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●雨の日から雨の日へ
燥を防ぐために、眠っている時以外は涙が出続けている。これは昨夜のTV番組で知った。パソコンの画面を1時間見つめると15分ほど目を休めるのが目玉の乾燥にはいいらしい。



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今日は特に目が疲れていると言うか、瞼が重くて痒い。そして眠い。なるべくパソコンに向かわないでおこうと思いながら、また夜になったので、こうして長い文章を書き始めている。「おにおにっ記」を再開すれば短文で済むが、この調子では年内は無理だろう。さて今日は何について書こうかと思いながら、溜まっている写真を消化する。5枚載せるが、最初の2枚は10月の中旬で、その次の3枚は一昨日書いた『細川護煕-陶と書』を見た日の撮影だ。共通点は雨天であることだ。ドライ・アイなので、本能が水分を欲したのかもしれない。さて、没にしようと思いながら気になっていたのが、最初の2枚だ。この2枚は、今調べたが、『新天地を求めた京焼 清水焼団地五十年の歩み』の投稿の最後に載せた写真と関係する。その写真は、江戸時代の人物を模した陶人形の部分を撮影したもので、その作者の家をたまたま歩いていて見つけた。あまりに奇遇で、その作者の家の前の道を撮影した。下り坂で左が崖で、どこか夢に見そうな雰囲気がある。その家を見つけようと思って歩いたのではなく、いつものように往復では違う道を辿ることの好きな筆者が、適当にいつもとは違う道を歩いてバス停に向かった時、突如その陶芸家の家が目の前に現われた。ほとんどそれは夢に近い出来事で、自分のテレパシーが通じたかと思った。というのは、その陶人形を入手してわずか1週間ほど経った頃であったからだ。ついでに書いておくと、その陶芸家はとっくの昔に亡くなっているが、その子孫が同じ場所で作陶している。また、『新天地を求めた京焼』の前々日に投稿した『ZIPANGU ジパング展』の最後に掲げた写真は、同じ江戸時代の人物を、同じくもうこの世にいないある日本画家が描いたものだ。何だか奥歯に物がはさまったような書き方で、さっぱり意図がわからないと思うが、筆者にすれば気になっていたことが何の予想も期待もないのに氷解したので、今日の1枚目の写真はいずれ掲げたいと思っていた。この写真だけ見てどこかわかる人は、たぶんその家の近くの人だけと思う。京都の市内は狭いが、それでも隅から隅まで歩いたことのある人はごく少ないだろう。それに比べて、2枚目の写真は場所がわかる人は多いと思う。この写真に見える場所も、筆者には夢に出て来るような気がして、写真を撮っておきたかった。右手の道は上がり坂、左手は下り坂になっていて、右の道には後ろ姿を見せる人がひとり、左の道はこちらに向かって歩いて来る人がひとり写っている。それも面白いので、人の姿が消えないうちにと思って急いで振り返って撮った。
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 この2枚目の写真が気に入っていることもあって、数日前、ある人を訪問する時、いつもとは違ってこの2枚目の写真に見える道、つまり写真の奥に向かって歩いた。10月の中旬に訪れた時は、この写真の奥からこっちへと向かって歩いたので、その逆を辿ろうとしたのだが、方向音痴の筆者は、道を覚えることが苦手だ。それで、この2枚目に写る道を過ぎて、その後はさっぱりどう行けばいいのかわからなくなった。かなりの雨でもあって、行き交う人は皆目ない。それに、3時に着くと伝えておきながら、すでに4時を回っていた。少しでも早く着きたいのであれば、歩き慣れた道を行くべきであるのに、わざわざリスクを冒して見知らぬ道を行くのであるから、筆者はよほど変わっている。あるいは無謀だ。予想したとおり、途中で袋小路に入ってしまった。焦る気持ちでいっぱいなのに、見知らぬ道で迷う。これは睡眠中の夢と全く同じ気分でもあって、夕暮れ近い坂道を上りながら、何だかわくわくした。今度は坂を少し下がり、また違う道を歩きながら、もうそろそろいつもの道に合流するかと思ってその方向に行くと、やはり見知らぬ道だ。歩き慣れた道に出られないことがまた夢の感触と同じだが、心のどこかで絶対に辿り着けるという自信がある。それは夢ではないことを知っているからだ。いくら夢と同じものを感じても、それは現実以外では決してない。高度的にはいつもの道とほとんど同じほど上ったという気がした時、どこかで見たことのある道に出た。そしてそこから横丁を20メートル行くと、目的の家の前であった。いつもとは反対の方向からその家に着いたのだ。当てずっぽうで歩いて目指す場所に着いたのであるから、これは夢とは全く正反対だ。夢ではいつも目当ての場所に着くことが出来ず、そのうちその目当ての場所さえもわからなくなる。現実がそうであっては困ったものだが、たいていの人はそのような人生を送る。何が自分の望む目的かを知らず、あちこち右往左往してそのまま御陀仏だ。だが、その方がいいのかもしれない。明確な目的を持つと、その達成に懸命となり、そして達成出来ればもう望みはなくなって、も抜けの殻のようになる。それはいいとして、筆者がどの道をどう歩いてその家に着いたかをヤフーの地図で調べて、道筋を赤線でなぞることもいいが、どこをどう歩いたか記憶になく、地図ではわからないだろう。また、自宅を含まないので、地図を掲げるのはまずい。
