処置は早い目がいいと思い、さきほど薬を飲んだ。こんなことは4,5年に一度ほどだ。昨夜風邪を引いてしまい、今日はさらに高熱になった。なので、このブログを日が変わらないうちに済ましてしまおう。
窓はしっかり締め切っているのに、カーテンが隙間風で揺れる。今晩は雪が積もると天気予報が言っていた。節分が近いので、この寒さは正常だ。それにしても、洟水たらーり、数時間ごとにくしゃみを連発で、薬で治まってくれればいいが、インフルエンザがはやっているとかで、あまり出歩かないようにしたい。と言いながら、今日はいつもより2時間ほど早くムーギョに行った。そして珍しいことに、斜め向かいのトモイチに足を延ばす気力がなかった。傘を持っているのに、すでにビニール袋ふたつ分の買い物をしたからでもある。ムーギョに向かって松尾橋をわたっている時、前から20代半ばのジーパン姿の女性が真っ青な折りたたみの傘を風でひっくり返されながらこっちにやって来た。美人で、また豊満過ぎず、スタイルもよかった。彼女は傘が役に立っていない状態に四苦八苦し、筆者と目が合った時、苦笑いした。それが色気があって、とてもよかった。「大変ですね」などと声をかければよかったかなと思いながら、年配者にそんな親しげな言葉をかけられても気分はよくないだろうと思い直した。40日近く空気が乾燥した日が続いていたのに、ここ2,3日は雨だ。自然はバランスを保っている。雨の日はスーパーに買い物に行くのは億劫だが、食パンをちょうど今朝で切らしたので、行く必要があった。そして、行くならまだ明るいうちにと考えた。食パンはいつも2,3斤を冷凍庫に入れていて、コチンコチンに凍ったものをトースターで焼く。5分と経たない間にこんがり色になるが、これは厚みに関係ない。最近のTV番組で、大阪人は8枚切りを食べずに、たいていは4枚か5枚切りと言っていた。まさにそうで、筆者は4枚切りが好きだ。売られているのは6枚切りが普通だが、5枚切りを食べるとそれが物足りなくなる。そして、4枚切りを食べると、5枚が物足りない。この調子なら3枚切り、2枚切りでも食べられるかもしれない。ただし、中まで熱が通ってうまく焼けるかどうか。東京人は食パンを焼かずにそのまま食べることが多いそうだが、筆者はそれはいやだ。必ず焼き、また何か載せたりする。これは大阪の方が東京よりも食生活が豊かであることを示しているのではないか。それを示すと思えるのが、魚肉ソーセージだ。これもつい先日TVが取り上げていたが、大阪の方が東京よりはるかに多く売れており、またそのまま食べずに、野菜と炒めたり、トーストに挟んだりして食べるのが普通だ。実際そのとおりで、筆者はあまりソーセージは好きではないが、家内は必ずそのようにして食べている。ところが東京の人はそのまま皮を剥いて生で食べることが多いという。何となくはしたない姿ではないか。上方はやはり雅と言うべきか。
どうでもいいことを思い出しついでに書く。先日名古屋に行った時、お土産をあれこれ買った。筆者が一番求めたのは、地元の庶民が行くスーパーの品揃えを見ることだ。だが、どこにそういう庶民の地区があるかわからない。考えたのは、地下鉄で環状線となっている名城線の外側だ。大阪市内はJRの環状線が走っている。その外側は内側より庶民的だ。それを思い出した。そこで、何線か忘れたが、名古屋駅を越えて西に行った。名古屋駅西側はきわめて庶民的な地帯と昔聞いた記憶がある。名古屋駅からひとつ西に中村区役所前という駅があり、そこが終点になっていた。そこで下車した。車内に座っている時、斜め向かい側に70歳ほどの婦人が座っていて、どうも筆者の方をよくちらちら見ている。名古屋駅で大半の客が降りた。予想どおり、筆者が座る車内に残ったのは、格好からして庶民も庶民といった風情の男性数人であった。そして、斜め向かいの婦人も降りた。