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●嵐山駅前の変化、その164(ホテル、駅舎から広場)
態不安定。エキサイト・ブログのヘッダーが昨日から登場した。その画面の新デザインに際して、独自のヘッダーを用いて来た筆者は、このブログの見栄えをよくしようと、昨日はかなり手間取った。



その結果、WINDOWS XPのパソコンがまともに新ヘッダーが表示されることがわかった。ところが、今日確認すると、最新の投稿の題名がヘッダーの下に隠れた状態で表示される。それでまた画面設定のページでHTMLをいじり、題名が見えるように下にずらした。ところが、昨日とは違ってWIN98のパソコンでは正常にヘッダー内部にログインや検索窓が嵌った状態で表示されているではないか。これはエキサイト側がその後プログラムの見直しを行なったためだろう。WIN98を使っているユーザーから苦情が入ったのかもしれない。何事も始動開始当初は状態が不安定だ。そう思えばよい。それが安定すると、今度はまた斬新なデザインを考える番になる。そのことは不安定とは呼べないが、長年の間変化しないままのものはない。そんなことを思って今日はまた駅前の変化シリーズにする。他のカテゴリーに投稿したい内容をたくさん抱えているが、連日の清掃その他用事が重なって落ち着かない。明日以降来週半ばまでほとんど連日外出する必要もある。それはそうと、部屋の大掃除がてら、新しいCDデッキを購入しようと思っていた。それが今日届いた。早速セットして音楽を聴きながらこれを書いている。長年同じであったスピーカーの位置を多少変えたこともあって、音がまるで違って聞こえる。もうひとつ今日は新たな出来事があった。それはXPのパソコンにセットする、CDが書き込み出来る機器を買った。早速インストゥールして試すと、10分ほどでCDをコピー出来た。今までは妹の家に行って、そこでコピーしていたが、その手間が省ける。XPのパソコンは隣家を購入した時にそこにあった。それがなければ今でもWIN95や98を使いながら、不自由を感じていたであろう。だが、CDのコピーはごくたまにであるから、別に不自由とも思わなかった。そういう機会がてらにたまに妹宅に行くことはちょうどよかったのだ。ともかく、今日はそんな新たな出来事があって、何だか新たな人生が始まるような気がしている。実際はそんなことはなく、以前と同じような日々が続いて行くはずだが、新たな出来事は自分が行動して起こるのであって、今までに行動したことのないことをやれば新たな人生を味わう気分になれる。ところが、今までにないことをするのは、若い時は簡単でも、次第に億劫になるだろう。若さの秘訣は全くそれで、何事にも果敢に挑戦するかどうかだ。それがなければ若くても老人と同じで人間的魅力がない。たとえば筆者の息子はすぐに無理だという言葉を使うが、若者が無理とは何事かといつも叱り飛ばす。やりもしない間から無理を言うのは楽だ。無理と思うから無理であって、こんなもの簡単と思えば簡単だ。自分で暗示にかけもしないで、何事も出来るはずがない。無理を連発する自己逃避からは、何の新しい出会いも生まれないし、人間的魅力も具わるはずがない。
●嵐山駅前の変化、その164(ホテル、駅舎から広場)_d0053294_22523096.jpg

