人気ブログランキング | 話題のタグを見る

●波動スピーカー、その4
が明かないことを書き続けているが、波動スピーカーについては今夜で終えよう。オーディオ・ファンではない筆者がスピーカーについてスピーカーになるには役不足であるのに、無謀にもこうして4日も費やすことになった。



今日は大阪に向かう車の中でぼんやり思っていたが、腹が減っている時には嗅覚が敏感になり、また何を食べてもおいしいと感じる。それでも、「よりおいしい」という経験は誰しもしている。たとえば、先日妹の家でコーヒーを出された時、それがとてもおいしかった。ちょうど飲みたいと思っていたからでもあるが、やはり最近飲んでいるインスタントものに比べると各段に違う。そのおいしいコーヒーを飲みながら、物事はみなこういうように「よりよい」段階があるのだなと思った。あたりまえのことだ。それが人間の活力の源になっている。だが、この「よりいい物、状態」を追求し始めて誰しも気づくのは、それに切りがないことだ。そして、切りのないその世界にあって、何が本当に「よりよい」のかわからなくなる時があるのではないか。そう考えれば、何事も貧困な状態に保っておいた方が、感動が多く味わえる。ということは、金持ちより貧乏人の方が幸福で楽しいということだ。「無一物」と禅では言うが、それは何も持たないことがすべてを持つという意味で、感動の大きさを最重視した立場と言ってよい。筆者がオーディオ・マニアにならないのは、よりいい音がいいに越したことはないが、切りがないという考えによる。これは無限に金があっても同じことだ。これがベストだと思っていても、それは自己満足であり、他人と比較することは出来ない。それで勢い、いくらお金をかけたかといったつまらない自慢を持ち出す。確かに価格の高さと快適さは比例するが、先に書いたように、真に、そして何事においても満足するのは、飢餓状態にある時だ。筆者にとってそういう状態は中学生の頃であった。モノラル録音を安物のポータブル・プレイヤーで聴いていた頃、それを音響の優れたオーディオ・ファンが持つような大型のステレオで毎日聴くことに憧れることはなかった。分をわきまえていたこともあるが、音よりも音楽の内容と思っていたからだ。だが、そんな話は昨日までに書いて来た。先に進まないと埒が明かず、またもや同じ題名でブログに拉致される。さて、18日は少し小雨が降った。筆者のみで波動スピーカーを聴くのはもったいないので、自治会の役員で画家でもある女性のOさんに、2日前に電話をかけ、誘った。彼女も音楽好きだが、筆者とは好みが違い、もっぱらオペラ、しかもモンテヴェルディといった古いものが好きなようだ。筆者もモンテヴェルディは2枚組のCDをひとつだけ持っているが、古楽はめったに聴かない。Oさんは愛聴盤を持参すると返事し、18日は約束の10時過ぎにやって来た。Rさんからそのくらいの時間に芦田さんが来ると聞いて伝えていたからだ。
 Oさんを3階に上げるのは初めてだ。鋭い人なので、どのように筆者のアラを見つけたかと思う。Oさんに聴かせたい音楽が以前から2,3あって、そのCD-Rをお土産に用意した。それは初めて自宅で焼いたもので、そのための機器が17日に届いたばかりであった。本当に何事もぎりぎり間に合った。用意したCD-Rは3枚で、うち1枚から1曲を波動スピーカーでかけた。その前に芦田さん来宅の話をせねばならない。Oさんと3階でザッパの曲を2,3聴いていると、階下に芦田さんが来た声が響いた。すぐに降りると、大きな金属のトランクを開いてアンプを取り出そうとしているところであった。挨拶を済ませてすぐに筆者は、アンプにはスピーカーが2系統つなぐことが出来ることと、メールで伝えていたように、CDデッキを購入したことを伝えた。それで毛布にくるんだ波動スピーカーと接続コードだけを3階に持って上がった。アンプにつなぐのにかなり手間取ったが、さきほどまで聴いていた筆者の箱型スピーカーを、まるでロール・ケーキそっくりな波動スピーカーに切り変えると、即座には音の違いがわからなかった。かなり大きめの音でかけていたが、ほとんどそれと同じに聞こえたからだ。前に書いたように、筆者のスピーカーは左右で合計8個の形式だ。