皓皓と月が照っている。満月にはまだ数日早いが、雲がないのでレースのカーテン越しに街灯のように明るく見える。先ほどいつもの席に座ってパソコンに向かうと、誰かに見られている気配がした。横を向くと月が見ていた。
今月の満月の夜は、去年と同じように法輪寺で月を愛でる会が催されるだろうか。今日は配り物があってその法輪寺に行ったが、催しがある時に目につく看板やポスターがなかった。月末の満月は正確には中秋の名月なのだろうか。2週間も違えば肌寒さが増して山の中腹にある寺では少し寒いだろう。今同寺のホームページを見ると特別の催しは掲載されていない。ないとなれば何となくさびしい。さて、これは書いていいと思うが、ユニヴァーサル・ミュージックから発売される予定の紙ジャケ・ザッパの第1弾の発売は、11月下旬が少し遅れるかもしれない。ザッパ・ファンなら想像出来るように、ゲイルとの話合いがある。これがどう決着するか。詳しくは書かないが、ネット社会のように「何でも載せ放題、著作権などどこ吹く風」とは違って、表からは見えない苦労がいろいろとある。このゲイルの行為を日本ではザッパの遺産を破滅に追い込む暴挙といった見方をする人がいる。これは違う。著作権を侵害していい権利は誰にもない。それを、無名をいいことに勝手なことをする連中こそザッパの遺産を食いつぶしている。よく知らないが、パソコンに入っているファイルをお互い自由にダウンロード出来るソフトがある。それを作った京大の先生は控訴された。まだ争っていたか、結審して無罪になったのか、興味がうすいのでわからない。どうもそのソフトを使ってダウンロードする者に罪があるという見方のようだが、あまりにも多くの人がそれを利用するので、もはや打つ手がない。みんなでわたれば恐くない横断歩道と一緒だ。罪悪感がない。ここで考えてほしいのは、時間と金を費やした作品が無料でコピーされてばら撒かれる作家の心境だ。作品を売って生活しているのに、そのことが立ち行かなくなる。これでは創造行為は萎む一方だ。だが、創造で生活していない人はそんなことはおかまいなし。むしろ儲けているだろうから少しくらい創造者の権利を侵害してもかまわないし、無料でコピーが出来て喜ばれるのであるから、まるでヒーローになったかのように錯覚する。こんな馬鹿な話はない。思い上がりもはなはだしい。だが、そういう人に創造者の身になれと言っても通用しない。ザッパの遺族が通販で出しているアルバムでも、おそらく簡単に誰かのパソコンを通じてそっくりダウンロード出来るだろう。そういう人は真のザッパ・ファンではない。それはともかく、ゲイルが違法な行為を次々と裁判に持ち込むのは当然として、本当に違法かどうかの判断が難しい場合がある。先ほどアメリカの大西さんからメールがあって、RONDO HATTON REPORTの最新版がアップされたことを伝えてくれた。このサイトはザッパ・ファンがザッパに関する論文を書いて投稿するもので、運営者は無料で投稿を募り、また収益はない。つまり、ザッパ・ファンの純粋な意見発表の場だ。運営者はゲイルとは親しい。にもかかわらず、運営者はサイト名に「ZAPPA」をつけていない。直接的な金儲けにはならなくても、売名行為と思われかねないからだ。そうなると、たとえば筆者がこのブログで「ザッパ・ニュース」と書くことも問題になる。「ZAPPA」が商標登録されているのであるから、それはそうだろう。このことに対して「それはいくら何でもひどい」という思いが、先の「遺産を破滅に追い込む」云々の言葉になっているのかもしれないが、それほどにザッパについて書くこと、またCDを日本で出すことにも大きな障壁がある。
さて、今日の2枚の写真は相変わらず昨年9月12日の駅前のホテル4階から撮ったもので、駅から南方を捉えている。白いタクシーがたくさん見える。これは以前駅前広場の円形の外周に並んでいた。阪急に無断で、恒例でそうしていた。それが、広場がリニューアルされて駐車する場所がなくなった。それでもなお2,3台程度は停められないかとタクシー会社は掛け合ったが、当然のことながら許可されなかった。市のものになった土地に民間の車が常時駐車していいのなら、市民はどこでも同じことをする。タクシー会社は数十年もの間、無料で駐車出来ていたことに感謝すべきで、市や阪急を恨んではならないが、今までただでよかったことがそうではなくなると文句のひとつも言いたくなるだろう。だが、「時代は変わる」で、新しいしきたりが出来るとそれにしたがわねばならない。その新しきしきたりとして、わが自治会では筆者が必死になって自治会の会則を現在製作中だ。これは自治会に参加している140世帯にアンケートを配布しながら少しずつ決めている。実は会則の全体は2年前に書き上げているが、その中で最も重要な項目がどのようにして会長を選ぶかだ。これが決まれば後はどうにでもなる。ところが誰しも会長の激務を知っているから、誰もが会長になり得るのであれば自治会を辞めると言い出す人が出るかもしれない。それを恐れるので、筆者の会則整備に反対意見を述べる人もある。ではほかに妙案があるかと言えば、ない。つまり、筆者に死ぬまで会長をやれと言うわけだ。前言を繰り返すと、こんな馬鹿な話はない。何度も書くように、自治連合会の全14の自治会のうち、わが自治会のみが会則なしで今までやって来た。そのことにみな慣れてしまって、まるで自治の意識がない。よその自治会に出来ていることがなぜわが自治会に出来ないのか。出来ないはずがない。ところが、先日書いたように、小学校で敬老の会をも開催しているのに、その敬老者に相当する老人が集まって運動場でゲートボールをしている。何をしても勝手ではあるが、遠慮という思いがないのか。あるいは思いやりだ。すぐ隣でたくさんの人が動いて老人のための会を開こうとしている。それを見れば普通ならば声をかけて手伝うか、あるいはそこまでしなくても設営の終わった会場に入って来て一緒に舞台を見るべきではないか。老人がそのように傍若無人に動くならば、若い人もしかりで、若者に文句は言えまい。来月7日に小学校で自治連合会の運動会がある。自治会対抗で点数がつき、豪華賞品が出る。またわが自治会からは参加者全員に弁当を配るが、口を酸っぱくしても当日参加する大人はごく少ない。筆者を入れてわずか4名だ。そのほかは体育委員と子ども会のふたりの若いお母さんが声をかけて集めた児童を抱える家族が加わる。わが自治会はまるで自治会に関心のない人ばかりだ。会則が出来ると辞めますという人が本当に続出するかもしれない。そうなってもかまわない。それが実態であるからにはどうしようもない。月が嵐山の向こうに半分隠れた。