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●パパレードのパレード
杏の実が落ちるのはもう少し経ってからだ。今の嵐山は紅葉の盛りで、これを書く3階の部屋から見える山は錦織のようにさまざまな色が混じって美しい。



●パパレードのパレード_d0053294_0244793.jpg紅葉とは言うが、たとえば銀杏の黄葉が混じる。また常緑もあってこその錦織のようで、これが全部紅色であれば火事を連想して恐いかもしれない。奥田元宋はそのような真っ赤に紅葉する山をよく描いたが、緑や黄色、赤い色を混ぜて秋の山の絵を描くと、ごちゃごちゃとした印象を与え、思ったほど美しくなくなるだろう。現実と作り事とは違うのだ。人は絵画を最初から作り事として見ているので、それが現実に見えるものとは違って当たりまえと思うし、しかもより現実らしさを求める。そこでいかにリアリズムの絵画とはいえ、写真そっくりに描くとかえって味気なく、芸のなさと言えばいいか、もっと工夫してほしいと思う。こう書きながら、音楽のリアリズムとは何かを考えている。昨日の続きになるが、ザッパは公聴会に出かけて議員たちの発言を聴き、その録音を作曲に利用し、曲のほとんど主体としたが、発言のごくごく一部を使い、それが議員の考えを代表しているというものではない。ニュアンスが削られているからだ。これはリアリズムとは言えないが、公聴会をそっくりアルバム化し、音楽家がそれを自作であると主張しても、聴き手は退屈だ。そう考えると、ザッパが議員の言葉を用いるのは、現実の断片を利用しながらの、時にそれを歪曲する作家行為であって、その聴き手は、意識するかしないかにかかわらず、議員の発言という現実そのものをそこから把握することとは別に、ザッパがその現実とどう向き合って発言を選んだかを読み解く。これこそが芸術の送り手と受け手のまともな関係で、現実が歪められていると文句を言うには当たらない。芸術は現実そのものを再現することではないからだ。これはドキュメンタリー作品でも同じことで、作品と名のつくものはすべて現実とそれに対する作者の考えの火花の散り合いだ。そこで思うのは、現実にどれほど価値があり、また誰もがそれをそのまま正しい姿で把握出来るのかどうかだ。「現実を見よ」とはよく言われる。ザッパも自己の現実を見ながら少しでもそれを改善して行くことを目標にしたはずだが、それは思い方ひとつに左右されることで、現実がどうあっても楽しければそれでいいというのが人間だ。現実は自己の内部にあるし、また自己を取り巻く環境もそうだ。後者は前者の状態でどうにでも変化して見えるし、その逆もある程度は言える。ザッパは後者を変革したい思いがあった。だがそれは広大無辺であって、社会、国家、世界といったようにいくつもの輪があり、そのどれもが為政者によって大きく左右される。表現の自由の問題がそこに横たわる。日本ではあたりまえであまり意識する人はないかもしれないが、先ごろのロシアでの女性パンク・バンドの事件からもわかるように、自己表現がままならない国がある。ザッパが作品で政治に言及したかったのは、同じ人間でありながら権力を持ったごく一部の人間が他者の自由を奪いかねないことへの危惧だ。民主主義では選挙でそうした人物は選ばれるし、大多数の人が賛成をすれば少数派はそれにしたがわねばならない。この仕組みはヒット・パレードを思い起こさせる。ヒット・チャート第1位になると誰もが知る曲となる。ヒット・チャートだけが音楽ではないが、レコードを作ってそれで生活するにはレコードを売らねばならず、そうなればヒット・チャートで上位に食い込むしかほとんど方法はない。73年のシングル曲「黄色の雪を食べるな」でその夢は果たされ、その後ザッパの経済は一段と好転したであろう。そしてやがて自信を深め、言葉だけで生きている政治家を見ながら、自分も大統領に立候補出来ると思って行ったのかもしれない。
