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●『ひめゆりの塔』
京都文化博物館の特別展を観る時には必ず3階の映像ホールで映画も観ることにしている。これが習慣になったのはここ1、2年のことだ。それは、ネットで調べると、映像ホールでどういう作品が上映されるかただちにわかることを知り、出かけるべき日の予定が立てやすくなったからだ。



それに、せっかく時間を作って河原町に出るならば、映画を観る2時間ほどをよけいに割くのは、不便でないどころか一石二鳥だ。幸い、映画を観るのは展覧会の後でも前でもよいことになっているが、上映は午後1時半と5時の2回で、5時のを観ればもう展覧会の会場は閉まっているから、そこを考えて出かける必要がある。それに映画の上映30分前にホールの扉が開くので、いい席に座りたいのであればさらに展覧会を観る時間は決まって来る。昨日書いたように、今開催されている特別展は『無言館 遺された絵画展』で、それに合わせた戦争をテーマにした2本の映画『きけわだつみの声-日本戦没学生の手記-』『ひめゆりの塔』がホールでは上映されている。今月下旬にはさらに『ハワイ・マレー沖海戦』『加藤隼戦闘隊』『ビルマの竪琴』『私は貝になりたい』の4本が予定されていて、本当は全部観たいところだが、チケットがまだ2枚手元にあって、2本は観られることになる。映像ホールでは毎月特集が組まれて、6ページほどの詳細な解説つきの無料プログラムも用意される。これはかなり貴重で、ありがたい。にもかかわらず、以前にも書いたことがあるが、あまりこの文化博物館の映像ホールの存在については知られていないようだ。満員になって入場が拒否されることは今までに一度もなかったし、むしろ必ず空いた座席がある。もったいない話だ。
 最近京都には新しい映画館が次々とオープンした。たとえば、先日の『ヒトラー』は四条烏丸交差点下がる西側のビル中の出来てまだ間もない小さな映画館で観たが、そこに行くのは初めてのことであった。つい先月だったか、JR二条駅西側にも小映画館をいくつか収容するシネマ・コンプレックスのビルが出来たが、この1年はその近くの中央図書館に行っておらず、二条駅あたりを歩かないので、どのような映画館が建ったのかは知らない。一方で四条大宮にあった東映が先月ついに閉館になった。しばしば通ったところなのでさびしい限りだ。もう20年ほどになるかもしれないが、四条大宮には洋画を専門に上映する二番館もあった。そのビルは目下解体中で、いずれ新しい大きな建物が建つ。今思い出したが、四条大宮下がるには20名ほどしか入れない映画館もかつてはあって、珍しい映画を上映していたが、いつの間にかなくなった。そうしたユニークな、あるいは歴史ある映画館がなくなるのと交代に、寺町三条下がるには2年ほど前にシネマ・コンプレックスのMOVIXというビルが建った。そうした新しい映画館はどれもゆったりとした座席で豪華な気分で映画が楽しめるが、それらに比べるとこの文化博物館の映像ホールは座り心地がはなはだ悪く、2時間も座っているとお尻が痛くてたまらなくなる。それでもここでしか上映しない映画ばかりと言ってよいので、重要な地位を占めている。
 筆者が沖縄にたった一度行ったのは1978年7月のことだ。その時数日滞在したが、移動はもっぱらタクシーを利用し、運転手にあれこれと訊ねたものだ。どこを観光しようかと思っていると、運転手曰く、「ひめゆりの塔は洞窟があるだけであまり面白いところではないので行かなくてもよいと思う」で、その言葉にしたがって訪れなかった。そのことがどういうわけか今も多少心残りになっている。ひめゆりの塔を訪れなかったのは、那覇市から南方にあったためとも思う。筆者は那覇市街はよく歩いたが、滞在したほとんどは那覇より北方ばかりで、南には行っていない。ひめゆりの塔を訪れなかったのはわざわざ南に出かける億劫さも影響した。つい先頃、ネット・ニュースで知ったが、どこかの学校の修学旅行時に、ひめゆりの塔は退屈で面白くないとか発言したことが問題になっていた。沖縄戦の歴史を本土では正しく伝えていないからだが、戦争の記憶がどんどん風化して行く中、改めて次世代に事実を伝えて行くことの重要さを思う。少なくともこの映画が撮影された時の日本人はそういう意識が強かった。もう今ではこういう映画は企画もされないし、仮に作ったとしても誰も喜んで観ないのではないだろうか。それを予想するため、よけいに映画は撮影されないという悪循環がある。SFXの技術を使って見栄えだけは派手な映像がどうにでも作れるようになりはしたが、そうなるにつれて重要なテーマを描く作品でもますます事実から遠のいた刺激性の強い娯楽作品に傾く。まだ『火垂るの墓』のように、いっそのことアニメにした方が訴求力が大きいと思える。
