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●『アンデルセン生誕200年展』
「デンマーク・夢を追いつづけた旅人」という副題がある。アンデルセンの童話は誰でもいくつかは知っているが、どのような生涯を送ったかは案外知られていないという。



●『アンデルセン生誕200年展』_d0053294_21503673.jpg展覧会チケットの半券の束を調べてみると、滋賀県立近代美術館は一昨年、カッセルのグリム兄弟博物館所蔵の『永遠のグリム童話展』を開催している。それに続いての世界的童話作家展になるが、今年はアンゼルセンの生誕200年を祝う行事が世界中で多く開催されていて、この展覧会もアジア事務局が企画し、日本だけでも8か所を巡回する。記念事業は展覧会だけではなく、舞台や出版、その他いくつも用意されている。美術館入口で鑑賞を終えた学生20人ほどが集まっていたのに遭遇したが、全員韓国語を話していて、韓国からやって来たのがわかったが、アジア事務局は韓国の春川でも同じ展覧会をすでに開催していて、そんな経緯から日本の会場にまで観に来たのかもしれない。それでもいつも比較的空いている滋賀県近美は夏休みで子どもたちがもう少し多いかと思ったが、ほとんどがらがら状態で、せっかくの展示がもったいなかった。交通の便が悪いこの美術館はよほど魅力的な企画をしなければ来場者の増加は見込めない。去年の『オノ・ヨーコ展』は若い人がかなり多く押しかけていたが、アンデルセンはオノ・ヨーコより魅力的でないということだろうか。そうではないにしても、今さらアンデルセンでもなかろうというのがもっともなところではないだろうか。筆者もわざわざではなく、ほとんど暇潰しに出かけた。もうひとつの美術館に行きたくて、いわばそのついでに立ち寄った。このもうひとつの展覧会については明日書く。
 アンデルセンについて展覧会を開くとなると、遺品や本、原画を並べることのほかに何があるのかと思うが、幸いなことにアンデルセンは鋏を使用した切り絵を生涯にわたって1000点ほど作っており、その中からわずかだが、会場では実物が展示された。これなどは美術館にふさわしい展示物なので、もっとたくさんの作品が招来されてよかった。紙は白のうすいもので、台紙はセピアの濃い色かチャコール・グレーといった味わいのある色で、その複製が売店で売られていたが、この台紙の色が真っ黒であったりして全然オリジナルの鄙びたよさが出ていなかった。オリジナルははかない味わいのある繊細なもので、1000点も作ったが絵は大きくいくつかのパターンに分かれるようで、同じようなものを繰り返したくさん作ったと思われる。舞台をシンメトリカルに描いたデザインが特によく、若い頃に役者を志した面目がうかがえる。また、そうした舞台好みは戯曲を一時期書いていたことや、それから派生した形で童話を書くに至ったことにまで連なっており、切り絵で表現するモチーフもまたアンデルセンの童話とはつながっていると言える。切り絵のような視覚的な表現に趣味とはいえ、深く入り込んでいたアンデルセンは、その童話が当然同じように視覚的な味わいに富み、それが今なお世界中の絵本画家を刺激し続けている理由と思える。そんな意味で、アンデルセンの生涯を一度はしっかりと眺めわたすのは今回の展覧会はいい機会で、無料で配付されていた40数ページのオフィシャル・ガイドブックは貴重な基礎資料にもなって嬉しい。会場でたくさんの文字を読むのは疲れるし、図録を買わずともこうした資料が用意されているのは、デンマークやあるいは日本の出版社のサービスとはいえ、なかなか見上げたことだ。切り絵用の大きく長い刃のついた鋏は使いやすそうで、しかも長身だったアンデルセンの姿を彷彿とさせるようで興味深かったが、筆者もカッターナイフで細かい切り絵を毎月作っているだけに、この切り絵を見るだけでも今回の展覧会は値打ちがあった。
