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●『戦後六十年 戦時下の俳句と絵手紙』
13日に奈良県立美術館に行った時、出口近くでこの展覧会のチラシを見つけた。伊丹市立美術館の建物に併設される柿衞文庫は、芭蕉や蕪村の俳句に興味のある人なら一度は訪れるべき小さな展示室だが、そこがわざわざカラー刷のチラシを用意して展覧会を宣伝することは珍しく、この展覧会もそのチラシを目にするまで開かれていることを知らなかった。



●『戦後六十年 戦時下の俳句と絵手紙』_d0053294_028234.jpgそれで18日に行って来た。先日の『無言館展』にも書いたように、伊丹市美では2、3年前に前田美千雄の絵やはがきを並べた展覧会が開かれた。今、手元には今回の展覧会で入場の際に手わたされた6ページの年譜や出品目録を印刷して綴じたものがあるが、それで確認すると、2年前の8月に『戦場から妻への絵手紙』と題する展覧会が同館で開かれていることがわかる。これが前述の2、3年前に観た展覧会のことだ。ちょうど2年目にしてまた同じような内容の展覧会が同じ建物で開催されたことになるが、今回は前田美千雄が残した絵はがきの半分ほどの整理がつき、図録もきちんと用意したうえでのもので、それに柿衞文庫での展示は前田とは直接関係のない『戦時下の俳句』という展示で、伊丹市美での前田の『戦時下の絵手紙』展と併せて『戦時下の俳句と絵手紙』とチラシには題されたわけだ。ふたつの展覧会の展示品は直接には関係はないが、戦時下という点で共通するし、俳人と画家という文字と絵の差はあっても表現者としては同じということで、ふたつを一緒に見るのは相乗効果もある。前田の絵はがきが柿衞文庫のコレクションになった経緯は後述するが、運命的な出会いと言えるものがあり、無言館ではなくて地元の美術館の所蔵になったことは前田にとっても幸福なことであった。このコレクションは今後ますます柿衞文庫にとっては重要なものとなって行く気がするが、その意味でも2年と言わず、毎年夏に展示されるのがふさわしいと思う。
 最近の新聞の片隅に、戦時中の俳壇の中に国家権力にしたがって積極的に戦争に関する俳句を詠んだ人々がいたことが書かれていた。それはわずか2、3行の短いもので、戦後は俳句第三芸術論が出たりしたと文章が続いていたが、全体としては戦争俳句を論じる記事ではなかった。だが、その戦争俳句に関するわずかな記述がかえって鮮烈で、戦争画家があれば当然戦争俳人と呼べる存在もあったのだと初めて認識させられた。ちょうどその戦争俳句に関しての展覧会が今回の『戦時下の俳句』であった。人は興味を抱けば、予期しない間に何でも向こうからやって来る。そうした因縁めいたことを改めて思う。俳句の展覧会であるので、俳句が載せられた雑誌の表紙をガラス越しに眺めるよりも俳句を実際に読んで味わう必要があるが、幸いなことに全8ページの、『戦時下の絵手紙』と同様の無料パンフレットが配付されて、そこには会場の説明パネルにある文章や俳句が漏れなくびっしりと掲載されている。以下に書く内容はそこからの引用が中心となる。『戦時下の俳句』の展示の最初は京大俳句事件に関する資料だ。「京大俳句」は昭和8年(1933年)に創刊された俳句雑誌で、メンバーは京都在住の京大関係俳人が中心となり、研究員が平畑静塔ら14名、顧問に日野草城、水原秋桜子、山口誓子らがいた。作風の自由と批判の自由を内容とする自由主義を掲げ、やがて新興俳句運動の中心のひとつとなる。昭和12年の日支事変勃発後は戦争を素材としてヒューマニズムを高揚し、反戦色を強め、これが治安維持法違反の容疑となって、昭和15年2月から8月の3回にわたって主要メンバー15名が特高警察に検挙され、「京大俳句」は同年2月号で終刊した。今、手元のパンフレットに掲載されたわずかな俳句を読みながら、特高が容赦しなかった句は一体どういうものであったのかと思うが、草城の「青麦にいづれも赤き糞ンを置く」は、青麦にどういう象徴的意味を込めているのか知らないが、反骨精神が強く感じられる。「京大俳句」からではないが、同じく草城の「特派員声呑みぬ見れば泣きゐたる」「工兵の人柱こときれても立つ」「凱旋の夢をみたりき短き夢」といった句が反戦的だと言われるのはよくわかる。
