●『すべての僕が沸騰する 村山知義の宇宙』
作なチラシで、右下に赤塚不二夫の漫画が描かれ、それが村山知義とこの展覧会の題名の図示となっている。この漫画の一コマがいつ描かれ、生前の赤塚が村山を知って描いたのかどうか、そのことはチラシのどこにも書かれていない。



d0053294_13431220.jpg展覧会場でも同じで、また会場にはこの漫画の展示はなかった。ということは、展覧会の題名に合わせて赤塚プロダクションに描いてもらったものか。そうであってもそのことがどこかに触れられてしかるべきと思うが、図録にはあるかもしれない。この漫画は「おそ松くん」に登場する「チビ太」と「いやみ」を足して二で割り、しかもダンサーでもあった村山の姿をなぞっている。こういうイラストがチラシに印刷されるのは、本展を若い世代に見てもらいたいためであろう。その思いが成功したのかどうか。筆者は「アンリ・ル・シダネル展」と同様、二度見た。どちらもそれなりに多くの人が入っていて、比較的地味な作家を取り上げたにしては大成功ではなかったか。二度訪れたのは、展示数があまりに多く、全部消化し切れなかったからだ。とはいえ、二度目も後半は流し見した。これほど点数の多い展覧会は初めてではあるまいか。とはいえ、村山の紹介は今までに何度もなされ、半数ほどは見たことがある。企画展の内容に困って村山に登場してもらったのか。それもあろうが、型に嵌らない芸術家が近年多いので、その先駆として村山を押さえておこうという意味合いが大きいだろう。村山のような多方面に活躍した万華鏡的芸術家は、今回「日本のレオナルド・ダ・ヴィンチ」と紹介されたように、よく言えば途轍もない大物だが、悪く言えばどの分野でも中途半端で、何をした人かわかりにくい。そして、日本ではだいたい後者の意見に傾きがちだ。「この道数十年」といった作家が重視されるのは、農耕民族としては当然で、地道に努力して初めて才能が大輪の花として開くと思われがちだ。また、そのようにこの道一筋のタイプは団体を作りたがり、そこで協力し合いながら年功序列本位でピラミッド型の上下関係を設ける。そういう組合的集団に属さない狩人型の作家は異端として無視され、世間的評価も受けにくい。村山はそうした閉鎖的な村社会に留まらなかった。そんな作家も日本にいることがもっと知られるべきで、本展は村山の業績、人間関係、そして1920年代の空気を知るのにいい機会であった。
 村山は画家としての評価が定まっていて、日本美術の画集でも作品は紹介される。クルト・シュヴィッタースのようなダダ的な構成主義で、日本が同時代的にベルリンの芸術を吸収していたことの証となっている。村山がベルリンに向けて旅立ったのは1922年2月、21歳だ。船旅で、費用も今とは比べものにならず、一生に一度の思い切りが必要であった。そうであるから、しっかりと現地を見聞し、また知り合いも作った。ベルリン行きは明治以降の画家の洋行からしてさほど突飛なものではなかった。意欲のある者は外国に行って先端の画風を吸収することを望むのはあたりまえだ。そんな気風はたとえば白樺派が牽引した。その結成は1910年だ。会場のパネル説明にあったが、作曲家の山田耕筰は同年からベルリンに学び、1913年暮れにシベリア鉄道で帰国、翌年日比谷画廊でドイツのアヴァルド・ヴァルデンか預かって来た作品を「Der Sturm 木版画展覧会」として公開した。これが、東京が世界のモダニズムと直結した機会とされる。当時村山は13歳、時代の新しい空気を吸収するのに最適な時期であった。日比谷画廊では早熟の東郷青児が1915年に18歳で個展を開催して画家デビューをしている。また、久米民十郎という画家は1914年前半に渡欧、ロンドンで学び、詩人イェーツやエズラ・パウンドと交流、ヴォーティズム(渦巻派)に接触して神秘思想にも染まった。