 美術館はいつもとは反対方向に進む展示で、半分のスペースはアンデルセン関係の物品や手紙、版画などの資料と日本におけるアンデルセンの翻訳本の陳列で、アンデルセン研究家にはまたとない機会であった。もう半分のスペースは、アンデルセンの生誕200年を記念して出版された13冊の有名なアンデルセンの絵本の原画が展示され、よく百貨店で開催される絵本原画展の趣と同じであった。その実物の絵本が館内にはそこそこ置かれていたので、2、3冊を手に取って読んでみたが、閉館まで小1時間というところで入館したため、せわしなかった。時間がもっと許せば全部読んでみたかった。同じアンデルセンの童話でも訳者によるのか、原典の版が違うのか、内容にかなり差があったし、これは挿絵が画家によって違うことに比べてはるかに意外であった。原典はおそらく詳しく著述されているのかもしれないが、翻訳時にすでに今の時代にはそぐわない普通名詞はもっとわかりやすいものに置き換えられていると考える。100年以上も経てば、そのまま訳してももう通じにくい部分は少なくないだろう。大人が読むのであれば訳注をつける手があるが、子ども用の本ではそういうわけには行かず、すらすらと読めて意味が淀みなく把握出来るものでなくてはならない。そのために原典を多少ははしょるなりして読みやすいものを心がけているのだろう。そのようにしてもなおアンデルセンの作品であることは変わりないほどに原典の物語の骨格はしっかりしているということだ。民話と同じように、話の中心部分は単純であるので、細部はあまりこだわらなくてもよいのだ。永遠に読み継がれるものほどそうした構造をしており、多少の改変でも本質を失わない芸術に筆者は本当は強い憧れがある。一字違えば全体ががたがたになってしまうような、厳格に構成された詩などは、本当は万人にはあまり意味がなく、ごく少数の愛好者だけがありがたがればよい。そんな芸術は翻訳も困難をきわめ、また翻訳出来ないことをその芸術を生んだ民族の独自性や優位性を示すものと自惚れる人もあって、とかく文学は妙な国粋主義に利用されることが多いが、世界中誰でも知っているアンデルセンにはそんなけちな考えはなかった。
 デンマーク第2の都市のオーデンセという街はアンデルセンが生まれた時は人口が6000人で、貧富の差が大きく、半分が貧しい階層であったという。そうした人々は大抵文字が読めず、肉体労働者や乞食であったが、アンデルセンはそんな階層の出身者だ。靴職人の父が物語好きで、その影響を受けたが、アンデルセンが11歳の時に父が死に、その後は経済的にもっと苦しくなって母は洗濯女として働くが、アルコール中毒になって死んでしまうほどで、その悲惨な暮らしがそれこそ小説のようで、アンデルセンの童話が自身の経験や思いがあってこそ生まれて来たものであることを今さらに感じさせる。有名になりたい一心で14歳でひとり立ちし、コペンハーゲンで役者になろうとするが、こうした夢はことごとく失敗し、結局人との出会いがあって、勉強の大切さを知り、ラテン語学校やコペンハーゲンの大学に入学するなどして少しずつ物を書く道に入り込んで行く。失恋も何度かあって、アンデルセンは生涯独身で過ごし、しかも旅好きであったために決まった住居を持たなかったが、ヨーロッパ各地を何度も旅する中で著名人とも出会い、小説のネタも収集した。自らがすでに有名人であったために、他国の有名人に会いに行くことに物おじしなかったのであろう。デンマーク人ではあるが、汎ヨーロッパ人であり、コスモポリタンと言ってよい。そうしたところがあったので、なおさらアンデルセンの作品はまたたく間に世界中で有名になった。童話を書く前は大人向きの小説で身を立てたいと考えていたが、その夢はあまりかなわず、当初はあまり人気がなかった童話によって次第に名前が出て来る。やがて国王から勲章をもらい、44歳の時に童話の全集を出すに至るが、晩年病の床にある時は国王と王子が見舞いに来て、70歳の誕生日には世界各国で祝福されたというから、アンデルセン自身の生涯がまるで振り出しから上がりの至る双六のような成功物語の童話のような趣がある。
