押す時のバシャリという重みのある音の影響もあるが、筆者がシリーズで撮りたいと思っている被写体は、この世に生まれ出て来ることを暗示させるもので、「誕生」をまず連想させ、その次にその反対の「死」を喚起させる。つまりいかにも儀式的な素材で、構図もきわめて厳格だ。筆者の見るところ、まだ誰もそのような写真を撮っていない。であるので、ごく短期間に100や200といった数をさっと撮りたい。また数年で1000や2000は撮れると思う。ものは考えようで、デジカメなら撮りためているだけならばさして費用はかからない。そのため、カメラを思い切って購入し、目的を遂げた後はさっさと売り払うと思ったほど経費がかからずに済むだろう。撮りためた写真を紙に焼いて誰かに見せたいという欲求はない。自分で確認出来れば充分で、予想した面白さがそのまま具現化出来るかどうかに最も興味がある。そのシリーズとなる写真は撮影した年月日を感じさせないだろう。そのため、それを最初に置いてもかまわない。
d0053294_1335511.jpg 以前書いた話題を繰り返すのはよくないが、さきほど撮った今月の満月の写真がいつもとあまりにも変わり映えしないことが影響していると見える。はははは、今思い当たったが、今月末つまり明後日に書く思い出の曲が影響しているようだ。そう思い当たると、筆者の書く文章はその背後にある多くの事柄の影響を受けていて、われながら自分の文章が面白い。だが、それは自己が満足するだけであって、他人はわからない。たまにはその背後に隠れている事柄について書くこともあるが、筆者ですら読み返さないから、誰もある事柄とある事柄が表向きは全然つながりがないようでいて、本当は無意識の中でつながっていることがわからない。さて、本題に入ろうか。今日は曇天の予報であったが、夕方5時頃に自治会の看板にポスターを貼るついでに渡月橋まで歩いた。こう書くとかなり足を延ばしたように受け取られるかもしれない。実際は渡月橋はわが自治会内にあって、いわば前庭ほどに近い。紅葉を求める観光客がまだ多かったが、渡月橋の上流を見ると、さすがに紅葉の名所だけはあって、見事は景色であった。これなら今週の土日まで持つかもしれない。そう思いながら筆者の注意は下流側にあった。そこにそろそろ満月が上がるからだ。雲は少ないので、上がっていれば見えるはずだが、見えない。それで観光客に混じって駅前まで行き、家に戻った。満月の写真を撮ったのは9時ちょうどだ。家の前で撮った。あまりに月並みな写真で、これを最初に載せることはやめにする。実は昨日万博公園にひとりで行き、帰りは阪急茨木駅まで歩いた。ゆっくり、しかも写真を撮りながらで、1時間近くかかった。それらの写真は先ほど加工したが、たくさんあるのでまた別の機会に載せるとして、今日は満月が映っているものを2枚使う。最初に掲げるものは菱が群生する大きな池の畔で撮った。この池については「おにおにっ記」に投稿したが、誰も覚えていないだろう。厳密に言えば今夜が満月であるから、この写真は使うべきではない。また写真からはわからないが、よく見ると左下が少し欠けていたのでなおさらだ。それでも載せたいのは、万博公園からぶらぶら歩いて池に差しかかった時、突如眼前に見えたからだ。その時、はっと驚いた。毎月最初に満月を見る瞬間も同じように驚く。はっとさせるものを満月は持っている。その「はっと」を記念してこの写真をまず載せる。残念ながら池は菱がすっかり除去され、水もかなり減っていた。ひょっとすれば菱の実を収穫したかもしれない。
d0053294_1335532.jpg 2枚目の写真は池からさほど遠くない場所であったと思う。空がまだ明るいのに月が上がっている。こういう満月の写真を載せるのは初めてだ。ずっとその機会を待っていたのがようやくかなった。ところが本当は今日であるべきで、そのために5時前にカメラを持ってポスターを貼りに出かけた。筆者は天文にさっぱり詳しくないが、昨日と今日では月が同じ角度に上るのは時刻のずれがかなりあるのだろう。渡月橋に行ったのは、そこややや高台で地平線を上がったばかりに月が見えるかを予想したからだ。ところがどこを見渡しても見えなかった。すぐに暗くなったから、どっち道青空の満月を撮ることは出来ないと思って諦めた。3枚目の写真も昨日で、個展会場に行く途中、四条河原町近くの路地から覗いたものだ。そして最後に先ほど撮った味気ない写真を。これが今夜撮ったかどうかはもう筆者にもわからない。無責任な写真は必ず誰にとっても面白くないが、そもそも写真とはそういうもので、面白い写真など年に1,2回遭遇出来ればいい。筆者のカメラの性能ゆえにほとんど見えないが、今夜の満月は清水寺の毎年桜と紅葉の季節に使用される青色の投光器による光が矢のように満月に向かって伸びていた。5,6枚撮影すると、全部にわずかながらその直線が映り込んだ。加工時にコントラストを調節したが、よりよく見えることにはならなかった。本当は写真の左下隅からうっすらと満月のほんの少し下に向かって斜線が伸びていたが、写真を凝視するとわずかに見えると思う。清水寺は満月に向かって光を放っているのではなく、わが家の前から見ればたまたまその角度で見える。この青い光も次の土日までだと思う。性能のよいカメラであればはっきりと写すことが出来るはずだが、一眼レフを筆者が持っても夜景をうまく撮影する方法がわからない。それにブログにはそんな写真はたくさん載せられている。筆者の出る幕はない。
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by uuuzen | 2012-11-28 23:59 | ●新・嵐山だより(特別編) | Comments(0)


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