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●にぎにぎいきいき
ぎやかな色合いの花が咲いていたので写真を撮った。先日家内の父親の命日に、高槻の実家に向かう途中に咲いていた。マツバボタンの一重の品種だ。マーブル・チョコレートのようにカラフルで楽しい。



●にぎにぎいきいき_d0053294_23273182.jpgマーブル・チョコレートは今もあるのだろうか。これをよく食べた世代は50代後半のはずで、もう老人世代だ。マツバボタンは古くから知られるが、園芸種が増えて、個々に名前がつき、この道端に咲いていたものもそれなりの特別の名前があるだろう。それはいいとして、何度も書くように筆者のデジカメは10年ほど前の旧式で重いこともあって、出かける際に持つ割合は2回に1回だ。また、持って出た時には、何か撮影するに足る対象を見つけようとするが、2回に1回は全く撮らない。ということは4回出かけて1回撮る計算だが、その1回に数枚ほど撮る。そうして撮り溜めたものが今月に入ってすこし目立つので、お盆休みに集中して投稿しよう。阪急駅前の変化シリーズは、書く内容は題名にさっぱり関係がないので、今日の内容もそのシリーズに載せてもいいが、駅前以外の写真を掲載するならば別の題名とカテゴリーにしなければならない。そして、溜まった写真が古くなり過ぎると、載せる気分が失せるので、記憶が新しい間に限る。また、去年撮った駅前の似た写真の投稿が続くのは、筆者としても退屈だ。そう書けば、駅前以外の写真がいかにも価値があって面白いようだが、その自信はない。だが、わざわざ撮る、またブログに載せる写真は、それなりに選択眼を通したものであるから、改めてそれを見ることで、自身の興味が確認出来る。あるいは、行動範囲の驚くほどの狭さを知る。それはいいとして、筆者の撮る写真をブログの訪問者がどう感じるのか、そのことについての興味もあるが、ま、いつも書くように筆者の行動に注目する人はいないから、この文章にしても写真にしても記憶に残るほどのものは何もないだろう。自分だけが満足すればよく、せいぜい自分の興味がどこへどう広がって行くかを楽しみに毎日過ごせばいい。ということで、最初に書いた言葉のように、筆者はにぎやかなことが好きだ。それは大勢で騒ぐことだけではなく、むしろひとりでいて、にぎやかに咲く花とか、雀々集まる雀を見るといったことでよい。たくさんのものが集まっている状態が好きなのだ。こうした毎日長文を書くのもそういう性質による。そして、そのたくさん集まるものは、色も形も多いのがよい。マツバボタンはその点ではにぎやかな代表だ。このにぎやかな様子が好きなのは、都会か田舎か、どちらかの育ちに関係があるだろうか。それは多少あると思うが、もっと深い、遺伝的な資質に関係するかもしれない。筆者は服でも色合いが派手なものが好きで、家内の服もよくあれがいい、これがいいなどと、ふたりで歩いている時によく意見する。それを聞いていつも家内は呆れる。あまりにも派手好みだからだ。かといって軽薄好みではない。そして、筆者がいいという服は決まって数万円はするので、家内には手が出ない。
 デジカメの話に戻すと、携帯電話がカメラ代わりになるのは、とても便利だと思う。だが、筆者が携帯電話を持っても、家内以外からはかかって来ないであろうから、携帯電話のカメラ機能は重いデジカメで代用することとして、電話機能は我慢する。ところで、8、9年前にNからキャノンのデジカメをもらい、それを一去年の春あたりまで使い続けたが、その後所在不明になっている。手製の青い袋に入れておいたので、狭いわが家のどこかに転がっていればすぐにわかるはずなのに、それが出て来ない。どこかで落としたのかもしれない。そのことに気づかないほど、もう頭の老化が始まっていると見える。また、そのカメラの代わりに別のものが無料で手に入ったので、出て来なくても不便は感じない。Nからもらったものから数年後に製造されたカメラで、記憶媒体が違い、画素数もかなり大きい。とはいえ、携帯電話のカメラよりはるかに劣る。どうせ拡大して紙に焼くこともなく、もっぱらブログ用に500×360ピクセルで載せるために使うから、Nにもらったデジカメ初期のタイプでも充分であった。家内は筆者に携帯電話を持つべきとうるさく言う。家内と待ち合わせをよくするので、その時に便利という考えのほかに、筆者が留守の時に必ず重要な電話があると考えているからだ。実際そうと言っていいが、重要な電話なら何度もかけ直して来るはずであるから、外出時にさえ電話で話す必要はないと思っている。そのため、不便を全く感じないが、こういう態度は周囲からは変わり者と思われる。日本では世間を気にして、それに合わせることが常識となっているが、常識に染まらない者は田舎者か高齢者、変人といったところで、世間から相手にされないという強迫観念が誰にもある。筆者なりに気にする世間はあるが、不便を感じないのであればそれでいいではないか。携帯電話で思うことがある。たとえば、ある人があえて番号を教えないことがあるとすると、それは携帯電話にかけてほしくないため、簡単に言えば話しかけてほしくないということだ。名刺をもらった時に携帯番号が印刷してあるのは普通であるから、名刺を交換する間柄では、携帯で話すことはOKと最初からかまわないと思っている。