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●『13人のドイツ・コミック作家展-オルタナティヴからMANGAまで』
替のものと言えばいいのか、「オルタナティヴからMANGAまで」という副題の「オルタナティヴ」をどう訳せばいいのかよくわからない。



この言葉が日本語のようによく使われ始めたのはもう25年ほど経つと思うが、今でも完全に日本語となったとは言い難いのではないだろうか。辞書によれば「二者択一の」とあるが、これもあまりぴんと来ない訳語で、「二者択一からMANGAまで」と理解しようとしても、さらにどういう意味かよくわからなくなる。そこで筆者なり「alternative」を今風に訳すと、「のようなもの」がいいいように思える。つまり、「オルタナティヴからMANGAまで」は「マンガのようなものからMANGAまで」となる。「マンガ」と「MANGA」がどう違うかと言われそうだが、これはもちろん前者は「日本製」、後者は「外国製のマンガ」だ。また、「のようなもの」と訳すと、この副題の意味が通じやすくなるが、「二者択一の」という元の意味を思うと、「マンガのようなものではあるが、マンガに匹敵するほどの存在感のある新しい潮流」ということを基本として思っておくのがよい。そういう長ったらしい表現を単に「オルタナティヴ」と言うことで悟ることの出来ない人は、この言葉を冠したようなものには接近しない方がよい。そのため、この25年ほどで日本語と化した「オルタナティヴ」という言葉に戸惑っているような筆者は、本当はこの展覧会を見る価値がないが、せっかくのいい機会と思って出かけた。昨日書いたように、先月14日の大雨の午後だ。この展覧会を知ったのは9月3日、ドイツ文化センター(これは古い呼称)にピナ・バウシュの『カフェ・ミュラー』を見に行った時のことで、今日掲げるチラシをもらった。そう言えばその日も雨だった。その日、ドイツ文化センターでは女性係員とこの展覧会について少しだけ言葉を交わした。「ドイツのコミックは珍しいですね。」「そうですね。フランスがヨーロッパでは一番日本のマンガの人気が高いですが、ドイツも最近はそういう傾向が現われ始めました。」 といった内容で、これは見ておくべきだと思った。そう考えたのは、脳裏にケストナーの子どもむき小説の挿絵を描いたヴァルター・トリーア(トリヤーと覚えていたが、ネットで調べるとトーリアが正しいようだ)を思い出したからだ。また、ドイツでは最も有名な漫画家でケストナーと仲がよかったE.O.プラウエンの展覧会を1980年代後半に見て、その図録を所有するが、そうした戦前の優れた漫画家の後を継ぐ作家を知るにはいい機会だと思った。それにしてはあまりに小規模で、また13人は多いが、それなりに面白かった。40分ほどかけて見たが、その間にやって来た若者数人で、しかも1分間も会場にいなかった。それほど知られない、また関心が持たれない展覧会であったが、ククムムに入る前、烏丸通りに面した塀にあっポスターには、「好評につき24日まで延長」という張り紙がしてあった。それなら大雨の日に出向かなくてもよかった。だが、せっかく入り口にまで来たからには引き返すのはもったいない。ククムムでもチラシをたくさん取って来たが、持っていた手提げ袋が雨でずぶ濡れになった。帰宅してすぐに中のチラシを引っ張り出して乾かしたものの、たわみが戻らない。ドイツ文化センターでもらった皺のないものがあるはずだが、それを探すのが面倒なので、今日掲げるこの展覧会のチラシは、雨で濡れたものを写す。そして、たわみ箇所が照ったので、画像加工ソフトでそれを消したが、文字が印刷される部分はそのままにした。図録は販売されていたのかどうか、置かれていなかった。ただし、13名の作家を紹介するパネルに採用された作品の吹き出しは、日本語訳が冊子にまとめられていて、それを片手に順にパネルを見て回るという格好であった。この冊子は要返却で、販売されていなかった。