地上に上がってもスーパーがどこにあるかわかるはずがない。外はもう真っ暗だ。そこで考えたのは、先の婦人よりさっさと歩き、婦人が地上に上がって来た時に、偶然を装って捕まえて訊ねることであった。「この近くに野菜や肉を売るスーパーがありますか」「注ぎの信号の少し手前、左側にあります。」 婦人とは反対方向に歩いて行くと、200メートルほどで小さなスーパーがあった。京都とさほど価格は変わらない。名古屋らしいものがないかと探したが、あまり見当たらない。握り寿司が半額でとても安かった。ところが、7時までに食べるべしと表示があった。買っても広げて食べる場所がない。それで、ビールを買った。それに何と大きなキャベツの塊とバナナ、それに太いソーセージも買った。袋をくれないので、レジの若い女性に質問すると、1枚3円と言う。それを1枚もらったのはいいが、京都や大阪と違って透明だ。そのため、キャベツが丸見えではないか。名古屋まで来てキャベツを買って買えるとは呆れたことかもしれないが、筆者はフィレンツェに行ってもそうするだろう。旅先と自宅との間の距離感がないのだ。キャベツ丸見えの重い袋を提げて名古屋駅に戻った。ちょうどサラリーマンの帰宅時間だ。大勢の人ごみの中で、キャベツを持って歩いているのは筆者だけであった。それはさておき、太いソーセージを買ったのは、家内が昔から名古屋と言えばそれを思い出すからだ。
さて、この話をし始めると、上記までの文章の数倍は費やす必要がある。そのため、簡単に済ます。息子が小学3年生であった頃、名古屋に住む夫婦と知り合いになった。とても親切な人で、筆者が今までに出会った中でも最もそうだと言ってよい。岩手の久慈の出で、名古屋で家庭を持った。その男性には息子より大きいふたりの子がいたが、その男性は夏休みや春休みのたびに、息子とふたりだけで山にキャンプに連れて行ってくれたり、名古屋市内や近郊の名所をたくさん案内もしてくれた。名古屋駅から西の地区の下町の団地住まいで、生活は豊かではなかった。工員をしながら、家族を支えていた。その男性は、息子が京都に帰る時は、車で家まで送ってくれることもあるほどで、また必ず手土産を持たせてくれた。その中にJRのキオスクで買ったと家内は聞き覚えているが、太いソーセージがあった。直径10センチほどだ。ハムなのか、あるいは魚肉なのか筆者は記憶がないが、家内はそれがとてもおいしく、同じものが関西では絶対に見かけないと言う。去年岐阜に行った時も家内が真っ先にスーパーで探したのはそれであった。これかと思って買ったものは、味が違った。メーカーの名前も商品名もわからないので、探しようがない。先日筆者が中村区のスーパーに立ち寄りたかったのは、その太いソーセージを買うためだ。伊藤ハムの製品にそれらしいものがあった。だが、太さは10センチはなくその半分ほどだ。これは違うとわかりながら、買った。商品を正確に知るには、息子に持たせてくれたその男性に訊くのが一番だが、男性の家庭に不幸が襲って音信普通となった。正しく書けば、こちらから連絡はしたが、そっとしておいてほしいという雰囲気であった。それきり年賀状も届かなくなった。もう定年になったはずだが、どう暮らしておられるかと思う。そんなことを思いながら、中村区役所前で降りたが、住まいはもっと西にあった。それはさておき、名古屋はやはり大阪や京都とは食生活が違う。言葉ももちろん違うが、面白かったのは地下鉄にたくさん乗っていた高校生だ。会話は東京弁に近かったが、何かの拍子に大阪弁の抑揚になっていた。やはり大阪と東京の中間の街だ。今日の写真は去年1月31日の阪急松尾駅横の駐輪場だ。3,4日前、駐輪に関して事件があり、筆者は警察に電話をかけ、お回りさんに来てもらった。今日はそのことに絡めて書くつもりが、全然関係のない話題になった。洟水たらーり。もう寝よう。