 今回の『ひめゆりの塔』は観たくて観たのではない。映画は展覧会のついでであり、昨日はこの作品しかやっていなかったのだ。映画が始まる前に20分ほど時間があったので、座席に着いてプログラムを全部読んだ。それでこの映画の内容についても予めわかった。1953年制作で監督は今井正、127分のモノクロ作品だ。殿山泰司などの知った名前があるので、親近感が湧く。筆者が2歳の時の映画で、そういう計算をして観るとまた印象が違う。戦後間もない頃の映画はみな音声が聞き取りにくいが、この映画も登場人物がみな早口で甲高い声で話すので、字幕がほしい場面が多かった。黒沢明監督の古い作品も今はデジタル処理して音声が以前よりましにはなってはいるが、それでもまだかなり聞き取りにくい。音声を録り直すことは出来ないから、もう字幕で対処するしか方法がなく、これはぜひ一考してほしいものだ。昔の映画は2時間という長めのものが多く、今のテンポの早い映画に慣れた者からすれば、多少退屈してしまう場面がないでもない。この映画も途中で2、3度居眠りをしそうになった。それはどういう結末を迎えるかは歴史的事実として知っていることも理由としてある。激しかった沖縄上陸戦に関してはアメリカ軍がカラーも含めてかなり多くの映像を撮っており、それらはよくNHKのドキュメンタリー番組で放送されるが、そうした事実を映したものに比べると、ドキュメンタリー・タッチとはいえ、こうした俳優を使った作り物の映画は迫力の点でどうしても劣るのはやむを得ない。しかし、この映画が撮影された当時はまだそうしたアメリカ軍が撮影したフィルムが日本では公開されていなかったはずであり、それを思えば、よくぞ1953年という早い時期に撮影されたことと思う。あえてアメリカ軍を全く描かず、爆撃や銃撃に逃げまどう日本軍やひめゆり部隊の足跡を辿ることにした結果、悲惨さがかえって増幅している。プログラムに書いてあるように、この映画は吉田茂が出席したサンフランシスコにおける講和条約調印の翌年の撮影であり、領土や賠償など、将来の日本がどのようになって行くかが正式に決まったことを受けての早速の問題提起であったと言える。その後随分経って広島の原爆をテーマにした『黒い雨』が撮影されたが、それ以降ははたしてこのような戦争の悲惨さを伝える映画が撮影されたであろうか。TVの毎年の特集番組がそれに代わって役目を担っていると考えることも出来るが、ドキュメンタリーではなくて、俳優を使った映画がもっともっと作られてよい。ブルーノ・ガンツ主演の『ヒトラー』という例があると思うからだ。
 戦後も長らく、そして今もなお沖縄問題は存在し続けているが、その大本がこの映画の中であますところなくすでに描かれていることに少なからず驚いた。俳優の声が聞き取りにくかったのでこれは曖昧な書き方しか出来ないが、沖縄戦は本土から援軍があるという話だったが、結局これは建前であって、いくら連絡しても援軍は来ず、沖縄は沖縄人が守れという一種の民族差別があったということだ。本土決戦を食い止める防波堤のような役目を背負わされ、長期持久戦で昭和20年3月から6月までの3か月間を戦うが、結局は島民25000人の防衛隊を含んで司令官以下が自決した。この映画はそれをひめゆり部隊の一部の生徒の目を通して描いたもので、想像はしていたが、今さらに醜悪な軍人の行動を見て戦争の無慈悲さ、無意味さを思った。その意味で反戦映画と言ってよいが、反戦という言葉を使うことで、どのようなものも一様な色合いを帯びて時にはかえって否定的な色眼鏡で見られてしまうことを恐れる。これは無言館も同じだ。反戦は反戦なのだが、反戦だけが目的というものでもない。プログラムにも書いてあるように、「感傷を廃したドライな表現が観る者の心をとらえ、公開当時600万人を越す観客を集めた」であって、登場人物が悲嘆のあまり声高に叫んだり、誰かを呪詛したりするシーンが全くないため、後からじわじわと観る者に何とも言いようのない戦争への憎しみの心が湧き上がって来る。終わり方がまことに呆気ないこともドライな表現と評される点で、さきほど居眠りしそうになったと書いたが、全体的には要所を的確に押さえた編集がなされて、話のテンポはむしろ早いと言ってよい。また、映画の中では女子生徒たちが沖縄民謡を歌ったり、香川京子演ずる生徒がキモノをまとって静かに踊るシーンがあるが、戦争のさなかにそれは一時の幸福な時間と言えるもので、大変美しく表現されていた。音楽は有名な古関裕而だが、沖縄民謡の編曲指導に沖縄の人が当たっている。今ならば沖縄民謡は全く珍しくはないが、これは当時としては珍しいことではなかったろうか。