そういう間柄ではなく、古くからの知り合い、あるいはかつては知り合いであった間柄の場合で、携帯番号を教えないということは、事情が違う。知り合いの程度によるが、いや、まさにその知り合いの程度にしたがって、相手に携帯番号を教えたり、そうしなかったりするだろう。そのため、今では携帯番号を知っているかどうかで、ある人物と自分との距離がわかる。筆者は携帯を持たないし、また携帯番号を教えてもらってもまず用がないので、相手が筆者に携帯にかけてほしいために番号をわざわざ伝えているとしても、その機微がわからない。その点において、相手からは変人、無粋な男と思われるだろう。それはいいとして、ある知り合いが筆者にあえて携帯番号を教えないことに遭遇すると、どうせかけることがないにしても、筆者も人間であるから、嫌われているなと思って、それなりに気分はよくないが、そのことで相手を恨むのは見当違いだろう。携帯にかけてほしくないという思いは正直でわかりやすい態度だ。その気持ちを思えば、それを尊重したい。筆者は来る者拒まずであるから、携帯を所有しても、かけてほしくない人物には番号を教えないということはないと思うが、来る者を拒む考えも理解出来る。人は自由であるから、ある人を拒否してよいし、拒否された人はそのことを気にし過ぎるのは損だ。相手が拒否を示しているのに、それにすがることもないだろう。去る者追わずでいいではないか。ともかく、携帯電話が出現して、新たな人間関係が出現したと考えてよい。携帯を持たない筆者はその負の側面を実感せずに済んでいる。
●にぎにぎいきいき_d0053294_2328393.jpg 携帯電話はにぎにぎしいものだ。電車やバスの中で盛んに指を動かしてメールを送っている人を見るとそう思う。携帯電話は人間のにぎやかさ好きを助長した。その反面、たとえばメール中毒のように、にぎにぎしさが少しでも下火になると、孤独をかみ締めるということになったのではないか。携帯は人恋しさを大きくさせた。携帯でつながる、いや、携帯のみで確実につながっていると、人は実感するようになった。筆者のように携帯を持たないと、またこのブログのように、ほとんど全く意見の書き込みがないと、人とのつながりが実感出来ないことが多いと思われるだろう。そのことは否定しないが、筆者はある作品を通じてその人と対話することが出来ると考えるので、とっくの昔に死んだ人が今この瞬間に生きて筆者の隣にいると思うことが出来る。そして、そういうことをいつもしていると、現実にそのような面白い人が少なくてもあまり気にならない。そこで思うのは、人間は現在を生きているが、思いは過去を自由に行き来することだ。そして、現在とは何かと思う。さきほどもムーギョを往復しながらそのことを思った。もう何百回も歩いた隅から隅まで知り尽くしている道をまた歩きながら、思いは現在のことよりも、過去とこれからのことにめまぐるしく飛ぶ。それらのことから何か書くことも出来るが、それはやめておいて、掲載の写真と関係のあることを書いておこう。にぎにぎしさが今日のテーマか。家内には姉妹兄弟があるが、両親の命日に参加する者は今年は少なかった。姉ふたりと兄、そして妹で、そこに筆者であるから、男はふたりだ。兄は酒が趣味で、酒の飲める筆者がいると女ばかりの中で退屈せずに済む。それもあって、家内は筆者をひとりで先に行かせた。仕事を終えて家内が来たのはお坊さんの読経がとっくに終わった午後2時半で、食事も半分終わっていた。食事はいつも近所の仕出し屋から取る。家内がいなくても筆者は話が弾むが、もうひとりの兄や、東京にいる弟夫婦がやって来ると、いくつかのグループに分かれる。今回は小人数であったのでそならなかったのがよかった。クーラーがよく効いた部屋であったが、話の途中で雨の音がした。すぐ近くの窓を開けると大雨だ。その写真を撮ったが、よくないので没。その代わりに窓ガラスを撮った。その模様は30数年前のものではないだろうか。今時はこんな模様はないと思う。窓ガラスやタイルに時代がよく現われるが、筆者はそういう古いものを見るのが好きだ。上の姉は雨の前に一旦先に帰宅し、その1時間ほど後にまた車を運転してやって来た。そして、駅前まで送ってもらった。明日と明後日が高槻祭りと言っていたが、そう言えば去年は高槻祭りの時に実家にお参りに行った。奈良から車でやって来るお坊さんのつごうに合わせるので、今年は高槻祭りに1日早くなった。それが少し惜しい。いつものように、駅前の商店街を歩き、市場で買い物をしたが、「おにおにっ記」に書いたことのある、昔まだ家内と一緒に暮らさない頃によく入った喫茶店が健在で、そのロゴや看板もそのままだ。長年入っていないので、コーヒーの味を忘れたが、店前の看板がコーヒー豆を入れた文字加工で、「壹」の「豆」のところに豆があり、また全体に豆がたくさん入っていてにぎにぎしいのがよい。また、おそらく半世紀以上経営していることは、店がまだいきいきしていることで、そういう店の健在ぶりを見るのも楽しい。家内も筆者もそうとうくたびれて来たが、店というひとつの個性は、店主が代変わりしてもある程度雰囲気はそのまま保たれるのだろう。
●にぎにぎいきいき_d0053294_23261632.jpg

by uuuzen | 2011-08-13 23:28 | ●新・嵐山だより
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