禅僧の本を読んでいると昨日書いた。今日はその続きをする。ところで、パソコンのCD-ROMプレーヤーが2,3週間前に動かなくなり、パソコンにつないでいる緑色に光るスピーカーで音楽を聴くことが出来なくなった。
それで、部屋の端に置いているステレオで音楽を聴いていたが、これは音が大きく鳴り過ぎるので、深夜は不便だ。さきほど思い立ってCD-ROMプレーヤーにCDをセットしてみると、また動き、音楽が鳴るようになった。それはともかく、今月後半はこのカテゴリーに連続投稿し、その変わり映えしない写真に人気がないのか、ここ数日は訪問者数が半分近くに落ちた。実際はその理由がこのカテゴリーへの連続投稿だけなのか、よくわからない。何でも思いつくまま、毎日テーマを決めずにこうして書き始めるのは気楽でよい。評論というのでもないし、感想とも違う。日記、雑記で、筆者に一番似合っている。それで禅僧の本に戻ると、この本は雑誌に連載した短文をまとめたもので、字数の制限を守って書かれている。400字の原稿用紙3枚分で、読んでいてちょうど分量がよい。その量の中に禅と、自身の生活の中で見つけた話題が盛り込まれている。禅の専門書はそれなりにたくさんあるが、そういうものを坐禅せずに読んでも頭でわかった気になるだけだ。またわかったと思ったこともすぐに忘れる。そして、いつまで経っても禅との距離は遠い。ところが、この禅僧の書いた本は、私的な事柄が書かれているので人柄がよりわかって、禅への距離感が少なく感じられる。それが目的で求められるままに書いたのだろう。ついでながら、筆者は展覧会の感想を書く時など、必ず自分のことをまず最初に書く。そこが論文とは大違いなところで、他人が情報として利用するにはよけいなものが混じり過ぎているだろうが、ある関心事に対して、自分がどう思ったかを書き留めておきたい。論文にしても、個人が書くもので、結局はその個人の人柄を表わすが、論文でなくても文章全般がそうだ。そして、その人柄が伝わり、なおかつまた読んでみたいと思わせるものを書きたいと思う。実際はなかなかそういう文章には出会わない。ブログは情報源として筆者は利用するのがほとんどで、書き手の味を期待して常連の読者になることはない。それは他人のブログを読むことにさっぱり熱心でないからでもあるが、ブログにきりりとした文章はまずほとんどないと考えるからだ。
さて、禅僧の本だが、坐禅についてこんなことが書かれている。「実際に坐禅を行じていると、平常体験できないような素晴らしい心境が現れてくることもある。……そのような奇特の心境を悟りとしないのが禅である。……日常の凡夫の乱れた心を調えるためにあるだけの手段にすぎない。」 乱れた心を調えるための一手段というのはわかりやすい説明だ。そう言えば筆者はいつも心が乱れているのかもしれない。一昨日だったか、バンジー・ジャンプについて書いた。先週のNHKのTV番組に、仏教の僧と一般人男性のふたりが挑戦し、心拍数の比較をやっていた。僧は心拍数がすぐに収まり、平常心のままジャンプに踏み切った。それは坐禅の賜物で、考えて仕方のないことは全部水に流すように意識から遠ざける術を知っている。この水に流すという思いは、坐禅している最中に思い浮かぶ事物を、順に川面に浮かべた小舟に乗せて下流に流れて行くのを見送るという行為を繰り返せばよいという。それが平常心を保つための初歩的な行為で、そういう訓練を続けると、坐禅の効果が現われて来る。そして、心の乱れがなくなると、重要なことだけが見えて来る。あるいはそういうことが素早く行なえるようになるのだろう。これは誰にとっても必要ではないか。とはいえ、ほとんどの人は日常の忙しさに身を任せ、坐禅する機会はなかなか持てない。それは意志の問題であろうが、そういう習慣が身についていないからだ。そこで思うのは、学校で教えるのはどうか。だが、きっと時間の無駄と言われる。昨日だったか、NHKを見ていて、柔道が小中学校の必修科目になることを知った。息子は小学校2,3年の頃に柔道の授業があった。そのために柔道着も買わされたが、これを身につけたのは、10回もなかったのではないか。まるで柔道着屋を儲けさせるようなものだ。必須科目になることに懸念を示している人たちもある。ここ10年ほどで、柔道の授業で生徒が死んだり廃人になったりした例がかなり目立つからだ。フランスでは徹底して事故が起こらないように受身を教え、この30年は死亡事故がないと言っていた。日本はそういうフランスに遅れを取ってはならじと柔道を義務教育で教えることにしているのだろうが、投げ飛ばされた時に頭を打たなくても頭の血管が切れる場合があるというから、危険なスポーツと言える。柔道も剣道も、心を鍛えるということが大きな目的にもなっているはずだ。そこで思うのは、体を動かすことではなく、その反対に坐禅で心を鍛えることが出来ないか。そうなると、体育の先生が困るという話がきっと持ち上がるが、禅僧を学校に呼ぶことはどうか。禅僧が昔ながらに厳しい修行をするのはいいが、現在はあまりにも別世界となって、興味があっても参禅しにくい状況ではないか。だが、公立の学校に禅僧を呼ぶとは何事かという反対意見、また禅僧も子どもに坐禅の意味がわかるかという思いがあって、坐禅したいものはそういう塾にでも行くか、家で勝手にやれということになる。だが、狭くてうるさい自宅で心が乱れずに坐禅が出来るだろうか。今日の写真は去年2月9日の撮影。