 10歳までのアンデルセンは勉強が嫌いであった。またその後自立して学校に通っている間、いじめに遇い、また将来の見込みがないと烙印を押されるなど、どちらかと言えば落ちこぼれのアンデルセンであったが、22歳の時は成績がよかったにもかかわらず、面倒を見てくれていた校長夫妻のいじめによって病人のようになっていたというから、そこでよくぞくじけなかったと思う。おそらく夢見がちな青年で、役者になりたいという思いから戯曲を進んで書くことをしていたため、たとえ誰に認められなくても、自己表現をすることについては信じていたところがある。これは大事だ。誰からも強制されず、自ら何かをこつこつとやっていて楽しいというものがない限りは、その道では大成はしないものなのだ。小説家や画家、音楽家などみんなそうで、青年時代のアンデルセンが世わたり上手で、人からも大いに好かれていたならば、小説や童話など書かずに商売人か学校の先生にでもなり、妻も娶って普通の幸福な家庭を築いたに違いない。大抵の幸福な人はそのようにして過ごして名前が歴史には残らない。歴史に輝かしい名前を残す人はそれと引換えに誰も経験しないような不幸を味わっているものなのだ。だが、不幸を味わえば有名になれるのではない。アンデルセンの母のように、おそらく不幸に押し潰されて破滅の人生を歩む場合の方がはるかに多い。だが、今までの世界にはなかった独自の普遍的な何かを獲得するには、それ相応の、他人が経験しない熾烈な思いを味わう必要があるように思う。子ども時代のアンデルセンが有名になりたいと思った時、それは誰しもよく思うそれと同じではあったろうが、やがてはみんな諦めてしまう中で、アンデルセンはその思いの炎をずっと心の中に灯し続け、こつこつと努力したはずだ。たとえば筆者の知り合いの20歳の娘が一時しきりに有名になってみせると言っていたが、そう言い切るにはそれだけの自信や目標が本人にあって、しかもそれに邁進している現実の姿を示すべきであるのに、自信だけが人一倍であった。有名になりたいとはやがて発せられなくなったが、本当に有名になって、その名前を持続させたいのであれば、並み外れた努力をどれだけ続ける自信があるかで、それもなくしては運も巡っては来ない。才能があってそれを磨き続けようとしない人に、どうして人が寄って来るだろう。自分で有名になるのではなく、人が有名にしてくれるのであるから、有名になりたいと宣言するのであれば、人とは違う、そして人から愛され、求められるような才能をどのように磨いて行くかを考え続けなければならない。それでもなお大半の人は落伍し、有名になれるのはごくごく少数の人だ。ましてや世界中に名前が知られるのは奇跡としか言いようがない。アンデルセンはそんな栄誉の階段を少しずつ昇って行った希有な才能であった。
 会場では生誕200年を記念するポスターの原画コーナーがあった。スズキ・コージは日本の絵本画家としては好きな人物だが、氏の描いたポスター原画は展示物では最もサイズが大きく、美術館のある壁面をいっぱいにするキャンヴァスに描かれていたが、そのほか安野光雅や五味太郎、それに筆者が好きなチェコのパツォウスカーの原画もあって、にぎやかな雰囲気であった。どんな絵本画家にとってもアンデルセンは大きな霊感の源泉のようで、自身の実力を試すのにいい素材と言える。アンデルセンが書いた童話は案外少なくて150ほどだが、ほとんど同じ数の言語に翻訳されているから、世界中で常にイメージされ続けている童話と言える。文学があってこそのその挿絵であるので、絵本画家よりも文章をものにする作家の方が命が長いと言えるかもしれない。ポスター原画とは別に、前述したように代表的な13の童話を紹介するコーナーがあり、その原画は少ない場合は1点のみ、多くても数点が展示されていた。そして原画には該当するアンデルセンの童話の文章が添えられていて、ざっと眺めて行くと、「すずの兵隊」が面白かった。だが、原画が全点ではないので、童話の全容はわからない。