●嵐山駅前の変化、その234(桜の林、温泉)
に退くのは面白くない。それで今日も投稿するこの駅前の変化のカテゴリーは週1回くらいがちょうどいいと思うが、去年撮って加工もした写真がたまっているので、相変わらず撮った順にそれを載せて行こうと決めている。



それでも没にする写真がある。一旦決めたことを途中で覆す行為で、それは予定が狂うことでもあって好ましくない。たとえばの話、今日は「その234」だが、1年前は「その235」としてWORDファイルに投稿の題名と写真の拡張子を記して保存しておいた。番号を振り直すことくらいは簡単なので、予定していた投稿が1回分減ったところでさほど手間を要しない。だが、用意していた写真の処置に困る。読者にはどうでもいい話だが、このカテゴリー用の写真は以前はMOディスクに保存していた。ところがディスクの読み取りがしばしば出来なくなって、壊れたファイルを復元出来ない支障が出た。それでヤフー・ボックスというサービスを利用し、そこにまとめて保存している。本カテゴリーに投稿する直前、そこにアクセスして目的の写真を探し、それらをパソコンのデスクトップにダウンロードする。WINDOWS VISTAではそのアイコンが小さな写真となって表示されるから、今日はどういう写真を載せるのか心準備が出来るし、投稿の際に間違わないで済む。そのデスクトップ上に、このカテゴリーに載せるつもりで用意した写真が2枚ある。去年9月2日、桂川から水を引く堰を撮ったものだ。それは工事写真ではないので、駅前の変化には関係がない。撮影時には例外的に載せるつもりであったが、1年経ってみると、やはり載せる場所がない。それで没になる可能性が大きい。消去すれば即座に目の前から消え、そしてたぶん記憶からも失せるので、迷わずにさっさと処分してしまうのがいいが、この10日間はパソコンを起動させてデスクトップ画面を見るたびに、その画像アイコンが気になって仕方がない。思い切って没に出来ないのだ。これは物を捨てることが苦手という性質によるだろうか。すぐに消さずとも、しばらくそのままにしていれば、別の写真と関連させて何か話題が見つかるかもしれない。そのようなもったいない主義は部屋を散らかしたまま平気になり、パソコン内部も不要なファイルだらけになりがちだ。残しておいても使わず、結局活用出来ないまま、大半はごみとなって消える。それはよく承知しているが、あくまでも大半であって、全部ではない。
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 さらにどうでもいいことを続ける。そうした使う可能性がきわめて低い写真を保存し、そのことが気がかりであることの精神的負担は、さっさと新たな写真を撮って載せる手際のよさが一方に日常的にあるので、ほとんど、あるいはあまり気にならずに済んでいる。精神病はそのバランスが崩れた時に発症するのだろう。手際よくことを運ぶべきであるのに、気がかりの方が圧倒する場合だ。そのため、人は気がかりを極力避けるべきと考える人があろう。だが、そう物事は単純に割り切れない。気がかりは自然に湧いて来る。なければ不安なのだ。気がかりは行動の根本理由と言ってよい。そのため、前述の堰と撮った写真のような、どうでもいい気がかりを作っておくと、深刻な気がかりが生じる隙間がないと、筆者は今出任せに思ったが、これも単純な問題ではないだろう。だが、どうでもいい気がかりが頭を占めている間は深刻にならずに済むのではないか。これでもかというどろどろしたシリアスな内容の韓国ドラマは、必ず脇役のおちゃらけな場面を用意している。全体的には現実にはあり得ない深刻さであるのに、それをぶち壊すような漫才的な場面が適当に挿入される。このことによってドラマ全体がかえって現実らしくなる。没にするだろう堰の2枚の写真が、シリアスな韓国ドラマのおちゃらけ場面と言いたいのではないが、それを思い出したところ、何か関連があると感じたのだろう。シリアス・ドラマにおけるお笑い場面は、息抜きだ。最初から最後までシリアスでは気分が滅入る。そのため、すぐにそれは全体がお笑いと化する。「こんなシリアスさは現実にあるわけがない!」と誰しも思う。そこでシリアスさをお笑いにしてしまわないために、あえてお笑い場面をほんのわずかに挿入する。この手法は戦前のハリウッド映画にすでにあったと思う。それを日本の戦後の漫画が模倣した。それが回り回って韓国ドラマに生かされている。では、没にしそうな筆者の堰の写真は、没にせずに陽の目を見る、つまり投稿する写真に比べてお笑いと言えるものか。そうなるためには、やはり投稿せねばならない。そうしないのであれば、筆者のブログは全部がシリアスかお笑いものになる。
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 ここで見方を変える。駅前の変化シリーズはごく小さな変化を見せるいくつかの定点観測写真を載せ続けている。その全体から見れば堰の2枚の写真は例外で、同じ角度の写真は今後も撮らない。つまり変化という点からは掲載はふさわしくない。美意識の点からもそうだが、完璧過ぎるより、ほんの少し例外を含ませる方がかえって全体が美しくなる場合もある。これは様式の美を膠着化させず、どこかに風通しのよい穴を開けて破綻を含ませておくことと言ってよい。その役目を堰の写真が負うと1年前は考えたのだと思う。このカテゴリーでは撮影から1年以内に載せることをいちおうは決めているから、9月2日の写真を今頃になって載せることは思いに反する。となれば、別のカテゴリーで使えばいい。そう思い至れば、やはりデスクトップからゴミ箱行きにしないに限る。パソコンを起動するたびに目障りである画像アイコンは、MOに移すか、ヤフー・ボックスに収め直せばよい。ところが、そうすればしたで、またすっかり存在を忘れ、数年も使うことがないかもしれない。やはり一旦機会を逸したことは縁がなかったと諦め、さっさと気がかりから消し去るべきか。そこで問題となるのが、画像を没にし、消去した時、その記憶もすっかり消えればいいが、パソコンと違って脳がやっかいであることだ。ボタンひとつで記憶が完全に消去されることはない。筆者が堰の写真2枚を今夜話題にしたのは、実はそのことについて書きたかったからだ。この自分の記憶を自在に管理するという能力は訓練で獲得出来るだろうか。出来たとして、その人格はコンピュータ並みにドライなものとなって、人間的ではなくなるのか。また、人間的でなくなればそれが得難い個性として他者からもてはやされるか。これは人によりけりだが、潔さというものは男の魅力であろうし、それはあまり些細なことに執心しないことで具わるものかもしれない。となれば、最初に書いたように、筆者が退屈を嫌いながらそうでもいいことにこれほどの長い文章を費やすことは、潔さとは正反対の極致にあって常に精神病ぎりぎりの境地に立っていることを表わすかもしれない。そう書きながら、何について心が囚われていることを自覚している。だが、それはブログに書けばまずいことだ。今日の3枚は去年9月9日に撮った。地下埋設物調査が終了して塀が取り除かれたことがわかる。掘った個所は土を埋め戻した。これが温泉施設を建てるとなると、また掘り返す。
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by uuuzen | 2012-09-10 23:59 | ●駅前の変化 | Comments(0)


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