●『13人のドイツ・コミック作家展-オルタナティヴからMANGAまで』_d0053294_033512.jpg

 使われた部屋は教室の3分の1程度の小ささで、部屋のすぐ外にテーブルと椅子が2、3客ほどあり、そこで13名の作家の本の実物を手に取って見ることが出来た。どれもハードカヴァーの立派な造本で、日本の漫画単行本のような小型で手軽なものは1冊もなかった。このことは13名の位置をよく象徴しているだろう。パネルの数は各作家2枚から4枚程度だ。好みの作家がひとるふたりあればいいと考えながら順に見たが、結果を言えば、やはりひとりだけ強く印象に残った。今日はその作家の漫画を取り上げようかと思ったが、先にこの展覧会について書くのが筋だと思い直した。チラシ裏面に13名の作家の図版が1カットずつ載っている。言葉で説明するよりそれを見せる方が理解にはよい。13名を順に書くと、チラシ左上隅から右へ順に、まずアルネ・ベルシュトルフ(Arne Bellstorf)の「教えてよ、ママ……氷河期世代の子どもっていったい何?」、マルティン・トム・ディーク(Martin tom Dieck)、アンケ・フォイヒテンベルガー(Anke Feuchtenberger)の「wehwehwehsupertraena.de」、イェンス・ハーダー(Jens Halder)の「アルファ」、フリックス(Flix)の「そこに何かがあった……」、ザシャ・ホマー(Sascha Hommer)の「昆虫」、イザベル・クライツ(Isabel Kreitz)の「点子ちゃんとアントン」、ラインハルト・クライスト(Reinhard Kleist)の「キャッシュ-暗闇を見つめて」、リーネ・ホーフェン(Line Hoven)の「エーヴェリーンのE」、マーヴィル(Mawil)の「自転車ツアーのチェックリスト」、クリスティーナ・ブラカ(Christina Plaka)の「YONEN BUZZ」、ヘニング・ヴァーゲンプレット(Henning Wagenbreth)、ウルフ(Ulf)・Kの「ペレとブルーノ」で、以上題名なしは、「無題」だ。まずチラシの表に採用されたクリスティーナ・プラカだが、絵を見てわかるように、ほとんど日本の今風の漫画だ。その作品「YONEN BUZZ」は、ドイツのふたりの若い女性ロッカーが日本にやって来て、日本のバンドと一緒に演奏する話で、少年ナイフという文字も見えた。各作者のプロフィールがパネルに用意されていて、プラカは実際に日本に来て取材してこの作品を描いたようだ。日本の漫画やアニメ、そしてファッションや音楽に関心があるドイツ人女性は珍しくはないだろう。プラカは来日して、自分の体験を織り交ぜながら作品を描き、それが日本の漫画の影響を強く受けたものになるのは当然のことと言える。いわばフランス寄りの姿勢だ。こういう作家は今後増えるだろう。見所は、「西洋人が見た日本」で、昔ラフカディオ・ハーンがやったことを今は漫画家がすると思えばよい。また、日本の漫画に似た描き方は、西洋では驚きと羨望の眼差しで見られる向きもあるかもしれないが、日本側から見ると、ドイツらしさがなくて物足りない。だが、そういうことはプラカ以後の世代がもっと変わった道を切り開くかもしれない。