 出演者は大きく分けて軍人とひめゆり部隊とその先生たち、それに看護婦、民間の老いた人や子どもたちで、庇護されるべき人が軍人たちの盾のような犠牲になっていた事実を描き、戦争が今さらながらに弱者に最も過酷な運命を与えることを思い知る。そうした人々は戦争反対を唱えることもないまま戦争に巻き込まれ、軍人たちは自分たちだけの保身に精いっぱいで、民間人の保護に関しては何ら政策を持ち合わせていなかった。同じ構図が本土対沖縄にもあったことをこの映画は示しているが、映画から半世紀が経って事情が変わったかと言えば、それはとても怪しい。それにしても戦後しばらくは人々がかなりおおっぴらにこうした反戦的映画を作るムードにあったことを思う。その後冷戦時代に入って、アメリカの事情を日本が受け入れて反共思想が幅を利かせ、反戦が共産主義につながるように見られるようになって事情はいささか変わったのではないか。戦争で日本は何も反省せず、学ばなかったのではないかとよく言われたりするのは、先のサンフランシスコ講和条約が日本にかなり有利に働き、日本の国民があまり戦争責任について考えて来なかったことも大きな原因としてある。戦争責任を考えて来なかったのは、来なくてもよい状態に置かれたことも理由としてあるが、戦後しばらくはまだこうした戦時を描く上質の映画があって多くの人が観たことを思うと、せめて新しく映画が撮られることはなくても、こうした古い映画を観る機会が今後も定期的に各地で持たれることを望む。
 3か月の間、どのようにして食料を確保し、食べて行くかという生存に関する重要な問題が細かく描かれていたこともよい。銃撃で殺されなければ恐らく餓死してしたに違いなく、そんな食を求めての悲惨な戦況は南方に行った多くの兵隊がもっと徹底的に経験した。弾に当たるのは恐いが、空腹という恐さもあったことを今の若者はなかなか実感出来ないのではないだろうか。映画では真っ白な握り飯を作るシーンや、空爆から隠れて野外で釜でご飯を炊くシーンは特に印象深かった。それに若い女性たちが体の汚れをどのようにして川の水で洗い落とし、井戸から飲料水を汲んだか、さらには生理の時はどうするかといった問題の描写も映画ならではの場面であって、実際のドキュメンタリー映画ではこうは行かない。その意味で事実を映した映像だけがよいとは限らないことをよく示していた。脚本はひめゆり部隊が残した手記を元にしているというが、実際の出来事からまだ8年しか経っておらず、ロケも含めて戦争当時と限りなく同じ場面を再現出来たはずだ。ただし、残念ながら沖縄は地形が変わるほどの爆弾の嵐であったため、首里城もなくなり、ロケをするにもかなり限定されたことだろう。最初の方で古い校舎が映った時は、もはやその建物はないに違いなく、映画ならではの醍醐味を味わった気分がしたが、大半はどこで撮影したかわかならい野原の場面で、それがまた現実がそうであったに違いなく、荒涼たる雰囲気作りには適っていた。ついでに思い出したが、『無言館展』では沖縄戦で壊滅する前の首里城を描いた油絵があった。筆者が沖縄を訪れた時、首里城跡にも行ったが、今は立派な城が再建され、あたりはすっかり変わってしまっていることだろう。だが、筆者の観たいのは戦前の首里城だ。映画の中ではまた、ひめゆり部隊の女子生徒が死んで、学友たちが鉄砲百合の花束を墓前に捧げる印象的なシーンがあった。百合の花は時期的にはちょうど合っており、実際そのようにして捧げられたのだと思うが、白い百合の象徴である女子師範学校の生徒たちが600人も過酷な戦争に駆り出されたのは、無言館の画学生の作品と同じく永遠に記憶すべきことだ。
by uuuzen | 2005-08-13 23:54 | ●その他の映画など
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