●嵐山駅前の変化、その123(駅舎から広場、脇道から広場)
々としていればいいようなものかもしれない。京都は原発から遠く、放射能の影響もないという。いやな事件には耳を塞ぎ、TVを見ず、新聞も読まないでいれば、日本で今どういうことが起こっているかを知ることもなく、煩うこともない。



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江戸時代の大多数の人々はそうであったろう。他国で何か大きな事件があっても、それを知るのは数か月や数年はかかった。今では瞬時に世界の出来事がわかる。それがいいのか悪いのか。遠く離れた国の出来事を知ってもただそれだけのことで、困っている人を助けることも出来ない。噂をしてそれでおしまいだ。ネット社会はその代表だ。福島原発のことにしても、直接的に害を及ぶ怖れがない場合は、対岸の火事のように人はかまえる。気流に乗って放射能が拡散し、ひょっとすれば自分のところにも舞い落ちるかもしれないと思うからこそ、防護のために放射能の量を計測する。日本では関西がそれに当たる。慌てることもひとまずないし、淡々、悠然と成り行きを注視していればいい。それが関西での見方に思える。そこに冷淡といった言葉で表現するにふさわしい思いがどれほど存在するか。それは人によってさまざまだが、遠く離れた、また知人もいない東北でのこととなれば、思いを込めにくい。これがもし大阪が100キロ圏内に入っていれば、放射能に対する反応の思いはもっと違ったものになる。このことからは、原発を福島という人口の少ない場所に持って行った政策の意味が改めてわかる。だが、起こってしまった事故は、収束のための努力が日夜続けられている現実はさておいて、それはそれで仕方がない。問題は今後も放出される放射能にどうみんなが対処するかだ。これはもちろん退避、退去を含めての話だ。そこで筆者はここ数日憑かれたように、深夜の数時間をネット・サーフィンして、放射能の拡散やその影響について調べているが、ここ4か月のうち、3月上旬頃のものから数日前のものまでが混同していて、最新のものをより分ける方法がない。グーグル検索で、そういう時系列的にキーワード検索した情報が並べられるといいのだが、それはないようだ。さまざまな意見の書き込みは、どれが正しいというものは当然ない。みんな知ろうとする素人であり、意欲はあるが、未来予測の部分を多く含むため、最悪の場合はこうなるといった書き方しか出来ず、またその書き方もどこまで真実に近いかどうかはわからない。だが、政府や東電が決定的なことを隠して、情報を数か月遅れで出すのではないかという疑心暗擬はだいたいどの書き込みにも大なり小なりある。これだけ政府の言うことが信頼出来ないという意見が多数を占めることは、今までになかったのではあるまいか。それはもちろんインターネットの普及によるが、その意味で、今回の原発の事故はよくぞネット時代に生じたと思う。そして、そのことのまだ幸いがあるとすれば、それはネットで原発や放射能に関しての思いがもっと発信され、より正確な情報がその中から湧き起こって来ることだ。だが、その正確な情報ということに関しては、ネットへの書き込みが増加してもあまり期待出来ないところがある。
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 そこで思うことは、ネットで何が出来るかだ。無数の意見の単なるつぶやきのひとつで終わってしまえば、それは結局悪い意味で淡々とかまえていることにしかならない。一昨日ネットで見た情報に、いわき市で採取した奇形の菜の花の3,4枚の写真があった。1か月ほど前に採取されたものだ。植物の奇形は突然変異によるが、その変異は遺伝子の複製ミスで、その原因のひとつに放射能があることは誰でも知る。いわきで見つかったその奇形の植物が、福島原発が撒き散らした放射能によるものかどうかは誰にもわからない。だが、先日書いたように、黒澤明監督の『夢』には、放射能汚染によって生じた大きな花が登場する。そして、その放射能の影響は人間に及び、ある男はついに頭から角が生えて来る。人間が鬼に変異するという、この漫画じみた設定は、黒澤の皮肉が強烈に利いているが、そのことはさておいて、植物に影響を与える放射能が人間に変化をもたらさないはずがないという考えはごくまともで、いわきで見つかった奇形の植物が、今後続々と各地で発見されるとすれば、もうその頃には人間にも深刻な被害を与えているはずだ。見つかった奇形の植物と同じようなものが他の場所で見つかったという話は聞かないが、そうした報告こそネット向きで、植物に関心のある人は注視し、何か変化があると自分のブログに載せるのがよい。そして、そういう報告が少ないとすれば、放射能の影響はさほどではないという安心にもつながるだろう。その一方で福島県では全員の被曝量を算出するための調査が始まっているが、同じ検査が茨城や千葉でも今後行なわれることにならないとも限らず、原発の放射能漏れは余談を許さない。であるから、筆者は当分の間は原発関連のことについてネット情報を注視することになりそうだが、人間は忘れやすいし、また国もマスコミも同じであるうえ、なるべく国民の批判を避けたい政府とすれば、ほかの話題で盛り上げて、放射能の恐怖はかなり去ったというように世論を今後は巧みに導くだろう。