波動スピーカーは2個であるから、いくらフル・レンジのスピーカーとはいえ、出力で劣るはずなのに、それが実感出来ない。まずこの不思議を思った。ということは、筆者のように、場所を取る大きな箱は不要で、おそらく数十分の一の重量、しかも容積もそれくらいの波動スピーカーひとつでいいことになる。狭い日本の住居ではこれは大きな魅力だ。また、左右に離して並べるのではなく、1個でいいから、置き場所はさらに困らない。ただし、スピーカーの前に座って、ライヴ・ステージを聴くような感覚を味わいたいと言う人にとっては物足りないか、あるいは落ち着かないかもしれない。部屋のどこにいても同じように聞こえるという、場所を選ばない利点は、逆に欠点と思う人もあろう。筆者はスピーカーを窓際に置いているから、部屋中に音が響きわたるし、スピーカーの背後に行ってそこで聴くことがないので、波動スピーカーの利点はあまり必要としない。だが、音楽が必ず自分の前で奏でられるとしても、その音は細いパイプのような道筋のみを通って耳に伝わるのではないことを思う必要がある。たとえばアコースティックのギターやヴァイオリンは共鳴体を持っていて、それが全体で鳴っているため、音は狭い範囲でまっすぐに放たれるのではない。つまり、奏者の後ろ側にいても音は聞こえる。これはピアノを思えばもっとよい。ピアノを聴くのに最もよい場所はどこか。そんな場所があるのだろうか。楽音は左右のステレオ・スピーカーのように、一方向から飛び出て来るとは限らず、四方八方に発散している。この話をするとまた脱線が過ぎるので、これ以上書かないが、波動スピーカーが楽器であると主張するのは、そういう考えが背後にあるだろう。原音を忠実に再現することがスピーカーの本当の役割などと言われるが、その原音はデジタル録音が出現してからはさらに定義やまた本質が複雑になり、何が原音かはそれこそ人それぞれ勝手に解釈してよく、またするしかないのが現実だ。「これが原音だ」と言うのは勝手でも、その音を別の人が聴いてそう思う保証はない。それは腹の減り具合はみな違うからでもあるし、今までの人生の差もある。
 ネットでは、このはどうスピーカーをあまり音楽を知らない人が喜ぶといった意見が出ている。それはオーディオ・ファンが評価しないということでもあるのだろうが、オーディオ・ファンが最も音楽を知っていると思うのは全くの思い上がりで、むしろ音楽の純粋な楽しみからは最も遠い人種と思える。限られた時間の人生、最良の音質を目指していったい何を聴くというのだろう。ベートーヴェンは耳が聞こえないのに第9交響曲を書いた。そのことは、音楽の本質は音質の優劣に無関係であることを示すだろう。筆者が小学生時代、ある人からオーディオ・ファンは汽車が迫って来て、やがて通過する録音を聴くことが楽しみということを耳にした。その時、本物の汽車が通過する音を聴けばいいものを、その録音がどんなに優れていても、本物の迫力にかなわないではないかと思った。つまり、筆者は限りなく現実に近い音を聴くことに興味がなく、楽曲を通じて向こうに広がる作曲家の頭の中に関心が強いことを自覚した。話を戻すと、そういう体験、経験には、存在感を主張するスピーカーは好ましくない。そこに音の鳴る道具があるという意識があれば、どうしてもその音質に気が逸れるからだ。これは、先日書いたように、光るスピーカーがいいという思いと矛盾するだろうか。そうとは思えない。スピーカーがどれもあまりに箱を主張し、デザインとして陳腐、無粋であるため、つまり見るに耐えないため、その欠点を補う、紛らわすために、光るようにすればどうかと思うのであって、現在の通常のスピーカーのそうした欠点を持たないものであれば、光ることはよけいだ。その観点から言えば、波動スピーカーはかなりストイックで、また一方で先に書いたようにロール・ケーキに見えて存在感がありながら、目障りでない。和風の家にぴったりであることは昨日書いたが、それはメタリックな感じがなく、有機的ということだ。そして、素っ気ないが、充実感が漂っていて、禅的とさえ言ってよい。いっそ、「無一物」というネーミングはどうか。芦田さんが取り出した波動スピーカーを見てすぐに漆で表面をデザインすればとの意見が出たのは、直感として正しい。工芸的、すなわち手作り感があって、これも心温まるところだ。そういう外見が音楽を聴くという楽しみを深層心理内で倍化させても当然であろう。外見に惑わされてはならないとよく言うが、外見に惑わされたと思う人は、実は外見を見誤っているに過ぎない。外見は内面とつながっている。これも昨日まで書いて来たことだ。