●『13人のドイツ・コミック作家展-オルタナティヴからMANGAまで』_d0053294_2293113.jpg プラカ以外の12人は、みな日本にはいないタイプの作家ではないだろうか。筆者はその方が面白い。ただし、漫画と言うより、それこそオツタナティヴで、絵画と呼ぶべきアンケ・フォイヒテンベルガーや、あるいは図鑑の挿絵家として分類すべきイェンス・ハーダー、そしてほとんどアメリカン・コミックと同様のタッチのようなラインハルト・クライスト、またジョン・ゾーンのアルバム『スパイ対スパイ』のジャケットを描いた作家かと一瞬思わせるヘニング・ヴァーゲンプレットもアメリカの80年代以降の漫画家の影響だろう。また、それこそケストナーの小説『点子ちゃんとアントン』をそのまま漫画にしたイザベル・クライツ、カフカの世界を漫画に置き換えたようなザシャ・ホマーの作品など、ドイツの漫画ないしそのようなものの置かれている状況がほとんど予想どおりと言ってよいほど揃っていた。当然13人は選び抜かれたはずで、いちおうはこれでドイツの漫画の現状を思えばいいが、日本の漫画に比べて、概して動きが少なく、コマ割りも単純だ。そのため、全体に退屈だが、各コマはよく吟味されて、ていねいに描かれ、その職人的と言ってよい技術はさすがのドイツを思わせる。それは漫画という言葉はふさわしくない。週刊誌で次々に消費さえて行くものとは違って、ハードカヴァーの単行本として出版され、長年作品としての価値を落とさないといった重厚感が強い。これは日本的な意味での漫画とは全くの別物だ。たとえば昨日書いた『ピアノの森』は、1巻読むのに15分ほどあればいいが、そのほとんど瞬時に見開き両ページを理解してしまえる流れとは大いに違って、各コマをじっくり鑑賞しながら、作家ごとの独特な様式を楽しむというところに醍醐味がある。そして、漫画よりも画家の絵画に関心がある筆者は、これら12人の作家の画風がとても新鮮だ。昨日書いたように、日本の漫画家の絵の様式は、ほとんど出尽くしていて、どの作家もデ・ジャヴ感がある。それが、これら12人にあまり感じられないのは、それだけ筆者がドイツの漫画家を知らないからだと言えるが、それよりも大きなことは、日本の漫画家が先輩漫画家を模範として、その模倣に終始しているのに対し、ドイツではトリーアやプラウエンの伝統はあるものの、あからさま影響を蒙ることを潔しとせず、自分の中から独創的なものを見出そうとする態度があるからではないか。日本ももちろん独創的な漫画家でなければ生き残れないが、それは読者あってのことで、週刊誌文化にいい意味でも悪い意味でも支えられている。ドイツではそうした漫画を専門に連載する雑誌がどれほどあるのだろう。おそらく日本ほど多くはないはずで、ドイツの漫画家は歴史的にも数としてもごく少なく、そのことが特徴ある様式をもたらす理由になっていると思える。また、そうしたドイツ漫画の一風変わった、そして凝った様式を日本の漫画家が模倣することが出来るかとなると、おそらく無理だ。また模倣出来たとして、その才能が活かされる場がないだろう。そこで気になるのは、ドイツの漫画家がどのようにして食べているかだ。また、日本の漫画家に比べて収入がどうであるかだ。そういうところにまで踏み込んだ紹介がほしい。
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 印象に残ったものと言うより、説明のしやすい作家をいくつか取り上げよう。シュルレアリスムの悪い夢版といった感じのアンケ・フォイヒテンベルガーは、吹き出しを持ったコマ割りで見せず、絵本のように各場面は独立した絵画作品と言っていいものになっている。これはそれこそ最初から単行本として出版することを思っての作画であろう。その画風の気味悪さは、日本の怪奇漫画の比ではない。これはこれで漫画の範疇ならではの作品であり、それ相応のファンがいると思える。とにかく各場面が強烈で、現実にはあり得ない光景の連続だが、無茶苦茶を描いているという感じがないのは、作家が夢に見たことをそのままなぞったりしているせいか。ともかく、こうして思い出しながら書いていて、背筋が凍りつきそうだ。そうした暗い内容の作品が生まれるのは現代の大きな特徴かもしれない。イェンス・ハーダーは漫画のコマ割りの技法は取っているものの、各コマは百科事典の挿絵であり、多くの資料を駆使し、科学的に精密に描いている。