●パパレードのパレード_d0053294_0251985.jpg 今日も昨夜に続いて予定していることとは全然違うことを書いてしまったが、さてどう話を思うことに結びつけよう。『UNDERSTANDING AMERICA』の収められる「ポルノ戦争 デラックス」の最後は「アウトサイド・ナウ」で締めくくられる。これは『ジョーのガレージ』の最後近くに収められていた曲で、セックス・マシーンを壊してしまった罪で監獄行きになったジョーが外の世界を思って歌う。その後ジョーは出所し、マフィンを作る工場で仕事に就き、幸福を味わう。監獄に入っていた時はギター・ソロを夢想していたが、それを忘れての転職だ。これは音楽業界に入ると大変な目に遭うことの警告で、音楽の才能のない者はマフィン作りの職にでも就けばよいというザッパの成功者としての自惚れが見えるが、現実はこのとおりで、才能があまりない人はいずれ転職する。また「マフィン・マン」という曲の歌詞は、同じマフィンでも作り手のこだわりがあることを描く。これは音楽とマフィンという、創造の場は違っても、製作の工夫と満足の関係を描いていて、音楽の才能のない者がその道を断念してマフィン作りに精を出すことを必ずしも敗北者の行為とは見ていないことを示しそうだ。それはともかく、「ポルノ戦争 デラックス」の最後が「アウトサイド・ナウ」であることは「ポルノ戦争」が『ジョーのガレージ』と関係し、また75年の「マフィン・マン」にもつながる。今日筆者がぼんやり書こうと思っていたのは、マフィン作りではないが、食べ物に関係したことであった。前述の「黄色の雪を食べるな」でさらに話が本来書きたいことにつながって来たと思った。それは今週日曜日に作ったパパレードだ。これが何かは筆者のホームページの左右対称の切り絵を昔見た人はわかるが、マーマレードがママが作るものとすればそれをパパが作ればパパレードと呼ぶのがいいと考えたことによる命名だ。切り絵では「パパレードのパレード」と題した。2005年7月のことで、もう7年前だ。その頃から筆者はマーマレードやジャムを作るようになった。その切り絵を今日は持ち出す。その理由はいくつかある。まず、これは先日の『いとこ同志』の投稿で使おうと思ってTV画面を撮影し、加工までしていた写真がある。兵士がパレードする玩具がこの映画のタイトル・バックに映る。その写真を撮ったのは、ブログで使おうと思って以前撮った別のパレード写真があるからだ。ところが、兵士がパレードする玩具の写真は保存していた場所にない。これを探すのに数日費やしたが、どこにもないところ、知らずに消してしまったに違いない。今度はそれを復元しようと思ったがデスクトップから消したようで、パソコンのハードディスクから復元するのはリスクがいろいろ伴う。それで諦めた。だが、「パレード」は忘れておらず、それについて何かしたかったのだろう。それがパパレード作りになった。そうこじつけておくが、自分の行為がどこに発するものかは、そう簡単に言い切れるものではない。現実の行為の背後には無自覚も含まれている。
●パパレードのパレード_d0053294_02659.jpg パレードについてのその別の写真は実はザッパに関連して使うことも可能だが、以前の投稿に使った写真につながるものと思って撮った。ところが、その最初の意図から外れて使う場合はしばしばある。これは創作のひとつの大きな真実で、最初の着想はどんどん変化して行く。これはザッパの作品もそうであったはずで、ある作品を完成させる時、必ずそこに盛り切れない何かが残る。それがやがてまた別の作品になる。「ポルノ戦争 デラックス」はそのようにして作られたものだろう。ザッパの作品をつぶさに見ると、そのような創作の方法とでもいうようなものがわかる。これは物作りする人に限らず、誰でも思い当たることではないか。そのためにザッパは音楽業界に生き残れないのであれば、マフィン作りでこだわりを持つ方法もあると歌ったように思う。話を切り絵「パパレードのパレード」に戻すと、今日の最初の写真からわかるように、それを黄色の色紙で切り、オレンジ色の色紙に貼りつけた。この2枚の色合いはレモンとオレンジを意味している。ところで今日は最初に銀杏のことを書いた。そして小便で濡れた「黄色い雪」を出したのは銀杏の黄葉からの連想でもある。次に、「パパレード」はいいとして、「パレード」は前述の兵士の玩具のほかに、昨夜載せた写真もある。それはザッパのCDが3枚連なってパレードする様子だ。しかも、これら3作は「ポルノ戦争」に関係している。切り絵の「パパレードのパレード」は、ザッパのアルバムや曲と同じく、別の同じサイズの切り絵と内容がつながっている。