1920年に帝国ホテルで個展を開催するも、1923年に30歳で亡くなったこともあって、あまり知られていない。「鶏の夜鳴きする声」という同年作の油彩は、絵具の下から上へと垂れ、画布を逆さにしたことがわかるが、ベルリンで学んだ村山の作品とは違う不思議な静けさを見せる。また、日本では海外のそうした動向に触発されて1920年9月に、当時20歳の柳瀬正夢らが未来派美術協会を発足させ、柳瀬は同年に6回目の個展を門司で開いている。同じ頃、ロシア未来派の父を自称するダヴィト・ブルリュークとヴィクトル・パリモフが作品を持ってウラジオストック経緯湯で来日、東京、大阪、京都で作品を展示している。こうしたまさに沸騰していたと言うにふさわしい当時の新しい美術の動向の中、村山は単身で渡欧する。
 村山は前年夏からベルリンに滞在していた旧友の和達知男の助力と案内で画廊、劇場、音楽会に通う。和達の絵画は今回10点ほどが並んだが、ドイツ語が堪能で、詩が高く評価され、舞台芸術も手がけた。残念なことに結核を患い、1924年にパリ経由で帰国、翌年東京で亡くなっている。自画像を見ると、眼鏡の奥の眼光が鋭く、夭逝が惜しまれる。こういう才能がたくさんあった中、村山は生き延びて思う存分仕事をした。東郷青児の義弟である永野芳光も村山と同世代の画家で、村山がベルリンに着く直前、パリからベルリンに移ったばかりであった。彼は5月に19か国344作家による83812点の「第1回デュッセルドルフ国際美術展」に村山とともに出品し、そのことは帰国後の「マヴォ(MAVO)」の国際的ネットワークの形成に反映した。1916年、チューリヒに生まれたダダは、2年後にドイツで最初にベルリンに飛び火し、ダダ宣言がなされされた。村山の枠に収まらない活動は、そんなダダの影響を強く受けている。ベルリンで村山は目まぐるしく関心を移した。見るもの聞くものすべてが新しく、貪欲にあらゆる個性に惹かれたのは無理もない。だが、一方で冷静であったのは、最先端のさまざまな芸術に遭遇しながら、自分のやりたいことを見定めたからだ。パネルの説明では、彫刻家のアーキペンコ、カンディンスキー、クレー、そしてグロスについても関心を寄せている。話が前後するが、村山は将来画家として身を立てるためにドイツに行ったのではない。東大哲学科を中退してまでもドイツ行きを決めたのは、キリスト教を学ぶためであった。それが多くの絵画を見る間に芸術創作に身を投ずる決心をする。グロスへの思いは後の村山のプロレタリア美術の活動に影響を及ぼしている。それとは別に今回特に目を引いたのは、映像の紹介があった少女舞踊家のニッティー・インペコーフェンのダンスに熱中したことだ。それは帰国2か月前の10月頃のことだ。彼女については村山の文章も紹介された。絵を描く傍ら、舞踊に関心を抱いたことは村山の多角的な活動の萌芽で、帰国後は最初に書いた赤塚不二夫のイラストのように、おかっぱ頭に貫頭衣を着て踊り始める。その写真が大きく引き伸ばされて数枚展示された。今見ても前衛そのもので、よほどニッティーの踊りに衝撃を受けた。村山の帰国は1923年1月で、1年に満たなかった。資金その他問題があったことと、もう充分に見たという思いからだ。「美の規範が失効した時代には、芸術家は主観的美を意識的に反動物へと転化させ、この一瞬の振動を弁証法的に構成せねならない」というのが当時の村山の思いであった。この表現はダダでありながら、構成主義的でもある。当時の絵画はオブジェを貼りつけたレリーフ状のものが大半で、残ってないものが多い。今回は雑誌などでモノクロ写真でのみ知られる作品を可能な限り原寸大に拡大し、それらを実物の作品の間に並べた。幸いにも比較的大きな作品がいくつか伝わり、それらからでも充分に村山の作風はわかる。いかにもベルリン・ダダに触れた模倣作と言ってしまえば身も蓋もないが、そうした絵画は20年代半ばまでだ。