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 次の3枚の写真に移る。没にしてよかったが、雨天に撮った点で共通する。そう言えば、4時間ほど前にムーギョに買い物に出かけた時、満月に近い月がおぼろになっていて、どうやら明日は雨のようだ。阪急の御影駅の南東にこんもりとした森が見える。そこが弓弦羽(ゆづるは)神社で、そのすぐ隣に香雪美術館がある。それは知っていたが、実際に行ったことがない。それでまず森を目指した。そして奥に本殿を見る参道の入り口まで来た。美術館らしきものはそこからは見えない。せっかくなのでまず神社を見ようと、参道を奥に進んだ。社務所が見えるところに来た時、右手に犬の石像が2体あって、犬の水飲み場が設置してあった。犬の彫刻はいかにもペットらしく、しかも金持ちがかわいがるような犬だ。神社境内では素朴な柴犬が似合うと思うが、ペットらしくないと思われたか。ともかく、その2体の犬の品種は、御影のその付近の裕福な人々がいかにも飼いそうだ。神社が犬を連れた人の散歩コースになっているのだろう。この水飲み場のサービスは地元住民の要望もあったのかもしれない。昨日のTV番組に、50代の子どものいない金持ちの夫婦が犬をペットにしていて、その犬の食事や服装がどれほど高価であるかを伝えていた。筆者の何倍もの食費で、衣類もそうだろう。ペットを猫かわいがりする人が増えているそうだが、それは暮らしが豊かになったばかりが原因ではなく、孤独を埋めるために必要なのだ。子どものない夫婦なら施設の子を養子として育てればいいと思うが、血の通わない人間よりも犬などのペットが気楽でいいのだろう。その気持ちはわからないでもない。筆者なら子どもがいなければいないでどうにか過ごし、ペットは絶対に飼わない。それは幼い頃にペットを飼ったことがなかったからでもある。今でもペットを飼うつもりは全くないが、先日ある人と話をした時、その人が以前篭に入った緑色の鸚鵡を3日間預かったことを面白おかしく話題にした。そのような鸚鵡がいくらするのか、ネットで調べると、20万から30万円の間で、かなり高い気がする。それでもバッグひとつで数十万円するものなどざらにあることを思えば安い。鸚鵡もいいが、筆者は昔からフクロウがいいと思っている。小型のアフリカ産だったと思うが、目玉が体躯に比べて異常に大きなのがいる。ネットのペット・ショップで入手出来ることを数年前に知り、そのホームページを長い間「お気に入り」に登録していたが、OSを入れ直した時に消えてしまった。だが、昨日ネット・サーフィンしていると、同じフクロウを飼っている人を見つけた。そのおもちゃのような小型フクロウもいいが、やはり古典的と言おうか、日本の森にいるようなのがいい。だが、そんな鳥を飼うと、餌代で大変だ。それで想像だけにしておく。
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 香雪美術館の場所がわからないので、社務所の前に行った。道を尋ねている先客があって、なかなか話が終わらない。傘を差しながらイライラし始めたその矢先、ようやく巫女さんがこっちに向いてくれた。すかさず質問。すると、目の前の細い道を抜けて右に折れるとすぐと言う。そう予想していたが、遠回りになるリスクを冒さぬように、訊いておくべきだと思った。筆者ひとりなら、訊かずにさっさとその道を進んだが、家内がいればそうは行かない。とにかく家内に言わせると、筆者との生活はあまりにも回り道だらけで、何倍も疲れるとのことだ。その回り道はリスク回避のためではなく、ただの方向音痴の無駄骨で、つまり一緒に行動すると、疲ればかりが溜まるということだ。昨日書いたように、わが家を起点に9キロも歩くなど、もってのほかで、そんなことはどうぞひとりでやってくださいだ。参道とは直角方向のその道を行く前に、本殿の写真を1枚撮った。ちょうど傘を差して赤い袴をはいた巫女さんが参拝者と一緒に出て来たところを狙った。時間があれば神社をもっとゆっくり見たかったが、雨であり、また香雪美術館の次に別の美術館に行く予定を立てていた。全くタフと言おうか、どこまで歩けば気が済むという筆者だろう。家内がほとほと音を上げるのも当然だ。さて、また非常に眠たくなって来たので、今日はもうこれで終わりにするが、一段落としては字数が少ないので、もう少し何か書こう。今日の5枚目の写真は、阪神電車の最前列に陣取って撮った。甲子園あたりだと思う。雨がひどくなって来て、運転手は前方が見にくいだろう。だが、電車の運転は線路の終わりがあって、気楽なように思う。バスのように他の車を気にすることもない。だが、線路の終点に到着するのは、バスとは違ってさびしいものがあるのではないだろうか。『ああ、後何回終点まで運転すれば定年を迎えるのか』といった思いになることもあるはずで、人生は線路に似ている。終点に墓がぽつんと立つのも線路に何となく似る。梅田の終点で阪急に乗り換え、そして特急に乗って高槻で下車し、駅前の大きな病院で入院したばかりの家内の姉を見舞った頃はもう真っ暗になっていた。雨は相変わらずで、秋の夜はよりしんみりとさせる。30分ほど病院にいたが、病院を出る時、つくづく病院の空気は嫌いだと思った。学校は卒業すれば二度と門をくぐりたくなく、また病院も行かずに済むのであればそうしたいが、今では誕生と死の両方を病院が司っている。そのため、老いてからの病院はなおさら陰気でいやな場所となる。そこから脱してまたいつもの日常生活に戻れるのであればいいが、入ったまま出て来られない場合もある。病院が人生の終点であるというのは、どうにもロマンがない。だが、元気になって少しでも長く生きたいと思うからこそ、病院に入る。そう思えば病院はロマンのある場所だ。きれいな看護婦さんがいればなおさらだが、今は看護士と呼ばねばならない。患者は女性もいるし、女性は男性の看護士がいいだろう。
●雨の日から雨の日へ_d0053294_113318.jpg

by uuuzen | 2011-11-09 22:59 | ●新・嵐山だより
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