型枠の中に長いホースを使ってコンクリートを流し込んでいる。今日の写真は去年2月26日のもので、コンクリートを打つ長い管が、人間の体内を手術している様子に見える。
そうした手術の間は、患部以外は覆っているが、青いシートで囲まれた工事現場も同じようなものだ。シートの向こう側でどういうことが行なわれているのか、外からはうかがえない。だが、この写真とは正反対の、つまり現場の向こう側からこちらを見ると、そこはシートで覆われておらず、現場が丸見えだ。そこは住宅が5,6軒のみある狭い地区で、筆者は自治会の配りものをする時に訪れるが、去年はそのついでに数日に一度は工事の様子を見た。また、稀に写真を撮ったが、定点観測ではなく、このカテゴリーに投稿するつもりは最初からなかった。それは、表向きはシートで覆って人に見せないようにしているものであり、その内部状況を裏側に回って撮影し、その写真を公表することは、何となくつごうが悪いように感じたことにもよる。また、その地区の世帯は、シートで覆われていない分、工事の騒音がひどいようだが、シートの有無はさほど騒音には関係ないようだ。駅前広場に面した部分だけシートで覆ったのは、観光客に対する美観の配慮という面が大きいのだろう。それはともかく、青いシートで覆われた現場写真の投稿が毎日続くと、筆者も退屈で、早々にどうにかしたいが、今日で2月撮影の分は終わりだ。明日からしばらく別のカテゴリーに書くが、それが終われば去年3月撮影の分に移る。それらをなるべく集中して投稿し、現在の光景に早く追い着きたい。というのは、先日書いたように、新たな駅前の変化についての大工事が5月から始まるからだが、撮りためた写真をそれまでに全部投稿出来ない。さて、外からうかがえないことは、筆者の思いもそうだ。ブログにあらゆる心の動きを書いているが、それらは一見脈絡やまた意図がわかりにくいはずだが、筆者の内部ではみなつながっていると言おうか、書いた後で、『ああ、今日はこの思いが底にあってこういう内容になったな』と思い知る。その根底にある思いや出来事を本当は書くべきだが、きわめて私的な、実在の人物の近況に関することがほとんどなので、とてもそれは出来ない。それでもなお、日常の思いはそういう考え事や心配事に引きずられているから、ブログに書く文章はどうしてもその色合いを帯びる。にもかかわらず、読み手には筆者が一方で考えていることはわからない。それがいいのかどうかを一昨日は考えた。それでいい、あるいはそうでしかあり得ないという思いが結局勝つが、その一方で目下一番気がかりなことが毎日吐露することの出来ない状態に、ブログを書くことが時間の無駄でつまらないと思える瞬間もある。だが、誰しも本当に書きたいことを書いて人目に晒せば、それはあちこちで問題を引き起こす。小説家はたまにそんなことをして訴えられている。
最近ひとつ思い至った。それは筆者にとっては非常に珍しい。それだけ大人になったのかと改めて思ったほどだ。還暦であるので充分大人過ぎるが、それでもなおまだ大人に向かって成長を続けているなと自覚した。その思い至ったことは、これまたあまりに私的なことで書くことは出来ないが、実は何年もの間、筆者はかなり悩み続けて来たことがある。ところが、つい最近、それから脱することがとても簡単である気がした。どう簡単かと言えば、その囚われている思いを自ら変えればいいだけのことで、そう思った途端、今までの見方の反対をすればいいことに気づいた。これはあたりまえのようでいて、なかなかそういうようには思えないものだ。たとえば他人にその悩みを相談すると、あるいは同じような筆者が思い至ったのと同じ対処法を伝えてもらえる可能性がある。だが、誰しも私的なことを他人にあまり話したくない。それで自分で解決するしかないが、筆者が思い至ったことは、物事の表ばかり見ずに、裏を見ればいいことであった。いつも表から見て事態の変化がないことに腹を立てていた。だが、その立腹の対象を裏面から見ればどうかと考えてみた。すると、今までのこだわりはみるみるうちに氷解した。対象は相変わらずほとんど変化はないが、筆者の悩みの方は著しく減少した。そして、そうなると、対象も少しずつ変化するのではないかと思い始めている。これは実際そのとおりだ。これまでその対象は筆者に対して全方位の幕を張っていると思っていたが、実際はそうではなく、幕は筆者側にあった。幕を通して見ていたと言ってよい。それで、その幕の途切れの箇所に歩むと、その内部がよく見え、筆者がひとりで内部が見えないと立腹していたことがわかった。自分が変わればよいのだ。なかなかそれは出来ることではないようで、悩みを与える対象を憎悪したりする。これが大きな間違いだ。悩みは、自分の思いひとつでどうにでもなることがわかった。そして、一旦その方法がわかると、その対象に慈しみを覚えるほどになる。筆者はこういう思いを自分でつかみ取ったが、それが以前よりは大人になったためかと思う。このように書いていて、読者はさっぱり意味がわからない。いつもそれは承知だが、ひとつだけ書いておくと、人間は強く、また優しくあらねばならないと、これまたあたりまえのことを言っておきたい。