そして、時々ギャグを入れることを忘れておらず、そこが漫画ならではの技法だ。まともな絵を子どもに見せたいと考える親はこの作家の作品を喜んで子どもに与えるはずだが、日本の消費的な漫画を好む人には退屈過ぎてあくびが出るだろう。だが、技術は素晴らしく、作家もそれを誇っている。そして、それだけの価値が充分にある。日本では見られないタイプの作家ではないだろうか。昔の小松崎茂あたりがこうした絵を好みそうだが、小松崎を思い出すところ、やはりこのイェンス・ハーダーは古典的な作家と言える。その反対がたとえばザシャ・ホーマーだ。『昆虫』は、昆虫のような顔をした子どもを生んだ母親が、子どもがいじめに遭うため、別の場所に引越し、そこで暮らすという内容だが、絵はいわゆる漫画らしい漫画でコミカルだ。ところが、ストーリーは暗く、またコミカルなタッチの中に不気味さが明確にあって、見ていて気分はよくない。だが、これは以前筆者が書いたように、たとえばスマイル・マークの笑顔が不気味に思える瞬間があるということに通じていて、単純化された様式が、必ずしも喜怒哀楽の記号性に一致しないことを意味しているようで、その意味では哲学的な漫画と言える。筆者が日本の漫画を退屈と思うのは、喜怒哀楽の記号性に何の疑問も抱かずに、登場人物のキャラクターづけをして描いていることだ。人間は同じ笑顔でも、本当に内心笑っている場合と、その反対がある。漫画は言葉の助けなしではそれを描き切れない。そこが漫画というジャンルの弱さに思える。イザベル・クランツの漫画は、トリーアを崇拝しているらしく、ドイツの伝統的な漫画のうえに、現代的なものを表現しようとしている。この作家も日本の漫画家にはない巧みな技術を持っていて、そのあまりのうまさにかえって面白味を感じない。漫画と呼ぶには真面目過ぎるのだ。ラインハルト・クライストは、アメリカのジョニー・キャッシュの生涯を描いた作品が紹介されていた。キャッシュの顔をここまでそっくりに単純化して描くところに見所がある。麻薬と酒に溺れたキャッシュの実像を描き、これはアメリカでもかなり売れていると思える。日本ではキャッシュの人気はさほどではなかったので、この作品が翻訳出版されることはないだろう。また、伝記漫画は、日本ではどれほどあるのだろうか。あってもフィクションの混ざりが多いのではないだろうか。リーネ・ホーフェンは、スクラッチ技法に頼っている。これは5年前にこのカテゴリーで取り上げた『世界のマンガ展』に書いたスイスのトーマス・オット(Thomas Ott)の技法でもあるが、黒い塗料を塗ったボードを針状のもので引っかいて、下地の白い部分を見せる。切り絵のような雰囲気を持ちながら、白黒の漫画の1コマでもあって、日本の漫画のようにペンで描くのとは最初から様式が違っている。その技法の多様さは日本も見習うべきだが、漫画雑誌の稿料ではとても引き合わないだろう。スイスはドイツの隣なので様式が近い作家がいるのは不思議でない。そうなるとヨーロッパの他の国はどうかということになる。それは5年前の『世界のマンガ展』で簡単に紹介されたということなのだろう。毎年同じタイトルで動向を展示するのがいいと思うが、この13人のドイツのコミック作家展ですらガラ空き状態では、ほとんど評判にならないだろう。また、世界の漫画を知るより、日本の漫画こそが世界一と自惚れているところがあるのではないだろうか。ないものねだりかもしれないが、筆者は今回の展覧会はドイツの漫画家のしっかりした表現力に非常に感心した。だが、それは漫画と言うより、別の呼び方をすべきで、つまりは「のようなもの」ということか。
by uuuzen | 2011-11-04 23:59 | ●展覧会SOON評SO ON
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