 わが家の3階で波動スピーカーを聴いたのは12時少し前までだ。正味1時間ほどだったろうか、聴きたいと思っていた曲はだいたい聴いた。それは波動スピーカーがヴォーカル曲に向くという前知識に、ある程度左右された。メレディス・モンクやシャンソン、シューベルトの歌曲など、そしてショパンやビル・エヴァンスといった、比較的静かな曲に終始した。それは遠慮したからではない。ザッパのうるさい曲を大音量で聴けばどうかを判定するとよかったかもしれないが、そういう大音量で聴くと、どんなスピーカーでも大差ないだろう。むしろ音を絞り気味にした時にどういう表情が立ち現われるかで判断した方がよい。接続コードが少し短かったが、一応は床の上に置いて部屋の真中辺りで聴くことが出来た。理想を言えば、軽いのであちこち移動させて、音像の変化を確認したかった。この持ち運びが容易というのはかなり魅力的だ。部屋の中で、最も動かしにくく、また存在が目立つのはスピーカーで、それを一掃してくれるのであればありがたい。波動スピーカーの背後に回って聴くことを忘れたが、それは大掃除をした際、本棚の本を数百冊ほど、床の上、ふたつのスピーカーの間に積み、背後に行くことが出来なかったからでもある。それで筆者の屏風をそれら本の山と波動スピーカーの間に立てて壁を演出し、普段筆者が聴く状態に近づけた。筆者のCDをあれこれかけた後、Oさんの持参したモンテヴェルディの『オルフェオ』を聴いた。時間がさほどなかったので悪かったが、ディスク1と2からOさんの好みの箇所を鳴らした。Oさんが神話好きであるのは知っていたが、こういうギリシア神話まで好みとは、虚を突かれた。古楽器による演奏で、その響きはすぐにわかった。Oさんは普段とは違う音で聴いたので、感動を新たにしたのではないだろうか。「大山さんは普段もこういう大きな音で聴いているんですか」などと訊かれたが、だいたいいつもそうで、それがOさんには意外であったようだ。波動スピーカーにかこつけて言えば、筆者はもっと小さな音で波動スピーカーを用いるべきで、Oさんは逆に波動スピーカーでいつもより大きな音で聴くのがよいだろう。普通の住宅で音楽を聴くのに、場所を取らず、デザインが特異でしかも音質もよいというのは何よりだ。その点では波動スピーカーに勝るものは今のところないかもしれない。日本のオーディオもここまで進歩して来たかという感慨を持つ。外来のものを和様化することが日本の大いなる特質とすれば、この波動スピーカーは日本が初めてスピーカーなるものに独創を込められた例ではないか。そこまで誉めれば大げさかもしれないが、それほどに同じような商品を見かけない。だが、そのことが際物とみなされる恐れはあるし、そのことは先に書いた。あれあれ、今日も「演奏家のいない演奏会」について書くことが出来なかった。予定を変えて明日も書く。全く埒が明かずにあきまへん。
by uuuzen | 2011-11-24 23:59 | ●新・嵐山だより
●波動スピーカー、その3 >> << ●波動スピーカー、その5

 最 新 の 投 稿
 本ブログを検索する
 旧きについ言ったー
 時々ドキドキよき予告

S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31
以前の記事/カテゴリー/リンク
記事ランキング
画像一覧
ブログジャンル
ブログパーツ
最新のコメント
言ったでしょう?母親の面..
by インカの道 at 16:43
最新のトラックバック
ファン
ブログトップ
 
  UUUZEN ― FLOGGING BLOGGING GO-GOING  ? Copyright 2024 Kohjitsu Ohyama. All Rights Reserved.
  👽💬💌?🏼🌞💞🌜ーーーーー💩😍😡🤣🤪😱🤮 💔??🌋🏳🆘😈 👻🕷👴?💉🛌💐 🕵🔪🔫🔥📿🙏?