 全く未知の分野に関心を持つことは若い頃の特権だ。ほんの少しでもいいから、そういう関心を若い頃にたくさん抱えておくのがよい。その大部分は、普通は年齢を重ねるとともに消えて行く。そして会社を定年退職した時に何をしていいかわからなくなる。定年後に趣味を見つける手もあるが、長続きし、奥深く進むことが出来るだろうか。若い頃に無理と自己暗示をかけて尻ごみしていたならば、それこそ老いてからあらゆることにおじげづいて、自信のかけらもない顔をしているだろう。いや、そういう人でも自信はある。その自信とは、人の言うことに耳を貸さず、自分だけが正しいというものだ。息子にはそんなふうに老いてほしくないが、こればかりは自分で悟るほかない。筆者は自分の好きなことだけをして今まで生きて来た気がするが、いやなことに対して自信がなく、無理だと思っていた、あるいはいるのではない。むしろ、無理と思えること、つまり苦手なことになるべく関心を抱いてそれを好きになるようにして来た。また息子のことを書くと、息子はアメリカのB、C級のハード・ロックを好んで聴いているが、それ以外に音楽に何ら関心を抱かない。それは価値を認めないためか、あるいはおじげついて聴く気がしないのかは知らない。これが彼女でも出来て、その彼女がジャズやクラシックを好むと、息子も一夜にしてそういう音楽も聴いてみようとするだろう。好きな音楽だけ聴く態度は正しいが、その好きな音楽の幅を広げる思いがなくてはならない。彼女が出来れば聴く音楽が変わるというのではなく、自分から進んで聴く音楽を多様化させれば、彼女は出来るというのが筆者の考えだ。つまり、話は逆なのだ。何事にも挑戦し、その本質を見定めようとする人は、無理という言葉を思わず、自信を少しずつ積み上げて来たため、傍目には魅力的に映り、自然と人から評価もされる。繰り返すと、好きなことだけをすることは、実はとてもハードで、苦手なことの本質を見定め、そこに深く分け入り、次々とそれを恐がらないようになって行くことなのだ。筆者は物事をそういうように考える人が好きで、そうした人と知り合いになりたいが、これも年齢を重ねるとなかなか難しくなるだろう。自己が固まり、他人の意見を受け入れ難くなるからだ。それを常に意識し、そうならないようにしておくのがいいが、年齢を自覚する、させられることがあれば、それ相応の雰囲気や態度を持たねばという思いが育って来る。最近家内から面白い話をした。大学の先生で60歳くらいになる男性は、家内の知る限り、昔からダンディだが、その人が最近河原町に出るのが億劫と言うらしい。それなりの洒落た格好をせねなばらないというのがその理由だ。道行く誰もその先生の服装を気にしないとは思うが、そうであっても大学の先生が60歳にもなれば、自分にふさわしい身なりをいつもしておくべきという考えを抱いて当然だ。筆者はその話を聞きながら、自分の出かける時の服装を思い浮かべた。全く60には見えない格好のはずで、これではよくないと思いながら、自分の好きな格好でまあいいかと、半ば無関心を装う。
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 老化するとお洒落をする必要があると、昔TVである人が言っていた。老化すると皺や染みが増え、醜くなるので、その分服装が清潔で洒落たものでないと、まずます惨めに見えるとのことだ。確かに若い時は破れた服でも流行のファッションとして通用するが、それを老人が真似しても滑稽なだけで、年齢にふさわしい雰囲気の身なりはある。好きなものを着てよいとはいえ、見苦しくなれば逆効果だ。街を歩いて、後ろ姿がまるで20代の女性がいて、老い越し様に顔を見ると50代であったりして、ぞっとすることがある。本人は年齢を意識していないのだろうが、顔が年齢にふさわしい貫禄がない。同じようなことを家内が言う。これはTVに出るタレントだが、50や60代になって20代の若者のように髭を生やしたりしているのを見ると、とても違和感を覚えるらしい。その髭がお洒落ではなく、ただの不精に見えるらしい。芸能人でさえそれであるから、一般の中年が若者を意識して同じような身なりをすると、一種異様な感じが漂う。その異様さをかもしたいのであれば話は別だが。こう書きながら、筆者はかなり異様な部類かと思わないでもないが、自分らしさが出ていればいいと思うことにしている。その自分らしさとは何かを言えば、曲りなりとも創造的な仕事をしているということだ。それは人間にとっては一種のピエロ的存在であって、ピエロは変わった格好をすべきなのだ。だが、筆者はそれほどに変わった格好をする勇気はないし、第一その経済的余裕がない。何だか老いを話題にし過ぎだが、それも還暦を迎えたためだろう。年齢をさほど気にしてはいないが、気にすべきであることはよくわかっている。その気にすべき観点から、最近はいろいろ自分のことを考えてみる。先の話につながるが、昔からずっと好きである何かに対する趣味も、老いるほどに深まると言うより、むしろ興味を失うことの方が多いのでないか。そうであるから、若い頃に何の趣味もない人はそれこそ老いると新しい興味が湧くはずがない。そんな他人のことはどうでもいいとして、筆者が今まで興味を抱いて来たことに対して少しずつ熱が冷めるようであることは、最近になってうっすらと感じる。これは体力の衰えによる気力減退と思うことにしているが、そのように客観視出来ている間はよい。問題なのは、いつの間にか、その自己の客観視にも飽きることだ。おそらく、人間はそのように遺伝子が組み込まれている。あれほど熱心であったことにさっぱり身が入らなくなる。その思いが充分に体内を満ちた時が、死の直前なのだろう。これは不幸な話ではなく、全く反対に人間に与えられた大きな幸福ではないか。老化で死ぬ寸前まで若い頃と同じように執着があるというのでは、気分よく死ねない。
●嵐山駅前の変化、その164(ホテル、駅舎から広場)_d0053294_2253529.jpg

 なぜこんな話になるのかと思う。ここ数日部屋をきれいにしたためか。子どもの頃に何度か耳にしたことに、急に部屋や身の回りを整理すると突然死ぬといのがあって、それを思い出した。自分は死ぬとは思っていないが、いつ死んでもいいように毎日過ごさねばとは思う。あたりまえのような日常が、過ぎ去ってから思い返すと、一番人生の華やかな時であったことに気づく。そういう楽しい時期は誰にもあるが、その楽しい盛りにそのことに全く気づかない。気づいても、もっと楽しいことがこれからあると思う。ところが、たいていはそうはならない。老いると感激も少なくなるのだ。今日筆者は新しいCDデッキを具え、CDを自宅で焼ける態勢にもなったが、感激などない。そして何が今まで最も大きな感激であったかとなれば、あれこれ思い出すが、それらに匹敵する体験がこれからいくつあるかと言えば、もうあまりないだろう。あるとすればそれは何かを次に自問すると、突き詰めたところ、結局創作しかない。自分も含めてまだ誰も見たことのないものを生み出す。それに勝る楽しさはない。楽しい音楽や映画、会食、素敵な服や快適な住居など、みんなある意味ではどうでもいいことだ。それらを豪華なものに順次代えて行ったところで、きりがない。そこに感激などあるだろうか。ただ物が溢れ、栄養過多で体を壊すだけのことだ。はははは、こんなことを書くのは、精神の状態が不安定であるからかもしれない。ではどうすればそれが安定するかと自問すると、答えははっきりとわかっている。創作活動に入っていないからだ。蚕が繭を紡ぐ時、一心不乱にその作業をする。それは蚕にとっては絶頂の幸福だろう。脇目も振らず本来の作業に没頭する。動物でも植物でも人間でも、生命はすべて同じだ。その本来の作業が、人間の場合、頭が大きくなって分化が進み、そして文化を生んで、分業を取ることになった。どの分野に携わろうと、一心不乱にやるほか、幸福感は味わえない。そしてその幸福感は、それが過ぎ去って長年経ってから気づき、その時にはそれが失われて存在しないことも知る。さて、今日は去年12月20日の駅前写真を3枚載せる。紅葉が散り、観光客が来なくなる時期で、その寒い雰囲気が出ている。寒いのはいやだが、その寒さに入れば、それはそれでまたいい。ただし、風邪を引いてはつまらないというつまらないことを書いて今日はおしまい。
by uuuzen | 2011-11-16 23:00 | ●駅前の変化
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