その他作の1点にSMセックスをほのめかしたものがあったと記憶するが、それは「パパレードのパレード」に表現される輪切りのレモンにも言える。そのレモンは縄(アメリカでは革紐がふさわしい)で縛られ、乳首のように見えるレモンの両端からは汁がしたたり落ちている。その汁や皮で作るのがパパレードであり、それを詰めた瓶が並ぶ様がパレードに見えるところから「パパレードのパレード」と名づけた。この切り絵をもう少しめりはりを効かせてロゴマークにし、それを自作のマーマレードに貼りつけることは切り絵を作った頃に考えたが、実行していない。誰かにプレゼントするならそうしてもいいが、使う柑橘類や量、作り方が毎回違うので、味は常に異なる。わが家で消費するものだ。
●パパレードのパレード_d0053294_0262628.jpg このパパレードのパレードを久しぶりに実現してみようと思った。切り絵ではなく、実際にパパレードを作るのだ。これは監獄から出所したジョーがマフィンを焼く仕事に就くことを思い出させる。そのため、今日はこのパパレード作りの様子を投稿するのは悪くない。さて、レモンがそのためには必要だ。それは先ごろのリンゴ・ジャム作りで2個使った皮を残していた。レモンの中身を使えば皮は不要だが、その時は捨てずにそのまま袋に詰めて冷蔵庫に収めた。それを取り出し、よく洗い、そして2ミリ幅に刻み、沸騰させてはまた湯を捨てるを三度繰り返した。ネットのレシピにそう書いてあったからだが、筆者はあまりそれにしたがわない。三度も沸騰させると、レモンの皮はふにゃふにゃになってしまう。また、栄養といったものは全部なくなるだろう。だが農薬の心配があるので、そのくらい時間をかけて炊いた方がいいかもしれない。この皮はしばらく時間を置いてパパレード作りに用いるのがよいそうだが、待っている時間が惜しいので、三度沸騰後すぐに次の作業に移った。パパレードを作る気になったのは、レモンの皮を残しておいたことと、リンゴ・ジャムを作った後すぐにグレープフルーツを3個150円ほどで買ったからだ。そのまま食べずに2個をパパレードに使おうと決めた。レモンの皮は刻んだ時に160グラムあった。三度煮詰めてそれは6,7割に減ったと思う。一方グレープフルーツは分厚い皮を剥いた状態で2個でちょうど1kgあった。そこから薄皮を剥がして赤い果肉を種子とともに取り出してまとめ、煮上がったレモンの皮と混ぜ、砂糖を500グラム加えた。砂糖は6割がいいと書いてあったが、レモンの皮とグレープフルーツ2個の中身で1kgに足りないくらいで、500グラムはだいたい6割に相当すると思った。グレープフルーツの厚い皮も刻んで煮ればレモンの皮と同じように使えるが、またもう一度同じように三度煮るのが面倒で。それは惜しみなく捨てた。だが、薄皮の周囲には綿のような厚い皮がついていて、それはペクチンとやらの栄養があると書いてある。それを無駄にする手はない。そこでパパレードを煮ながら、その綿皮と薄皮を水で煮た。どちらもまず20分煮た。すると綿と薄皮の鍋はどろどろして来て、ペクチンが大量に出たことがわかった。それを木綿のハンカチで濾した。400CCほどになった。それをほとんど煮詰まっているパパレードに加え、さらに20分煮詰めた。そうして全体の5分の1ほどの目分量になったところで火を止めた。パパレードの仕上がりは、スプーンですくって水を張ったコップに数滴落とすとよい。大半は底に沈むが、水の表面に幕が張ったように浮かぶと、ちょうどよい粘度に仕上がっている。これがもっと煮詰めると、冷えた時に羊羹のように固くなる。さて、リンゴ・ジャムで瓶はたくさん使ってしまったので、適当なものがない。蓋がないものも出て来たが、真っ先にそれを食べればよい。そうして瓶を並べると4個にちょうど収まった。それがパパレードのパレードではあるにしても、えらく不揃いで、これはザッパが好きな「assort」を何となく思わせる。綿と薄皮を煮詰めた汁を加えたので、予想どおりかなり苦味が勝ったものになった。それは筆者の好むところで、そうでなければリンゴ・ジャムとさして変わらない。その後毎朝トーストにこの蓋のない瓶のパパレードを塗りたくって食べている。明日でその瓶は空になる。
by uuuzen | 2012-11-23 23:59 | ●新・嵐山だより
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