●嵐山駅前の変化、その174(ホテル)
当なことを毎晩書き続けているが、今日からまたこのカテゴリーに投稿を始める。前回が去年12月4日であったから、40日ほど経った。書くべき話題がおおよそ底をついたからでもあるが、実際は常に溜めている。



であるから、今夜も展覧会の感想を書くことは出来るが、いくつか溜まってから連続で投稿する。さて、今日の写真は去年1月20日の撮影で、ほとんど1年前だ。1年以上経つとまずいと思っていたので、どうにかぎりぎり間に合った。駅前ホテルは、先日夜8時頃に外観を見たところ、灯りについている部屋はごく少なかった。観光客の少ない冬場でもあるからか。ホテルが建つともっと駅前が騒々しくなるかと思っていたのが、ほとんどそうでもない。不況のため、嵐山に宿泊する外国人が少なくなっているのも理由だろう。世界的不況というニュースを連日耳にする。大変な時代になって来たというが、戦争を体験した人にとっては、その実感はない。また現在の20代はバブル期を知らないから、年配者からひどい時代に生きてかわいそうだと言われても、あまり実感がないかもしれない。先日自治会の(正しくは消防団)の新年会に出席し、隣に座った人から五木寛之の最新刊を興味深く読んでいるという話を聞いた。その人は愛宕山に3日に一度は登っている。いつか筆者も連れて行ってもらおうと思うが、山登りはさっぱり経験がなく、普通は2時間で登るところを3時間はかかるかもしれない。平地を早い速度で歩くのは慣れているが、山となるとさっぱり駄目だ。愛宕山は、京都に出て来た年、友禅の師匠から夏の千日参りの登山に誘われたことがある。それを辞退した時から気になっている。山に登った人だけがもらえる大判の「火の要慎」のお札ももらいたい。それはいいとして、その山登りの好きな男性が言うには、五木のその『下山の思想』という本は、山登り愛好者にはよく心に響くそうで、簡単に内容を説明してもらった。それは、小さな島国の日本が戦後頑張って世界第2位の経済大国になったが、少子高齢化もあって、これからは下山の時代を迎えているというものだ。結論として五木がどういうことを言っているかまでは教えてもらえなかった。まだその人は読み始めたばかりであるからだ。山登りは、登ることに意義があると思われている。だが、下山がむしろ大変で、それを侮ると遭難もしやすい。そのことを今後の日本の採るべき態度とすべきと五木は言いたいのだろう。筆者のような戦後の高度成長を体験した者にとっては、とにかく前向きに進むという精神が教育を初め、親や社会から徹底して教え込まれたから、注意して降りて行くことの実感がない。それは敗北と思っている節さえある。五木はそれをたしなめる。もうそういう時代ではないというのだろう。
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 前にも書いたことがあるが、中学1年生の音楽の授業で、「森の水車」という曲を教わってみんなで歌った。この歌が好きで、今でも歌うことが出来るが、学校で教えなくなって久しい。歌詞があまりに人間を前へ前へと駆り立てるからという理由であったかもしれない。10年ほど前か、ゆとり教育がなされたが、そうしたゆとりからは対極にある歌詞だ。特に3番がそうだ。「もしもあなたが怠けたり遊んでいたくなった時、森の水車の歌声をひとり静かにお聞きなさい。コトコトコットン、コトコトコットン、ファミレドシドレミファ、コトコトコットン、コトコトコットン、仕事に励みましょう。いつの日か楽しい春がやって来る。」 これは今では、人間を機械のように規則正しく、休みなく働かせると批判が出るような内容に思えるが、昭和30年代はこの歌に代表されるように、懸命に働けば楽しい春がやって来るとみんな信じて疑わなかった。それはおおむね今もそうではないだろうか。勤勉大国日本というのが、相変わらず理想とされているように思う。だが、その前向きの態度、それを強制する雰囲気が五木には馴染めなかったようだ。それは本当は筆者もだが、その理由はここでは書かない。筆者は懸命に物事に処することは好きだが、そのことで春がやって来るとは思っていない。懸命にやっている最中が春なのであって、懸命の結果など考えていない。また、懸命とはいうものの、筆者は自分の好きな、そして社会的には無益同然のことだけにそうであって、金儲けにではない。「森の水車」が暗示していることは、水車が機械の労働であり、それは経済成長につながる懸命さであろう。歌詞の最初にある、「怠けたり遊ぶ」といった考えはまず否定されている。筆者はこの年齢になるまで、幸いなのかどうか、懸命になったことは全部経済行為には無関係で、その意味で怠け者、遊び人の最たるものだ。「森の水車」の歌詞は決して嫌いではない。それは、とにかく懸命にやるという部分においてだ。懸命に怠けて遊んでいると、最期はどうなるかと言えば、小学校の道徳の授業で教わったように、蟻とキリギリスのたとえ話のように、施しを乞う惨めな存在になるしかない。だが、その童話のおかしなところは、ただ働くためだけの蟻の人生を肯定しているところだ。蟻は働く間にキリギリスの歌声を聞いて楽しんだ。そのキリギリスが困っている時は助けるのが本当ではないか。キリギリスという歌声の存在がなければ、蟻の中からそれを代わりに果たすものが出て来るだろう。世の中にはきれいな歌声は必要なのだ。それを引き受ける存在の末路が哀れで、ただひたすらに働いて貯め込む蟻を賛美するとすれば、そこにどういう幸福があるというのだろう。今は小学校でこのイソップ童話をどのように教えているのか、あるいは教えていないのか知らないが、キリギリスも懸命に歌うわけで、それは怠けや遊びではない。
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by uuuzen | 2012-01-16 23:59 | ●駅前の変化 | Comments(0)


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