 「京大俳句」の次は「新興俳句弾圧事件」のコーナーで、これをまた簡単に説明する。昭和6年から15年までの10年間、反伝統・反「ホトトギス」を掲げた新興俳句運動があった。前期は水原秋桜子が「ホトトギス」を離脱して「馬酔木」を主宰した出来事から昭和9年頃まで、中期は日支事変勃発頃まで、後期は日支事変後と、3つの時期に分けられるが、中期から運動は全国的なものとなり、後期には戦争の現実をヒューマニズムに立脚して詠むものへと変わり、前線で迫真的な俳句を詠んだり、戦争を風刺したり、戦火を想望する俳句が試みられた。新興俳句運動の総合誌「天香」は昭和15年に創刊されたが、京大俳句弾圧事件後に運動は終息した。次に「戦争俳句」の説明を簡単にすると、日支事変から第2次大戦までの間、戦争を対象として積極的に作品化しようとする動きが起こり、諸俳誌は戦争俳句で埋まった。招集を受けた俳人が戦地で詠んだ前線俳句と、銃後俳句に分けられ、後者には報道に取材して内地で作る戦火想望俳句もあったが、戦争を素材として扱った初期の風潮は、次第に国家権力の動向に追随する動きへと変化した、ということになる。前線俳句としては、富沢赤黄男の「戦闘はわがまえをゆく蝶のまぶしさ」「一輪のきらりと花が光る突撃」は戦場にも自然の美があることを示し、まるで映画の一場面を見る趣がある。長谷川素逝の「霜おきぬかさなり伏せる壕の屍に」「寒空銃声ちかしと目覚め服を著る」は生々しい前線の状況を描き、オットー・ディックスの銅版画を連想させもする。銃後で詠まれたものは従軍した者が現地で詠んだものにはやはりかなわないようで、前線にあってなお創作を忘れない冷静さは、創作者の信念を改めて伝える。パンフレットには国家権力への追随を示す俳句の例が掲載されていないのが残念だが、そうしたものはわざわざ示す意義がないということか。最後のコーナーは「内地における戦時下の俳人」で、紙不足による俳誌の統合や廃刊が相次いだことを伝える。芦田秋窓の「焼夷弾投下すや春の闇寒く」「行けとゆけとたヽ痛憤の焼野かな」は「敵機空襲」という画巻に記された句だが、大きく描かれた防空頭巾がまるで蕪村や呉春の作風をどこか感じさせるのが、さすが上方文化の伝統を感じさせると言えば的外れな意見かもしれないが、時代が変わっても俳句の伝統をそれなりに受け継いでいる確かな証拠がここにはある。
 柿衞文庫の部屋を出ると伊丹市美の展示室になるが、その半分を使用して『戦時下の絵手紙』の展示があった。絵手紙とあるが、実際は軍事郵便はがきの裏面全部に前田美千雄が水彩でスケッチし、表の宛名書きの下にその説明文が書かれたものだ。これを前田は毎日書いて妻の絹子に送った。今回はその中から中国から送られたものを中心に300点が展示された。また現在京都文化博物館で開催中の『無言館展』では、全728枚のうちから金沢から送られた数点が展示されている。その中には絹子からの速達の封書の宛名面をそのまま模写したものがあって、赤紫色の東郷平八郎の切手がそっくり同じ色で描かれていたのは妙に生々しかった。次にパンフレットにある年譜から簡単に引用しておく。前田美千雄は大正3年(1914年)に神戸垂水区に生まれ、5歳で東京に転居した。叔父に俳人の横山蜃楼がいる。妻となる堀江絹子は5歳下で神戸市東灘区の生まれだ。美千雄は絹子の従兄で、絹子の初恋の相手であったというから、まるで純愛ドラマのような状況だ。昭和12年に東京美術学校を卒業した美千雄は三越美術考案部に就職し、絹子と婚約する。翌年入隊し昭和14年に日中戦線へ赴き、17年に除隊。翌年絹子と結婚して東京に住み、画業に専念するも結婚1年にして再召集、金沢の部隊に配属。翌19年にフィリピンのルソン島に上陸し、以後絹子とは毎日手紙をやり取りする。絹子は空襲警報のたびに美千雄からの絵手紙の入ったトランクを抱えて防空壕に避難し、19年に美千雄のすすめで神戸の実家に疎開する。昭和20年8月、美千雄はマニラ東北の山中で戦死とされる。遺骨、遺品はなく、中国、金沢、フィリピンから届いた絵手紙728枚が形見となった。昭和22年、絹子の実家が神戸から伊丹市に移り、絹子は岡田柿衞の文学講座に出席して交流が始まる。昭和41年、絹子高澤猛と再婚。昭和57年、岡田柿衞死去し、財団法人柿衞文庫創設。昭和61年、高澤猛死去。平成7年、絹子、戦後50年を機に初めて横浜で絵手紙展開催。平成9年、無言館が開館し、美千雄のスケッチなどが展示される。平成12年、絹子、柿衞文庫へ絵手紙や関係資料の寄贈を表明。平成14年、絹子、横浜の自宅にて死去。絵手紙を柿衞文庫へ送り出す準備をすべて整えた後のことだったという。