帰国して数か月後の5、6月には「三角のアトリエ」と言われた自宅で「意識的構成主義的」個展を開催し、共感者が集まった。「マヴォ」の結成は6月下旬で、7月に浅草の伝法院で第1回個展、8月は二科に対抗して落選作品移動展を開き、これが人騒がせなこととして新聞が取り上げた。7月は機関誌「マヴォ」の発刊、村山は第4号まで担当した。3号は表紙にかんしゃく玉を貼りつけて発禁処分になるが、こうした面白い考えは、音楽で言えば「パンク」に相当し、若気の至りを思わせる。9月は関東大震災があり、村山はそれからの復興を意図し、マヴォは建築団体に混じって行動する。村山はドイツに渡航する以前の1921年にフランクロイド・ライトの帝国ホテルの建設を見て建築に開眼した。現存しないが、村山のデザインした建物に、「銀座バア オララ」、「マヴォ理髪店」があり、また「葵館」という劇場では緞帳のデザインを担当した。
d0053294_13402117.jpg

 村山は帰国後に自由学園の講堂で創作ダンスの練習をひとりで重ねたが、それを披露する機会が1925年にあった。これは前年12月に築地小劇場の第17回公演「朝から夜中まで」の舞台装置を担当したことがきっかけであった。村山は日本でもドイツと同じような演劇が上演されることに感動し、舞台装置を作らせてほしいと申し出た。「朝から夜中まで」のそれの模型は以前にも同じ京都国立近代美術館でも展示されたことがある。前もそうであったか記憶が定かではないが、今回は当時のオリジナルの模型と、新たに製作されたものが展示された。この装置は照明を変えるだけで全幕を通して使われるもので、合理的でありまた当時の前衛の雰囲気に満ちて面白い。これによって村山の名は演劇界に広まり、1925年結成の「心座」の仕事によって劇作家、演出家としての活動を開始し、「心座」の第1回公演にダンスを披露した。このことがあって、村山はマヴォを脱退し、プロレタリア文化運動に傾倒して行く。同文化の伝播には漫画やイラストが効果があることを見、1926年8月は柳瀬、下川凹天らと「日本漫画家連盟」を結成、12月には「ユウモア」を創刊している。また1930年の「プロレタリア美術のために」の中で、同文化の進展には漫画や多色リトグラフ、フォトモンタージュなど、新しい技術と媒体を利用したグラフィック・アートが不可欠と述べている。そこから本展のチラシを見ると面白い。赤塚不二夫ばりの漫画があることにも納得出来るし、またチラシ上半分に印刷される極太の線で囲まれた箱内部ごとの村山の作品もそうだ。この極太の線は、機関誌「MAVO」の様式で、どのページにも文章ごとの区切りに用いられる。また、たくさんの箱が並ぶのは、20年代前半の仕事の中にレリーフ状の絵画とは別に後のジョセフ・コーネル張りの箱型作品を思わせるし、村山の頭の中にたくさんの引き出しがあって、それらから自在にアイデアを生み出したことを示唆する。また、村山の漫画やグラフィック・アート云々の言葉は、彼がドイツに行く前から始めていたイラストの仕事への見直しでもあるが、ベルリンで痛烈な社会風刺を表現するグロスの作品に触れた意味は大きい。話が前後するが、ドイツ滞在中にはオットー・ディックスを思わせる人物画を何枚も描いており、その画風は晩年まで続く。構成主義とは正反対のそうした北方ルネサンス風の写実は、岸田劉生も手がけることになるが、本場のものを見て来た村山の作品はもっと生々しい時代の息吹を伝える。だが、村山はそんな画風にもこだわらず、グラフィックへと向かうのは、機関誌「MAVO」にも表われているように、印刷に関心が大きかったからだ。これは10代で子ども向けの雑誌のイラストを描いていたことの影響だ。この印刷物への仕事が膨大にあって、その展示が本展後半に詰め込まれた。本やポスターなど、印象的な手書き文字が躍るそれらの印刷物は、地道にに探せば古書市場で今でも入手出来るものだが、整然かつ膨大に並べられると、デジタル時代にはない独特の体臭が立ち上る。また、それらは現在の漫画やアニメにも影響を及ぼしており、その面からも村山の存在の大きさが今後は認識されるだろう。