その兆しはすでに現われているのではないか。来年の3月11日にはそれなりに地震特集がTVや新聞をにぎわしても、それ以降はそれこそ福島県内でさえも、淡々として放射能汚染については目をつぶるようになると思える。人間はいつまでも恐怖を抱え込むことが出来ず、なるべく事態をいいように思いたいからだ。そして、10年や20年経った頃に、奇形や癌の頻出によって放射能の心配が改めて話題になるだろう。だが、その頃は、淡々とした時期をかなり経ているので、国民全体としては淡々ムードの中で、そういうかつては予測出来た事態に対処するということになる。つまり、大きな混乱はもう生じず、後はその時その時で絵を描いて行けばよいといった楽観的な見方が支配する。そういった落ち着き方がいいか悪いかとなれば、いい面もあるし悪い面もある。いい面は、いたずらに騒がず、淡々、悠然とかまえることでよけいな労力を使わず、また大混乱を回避することだ。悪い面は、結局どんな大事故があっても日本人は何も変える能力がないということで、せっかくの大きな機会に何も学ばず、次に同じようなことがあってもまた同じようにやり過ごすということだ。この悪い側面は、日本国内のことだけであればよいが、原発事故と言えば地球全体に放射能を撒き散らすのであるから、世界の中で恥ずかしくないことをせねばならない。だが、日本にそのような国際人としての感覚や、また恥の意識がどれほどあるだろう。
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 中村とうようが先頃亡くなった時、筆者は大震災後の成り行きに幻滅し、将来を悲観したことが理由かなと思った。79歳であったので将来は短かったが、自分の寿命とは別に、人類の今後ということを中村は考えなかったはずはない。「とうようズ・トーク」に長年書き続けた時事論評的な内容からすれば、おそらくそうだろう。そして、自分が長年かかって収集した資料を学校に寄附し、自分のなすべき仕事を終えたと実感していたであろう時に、大地震が起こった。それは自分の役割がほとんど終わったという思いのうえに、世界の終末感を与えたのではないか。自意識の強い人ほど、人生に社会的なそうした動きを重ねる。ザッパにもそういうところがあった。だが、中村が仮に原発事故のひどさに幻滅し、それが自殺の引き金になったとすれば、今まで自分がやって来たことをすべて空しく思ったことを他人に示すようなものではないか。『人生に何の意味があるというのだ。』そのように中村が思い至ったとすれば、筆者は何となくご苦労様としか言葉をかけようがない気がする。そんな思いに到達するのであれば、最初から何もせずに、好き勝手に日々享楽的に生きればいいではないか。まだその方が人間も動物として見る時には自然であり、神の摂理にしたがっていると思える。だが、享楽的に生きたくない人はいるし、それが中村であったはずだが、79まで生きて救いがなかったとすれば、それほど痛ましいことはない。そこには、地震や原発とは別の厭世的になる理由があったとも考えられる。ひとつは老化と、それに伴なう孤独だ。老化と孤独は誰にとっても避け得ないものだが、老人の自殺率が高い国はいい国とは言えない。日本は自殺率が世界的に見てもかなり高いようだが、現実が面白くないことに耐えられない人が多いことは、簡単に言えば孤独に耐えられないことで、これはどのようにして解決すべき問題かは筆者にはわからない。中村とうようのことをこうしてまた書きながら筆者が思い出しているのは、いわきに住むTさん夫婦だ。電話の声は至ってお元気で、地震前と比べて悲観した様子はない。それは筆者に対する思いやりがそうとう混じっているだろうが、それを差し引いても気丈な性質で、また優しさを失わない。Tさん夫婦は半世紀の間、そのようにして江名で暮らして来て、さまざまな世の中の変化を見て来たが、中村とうようのように有名人にはならなくても、そこには人間としての真実の姿があるように思える。そして、そのようなごく普通の老夫婦が被災し、原発の撒き散らす放射能に晒され続ける不条理を思う。筆者が地震後落ち込み続けたのは、それを考えてのことと言ってよい。Tさんのように、文句ひとつ言わず、耐え忍ぶことだけが人生のような大勢の人々が、政治家や大企業の考えによっていいように扱われてしまうことの無慈悲さがある。それでもなお、Tさんは声を荒げず、淡々としている。そういう人に恥じない政治をするのが本当の政治家ではないか。とにかく、筆者は地震後のさまざまな憤りの持って行きようがなく、そのことにまた憤るという悪循環に陥っている。今日の写真は去年10月12日のものだ。駅前広場が完成に近づき、連日同じ角度から撮影した。
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by uuuzen | 2011-07-26 11:37 | ●駅前の変化 | Comments(0)


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