これが残念で、最後のコーナーにあった絵本を手に取って読んだが、これについては後述する。原画作家の名前は忘れたが、「すずの兵隊」の実物の絵本が3種類ほどあって、全くタッチが違う外国や日本の画家が描いていたが、それらを比較すると面白かった。アンデルセン時代の生活空間をそのまま再現しようとする画家もあれば、現代の話に置き換えて描く者もあり、絵だけ見ていれば「すずの兵隊」の印象がまるで違う。どの絵もアンデルセンの書いた話から直接触発されているから、それだけアンデルセンの作った話が豊穰であることを示すが、最初に書いたように、それらは自然主義的に事細かく描写していないから、画家にとっては自由に想像出来る余地があって、かえって自在に空想の翼を羽ばたかせやすいのだ。それは子どもが読んでもそれなりに面白く、また大人が読めばまた人生の悲哀も充分にわかるといったものでもあり、すでによく知っている童話ではあっても、改めて読むとまたアンデルセンの偉大さが理解出来る。
 さて、「すずの兵隊」はこんな話だ。いくつかの本をまとめて読んだし、流し読みしたので正確ではないことを断っておく。錫で作られた玩具の兵隊が24個だったろうか、男の子が持っている。そのうちの1個は製造時に錫が足りなくて、片足が短い。その片足の短い兵隊は、暖炉の上に飾られた紙で作られた白いバレリーナの人形を美しいと思って恋をする。ある夜、その錫の兵隊は玩具箱に入れないようにして隠れるが、猫の仕業だったか、開け放たれた窓から通りに落とされてしまう。それを見つけたやんちゃな男の子がふたり、紙で作った舟にその兵隊を乗せて溝の水に浮かべる。舟はどんどん押し流されて、やがて大きな下水溝に落ち、そこで大きな魚に食べられてしまう。ところがその魚は苦しみ、そして釣り上げられてしまって市場で売られる。その魚を買った人が家で調理すると、中から錫の兵隊が出て来た。その家はかつて錫の兵隊がいた家で、また暖炉の上に飾られているバレリーナに再会出来る。だが、家の男の子は何を思ったのか、その錫の兵隊を暖炉の火の中に放り込む。その次の瞬間、風が吹いてバレリーナの人形は飛ばされ、暖炉の中に入って一緒に燃えてしまう。燃え滓として残ったのはハート型をした錫の塊と、バレリーナがつけていた同じような形をした金属の塊のふたつだった。これだけの話だが、玩具を擬人化して、片足の不自由な兵隊が白いバレリーナに恋をするという設定は切ない物語で、そうした話が実際にあっておかしくないような、まるで映画に描かれてふさわしいような現実を思わせる。片足が短いという条件が物語としては希有な思いつきで、そうした不具者が願いをかなえてバレリーナと一緒に焼かれるという結末は、残酷で激しい美しさに満ちている。これはアンデルセンが舞台好きであったことや、女優にかなわぬ恋をし続けたことの経験が裏打ちされていると思うが、そんな兵隊とバレリーナが何か突拍子もない大きな力によって一気に火の中に投げ込まれ、燃えた後に成仏したかのように小さなハート型の錫の塊になったという結末は、純愛の一遍の小説を読み終えたのと同じ感動を呼び起こす。これは子どもではどう思うか知らないが、大人が読めば忘れ得ない鮮烈な印象を残す。この童話は遠い昔読んだ記憶があるが、とっくに内容を忘れてしまっていた。昨日はまるで初めて読むような感じで接することが出来た。それで改めてアンデルセンの偉大さを認識した。「夢を追いつづけた旅人」とはまさにそうで、有名になってやろうと思った一方で、アンデルセンは無数の失墜や挫折を経験しながら夢を見続けた。そして、もはや有名になってやろうとは思わなくなった頃に、名声が勝手に向こうからやって来たというのが本当のところだろう。愛する人と一緒に暮らすということもかなわない人生であったが、思いは錫のハートの塊のように永遠のかっちりとしたものに変化した。
by uuuzen | 2005-08-10 21:52 | ●展覧会SOON評SO ON
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