 そのひとつの仕事として、本展のほぼ最後に白黒の短編だが、アニメ「三匹の小熊さん」が上映されていた。1931年の制作で、これを村山は「線映画」と称していた。1925年から28年に連載された3話がもとになったもので、手塚治虫の生年が1928年であることを思えば、村山の先駆者ぶりがわかる。また、「線映画」と題しているのは、現実のものを撮影する写真や映画が影を捉えるものであることからして、日本独自の芸術という思いがほの見える。もっと言えば、アニメは日本の長い伝統から必然的に生まれたものとの見方だ。日本の絵画は線を基本にする。それは筆によるものだが、村山はイラストをペンで描き、またそうした線による漫画的イラストが、グロスの手にかかると社会風刺にもなることを見て取り、線一本であらゆる表現が可能であることを実感し直したであろう。村山は神田の生まれで、父は開業医であったが、結核で死ぬ。それは村山が9歳の時であった。母は内村鑑三に師事するクリスチャンで、夫の死後は婦人之友社の記者として一家を支えた。また村山の妻は村山より2歳下で1903年に高松に生まれた。女学校を出た後、自由学園高等科の第一期生となり、卒業後「婦人之友」誌の記者として取材するかたわら、「子供之友」誌に童謡や童話を発表した。それに村山はイラストを描き続けた。村山の最期の言葉は「演劇万歳」であったと思うが、それほど演劇にのめり込んだのは、厳しい家庭に育てられ、演劇を見るなどもってのほかとされていたことの反動と、縁日の際に祖母にこっそり見せてもらえた舞台劇が強烈な印象を留めたためだ。20代の村山が妻と一緒に収まった写真が数点紹介されていた。それは現在の芸術を目指す若者と同じ雰囲気で、いかにも自由人らしい。それはキリスト教に基づく自由学園の存在が大きい。ついでながら、自由学園は1921年創立で、「婦人之友」「子供之友」を創刊した。
[PR]
by uuuzen | 2012-06-13 23:59 | ●展覧会SOON評SO ON | Comments(0)


●嵐山駅前の変化、その211(... >> << ●『今 和次郎 採集講義…考現...
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31
以前の記事/カテゴリー/リンク
記事ランキング
画像一覧
ブログジャンル
ブログパーツ
最新のコメント
ご指摘どうもありがとうご..
by uuuzen at 12:22
Frank zappa ..
by ザッパ at 08:30
何年も前に書いた文章に感..
by uuuzen at 16:20
はじめまして。興味を引く..
by 文学座支持会元会員 at 11:15
最近あまりに多忙で録画は..
by uuuzen at 15:31
唐突に失礼いたします。ど..
by タイタン at 14:59
暴力事件は訴えても警察が..
by uuuzen at 15:11
地下鉄の件事件になります..
by ネイル at 19:07
上から目線で頭が悪い人
by 名無し at 08:13
上から目線で頭が悪い人
by 名無し at 08:13
最新のトラックバック
http://venus..
from http://venusha..
ファン
         ブログトップ
  UUUZEN ― FLOGGING BLOGGING GO-GOING  © Copyright 2017 Kohjitsu Ohyama. All Rights Reserved.