●池辺にて、その2
女神社という小さな社が奈良猿沢池の畔にある。その鳥居の前に立つのが好きだ。奈良に行く時には必ず寄る。そして池の中の亀を見る。



その亀は、前回訪れた冬場には水嵩が激減していたこともあってか、一匹も見当たらなかった。心配のあまり、近くに立った犬を散歩に連れたおじさんに話しかけて質問した。すると、池を浚って亀や鯉を全部捕獲したという話は聞かないので、底で冬眠しているのだろうという話であった。あれほどたくさんの亀が見つからないのは何となく不気味で、また見たいと思った。以前書いたように、26日の土曜日、ひとりで国立博物館の展覧会に訪れた。無数に近い亀が気持ちよさそうに泳ぎ、また甲羅干ししていてほっとした。甲羅を干す場所はごくわずかで、亀は亀の上に乗り、またその上に乗り、また上に乗る。乗られた方は動かない。この平和的な光景が何ともいい。さすが4段目に登ろうとする亀はするりと落ちてしまうが、めげずにまた挑戦する。それもまた楽しい。だが、残念な光景も目にした。博物館に向かう前、采女神社から東へ50メートルほどの畔に立って水面を見ると、一匹の大きな亀が横向きになり、1本の足の先端がもげていた。また甲羅の上部の端も割れていて、死んでいるようであった。天気がよく、水温は高めだ。そのままではすぐに腐敗する。そんなことを思いながらたたずんでいると、40歳くらいのカップルが通りがかり、男が筆者につられて水面を見た。すかさず言った。「あーあ、亀が死んでいる。かわいそうに。仕方ないなー。生きているものは死ぬからなー」。亀は万年生きると言われるし、筆者は死んだ亀を見たことがないので、その光景は意外であった。どういう理由で死んだか。大きな鳥はたまに亀をくわえて飛ぶ。それを地面に落として甲羅を割り、中身を食べる。だが、そのようにして死んだのではないことはわかる。自然死だろう。たくさん泳いでいるから、死ぬものもあれば生まれるものもある。それにしても池の管理者が見つけて死骸を引き上げるべきではないか。あるいは管理者はいるのだろうか。また、猿沢池は広大というほどではないとしても、亀にとっては広いので、死骸ひとつくらいでは水の濁りもたいしたことがないかもしれない。さらに畔を進むと、今度は60歳くらいの婦人が泳ぐ亀を指差しながら、「あの格好、きっと気持ちいいのだろうね」と、旦那らしい男性に笑顔で話していた。全くそのとおりだ。水は濁って水面から10センチ下はもう見えないが、亀が首を水面に出しながら泳ぐ様はどこか滑稽で、またのんびりとして心和ませる。平安神宮の神苑の池にも亀はいるが、鯉の方が圧倒的に多い。猿沢池の亀は異常な数としか言いようがない。これは観光客が鹿に与えるような感覚で、餌やりをするからだろう。亀専用の餌は畔に立つ茶屋で売られていたように思う。鯉の餌と同じ麩だ。それがあまりに多いと池の中は酸欠状態になって亀も鯉も共倒れになるように思うが、そのあたりのことを管理者は考えているだろうか。それも管理者がいてのことで、そういう人ないし機関があるのかどうかは知らない。
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 采女神社には由来書きが立っている。采女は天皇の身の周りの世話をする女だが、全員が天皇の目にかなうはずはない。また、一度目にかけてもらってもそれきりになる場合の方が多いだろう。江戸時代の大奥と同じだ。一生お声がかからずに老いてしまう場合もあったはずで、権力者は子孫を絶やさないためとはいえ、残酷なことをする。いつの時代でも男はそういう部分を持つ。ちょっとした会社の重役、あるいは金回りのいい有名人になると、必ずと言ってよいほど妻とは別に女を抱える。それが甲斐性とされている。本当はそういう女性を抱えると悩みを増やすことになってしんどいだけだが、そのしんどさに自ら突き進むのが男の悲しい性だ。遺伝子にそういう意思が組み込まれているとしか思えない。女もそれをよくわかっているのではないか。また、そのようにほかの女に目を移す男をいやと言いながら、女に淡泊で奥手の男には魅力を感じない女性も多いように思う。男の活力が絶えず外に向いていれば、表情にエネルギーがみなぎっているように見えるからだろう。女も同じだ。たくさんの男に言い寄られていると、自信がついてより雌としての魅力を発散するのではないか。だが、女性は卵子が年々劣化するのに対し、男は精子の数は減少しても女性のように早く生殖能力は衰えない。そこが中年の男がしばしば10も20も年下の女と関係を持つ理由になっているだろう。昔の天皇もその点ではきわめて動物的で、周囲に多くの美しい采女をはべらせた。それを思うと、明治以降の天皇はかわいそうな気がする。世間では相変わらず、力のある男は次々と女に手をつけ、妊娠までさせているというのに、天皇家では一夫一妻が守られている。そういう天皇を世間の男は鑑とすべきなのに、それが守られていないところに、何となく日本の将来も見えているのかもしれない。だが、今さら天皇の周囲に采女を置き、それを寵愛させるとことは出来ないだろう。だが、それも一考だ。そうすれば後継ぎの問題も解消するのではないか。