 通常の展覧会とは違って、はがきばかりが並ぶので、文字を読むのに時間がかかり、どうしても後半は疲れて来て流して見てしまうことになるが、絵は主に中国の風物を描くもので、戦争という緊張感はあまりない。たまに俳句を書いたものもあって、これは叔父の影響か。美千雄は戦車乗りで、写真で見るとその戦車はひとりかふたり乗りのまるで玩具のように小さい。そんな戦車でどのような戦いが出来るのかと思ってしまうが、中国戦線はその後の戦いに比べるとまだのんびりしたものであった。それでもはがきの文章を順に読んで行くと、中国のどこもかしこも爆弾や銃で破壊され、例外的に無傷で残っている寺を写生したといったことに出くわし、やはり戦場であることを思い出させる。美千雄は絹子を心配させないために、知って戦争の悲惨な側面は伝えなかったらしい。中国の風景を見て初めて南画というものが中国から生まれたことを実感したとも書いてあって、こうした感想は画家ならではの貴重な体験談だ。絹子は画材とは別に雑誌みずゑや国華を送ったりしていて、戦地にあっても芸術を忘れない、忘れられない美千雄の姿が目に浮かぶ。スケッチブックも展示されていたが、どれもはがき大か、それより小さなもので、ポケットに邪魔にならずに入る。そうしたものをいつでもどこでも広げて絵を描こうとした気持ちは画家であれば当然とはいえ、いつ弾が飛んで来てもおかしくはない戦地を考えると、そう誰にでも出来ることではない。はがきも写生風にその場で描いたものが大半だと思うが、幾分は冨田溪仙を連想させるが、デフォルメすることなど考えず、もっと素直なタッチで、人柄が忍ばれる。かなり茶色の染みが出ているものが目立つが、修復するほどのものでもないだろう。ある1枚は表面の宛名書きと文章全体を墨で真っ黒に塗り潰していて、検閲を受けたわけではなく、自主検閲したのであろうが、戦時のものであるだけにどういう内容が書いてあったのか気になる。いつも戦闘状態ではなかったので、写生する時間もそこそこあったようだが、モーツァルトの交響曲40番はやはりいいといった文章には意外であった。写生が出来るならば、レコードを聴く時間があることには驚かないが、軍が当時の上海にまでプレーヤーやクラシックのレコードを持って行ったのであろうか、ちょっと不思議な気がする。それにモーツァルトの40番をいいと言う美千雄は音楽にも興味がかなりあったことを伝え、同時にその音楽がどういうものであるかを知っている者にとっては、その音楽の響きの向こうに美千雄の置かれた戦時中の中国を思って切なくなる。確か満月を描いたはがきもあったが、そんな夜に心細い地でモーツァルトの40番を聴くのはどういう気分だろうか。ソファの置かれた休憩コーナーにTVがあって、晩年の絹子の映像が流れていた。若い頃の写真から想像したのとは違い、小柄な人であった。ペンダントに取りつけられた小さな金属ケースを本人が開くと中には美千雄の顔写真が収まっていた。乙女のような恋心を一生持ち続けたことが伝わる。美千雄との夫婦生活はたった1年でも、728枚の絵はがきは一生の重い思い出となった。若い人が今後もずっと折りあるごとに見続けて行くべきものだと思う。美千雄の名前がきちんとした画業では残らず、こうした戦争をテーマにした文脈における小展覧会で語られるのは、美千雄にとっては本当は不本意であろうが、まとまった絵はがきが残されたことは他に例がないはずで、今後さまざまなことが明らかにされもするだろう。
by uuuzen | 2005-08-20 23:58 | ●展覧会SOON評SO ON
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