それはさておき、采女神社には悲しい言い伝えがある。采女を祀るので小さな神社であるのは納得だが、なぜ祀るかと言えば、やはり悲しいその人生を思ってだ。平安時代、天皇から見向かれなくなったある采女が猿沢池に飛び込んで死んだ。死体は先に書いた亀と同じように池の淵に上がったであろう。天皇はその霊を慰めるために畔に神社を建てたが、小さな祠は一夜のうちに池とは反対の方向を向いたとされる。池に面して赤い小さな鳥居が立ち、その奥の祠は鳥居とはちょうど180度反対の方角を向いて建つ。それほど悲しい采女であったということだ。この采女はもちろん美女であれば誰でもよかったはずはない。天皇に直接触れるような立場にあるから、日本中の由緒ある家柄から選ばれた。ま、献上といったところだが、自由恋愛して田舎の逞しい青年と結婚すればどれほど幸福であったかわからないものを、そうもいかない思惑という事情があった。上流社会ほど結婚相手に不自由するのは今も同じだ。恋愛は今は隠れて平気でやる時代になったので、上流社会も下層社会ほどかそれ以上に性は乱れているかもしれない。猿沢池の亀は自由恋愛として、上流社会か下流かとなれば、有名な池であるので上流か。
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 天気のいい日にぶらりとひとりで奈良公園を歩くのはいい。家内と一緒でも気を使う。ひとりならば全く自由にどのような速度で歩いてどこへ行ってもよい。そう言いながら、目的の場所へ直行し、用事が済むとほとんど珍しいどこへも立ち寄らずに帰る。それはけっこうな時間、電車に乗るからでもあるし、また展覧会を見ればそれだけでも疲れるためだ。日帰りならばそうなるのも仕方がない。さて、今日は正午少し過ぎに客があり、4時間ほど取られた。それでどっと疲れが出て、予定がかなり狂った。それでもいつものように、夕方7時にムーギョに向けて家を出た。すぐに夕焼けを見た。また空の半分はほんの少しだけ黄ばんだ水色で、それもまたとてもきれいであった。今日はその空を見ただけで大満足だ。夏の空はいい。昨日の雨のせいか、気温は20度もなかっただろう。半袖ではくしゃみが出た。それでも汗ばまないのが何よりだ。トモイチで買い物をしている時に、太った30歳ほどの男がコーラの大瓶を籠の中に入れた。それを見て棚に行って同じ瓶を手に取ると、それが1.5リットルであることを知った。めったにそのような大瓶を買わない。先日の「池辺にて、その1」に、京都駅に家内と出て駅前のヨドバシ・カメラの地下のスーパーでコーラの同じ大きさの瓶を買ったことを書いた。ブログにはそれを1リットルとしたものの、どうも違うと感じていた。1リットルの牛乳はよく買うし、それと比べてかなり重かった。だが2リットルもないだろう。それを今日確認した。帰宅後、早速ブログを訂正した。それにしても1.5リットルは重い。それを買ってヨドバシ・カメラ1階のロッジア空間で家内と飲んだが、上から5センチほどがなくなっただけであった。1リットル以上入ったものを自宅まで持ち帰り、全部飲み干すのに翌日の夕方までかかった。とっくに気が抜けていたが、瓶ごと振れば炭酸がまた沸くかと言えばそうでもない。清涼飲料水の話をするのは理由がある。奈良国立博物館で展覧会を見た後、また猿沢池に戻って同じ畔を歩いた。すると、亀が死んでいた場所の岸に黒山の人だかりだ。屋根に清涼飲料水の缶をの巨大なものを大砲のように斜め上に傾かせて載せている車があった。見ると、ふたりの若い女性が100ミリリットルの小さな缶を配っている。無料の試飲だ。その人だかりに割り入る勇気がなかった。また亀を観察しながら、そして采女神社の由来を読んでいると、やがて人だかりがほとんどなくなった。もう試飲缶はないかと思いながら、若い女性に話すのもいいと思って、雄牛のごとく赤く意を決して接近して話しかけると、幸いまだたくさん冷えた缶がトランクの内部に保管してあった。「見なれないメーカーですね。」「そうですか、けっこう京阪神では宣伝で回っているのですよ。」「京都では見ないですね。」「そうですか、まだまだ宣伝不足ですね。」といった会話をしながら飲んだ。ジンジャー・エールのような味でおいしかった。RED BULL(レッドブル)という製品で、オーストラリアではなく、オーストリアのものだ。ひとりでは自販機で売られる缶では量が多い場合がある。100CCは少なめだが、ちょうどよかった。飲み干した後、彼女らが入るように、また亀の死体が浮いていた場所に行って写真を撮った。それが下のパノラマだ。クリックで拡大する。池の奥に見える赤い鳥居は采女神社だ。亀の死体はもうなかった。おそらく沈んだのだろう。何事もなかったかのように池ではあちこち亀が泳ぎ、また甲羅干ししていた。

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by uuuzen | 2012-06-22 23:59 | ●新・嵐山だより | Comments(0)


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