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●『浅川伯教・巧兄弟の心と眼-朝鮮時代の美-』
斐の国は、筆者の名前の一字の「甲」がつくので、昔から気になっているが、「不甲斐ない」や「頼り甲斐」の言葉があるように、「甲斐」には力強さにまつわる意味があるのかどうか。



●『浅川伯教・巧兄弟の心と眼-朝鮮時代の美-』_d0053294_1640690.jpg気になっているが、真剣に調べたことがないので由来がわからないでいる。甲斐人で、筆者の知り合いと言っては何だが、ネットを始めるようになってごく初期に、切り絵を通じて知った若い独身女性emiさんがいる。一度だけ京都の清水寺の前で10分ほど会っただけで、普段ほとんどメールのやり取りもしないが、彼女は甲府市内に住み、近くにふるさと切手にもなった昇仙峡があるので、一度甲府には行きたいと思いながら、さてその機会がいつになるかわからないでいる。さきほどネットで「甲斐」を検索していると、「狭」の意味であることがわかった。もちろんいくつも語源があって、これが正解というのはないだろうが、平地が少なく山ばかりという土地柄であることを思えば、「狭」はかなり正しいように思う。その見つけたサイトは 「樋口清之博士の県別にみる日本人診断"」で、日本の都道府県ごとに気質を書いたものだ。筆者の出身地の大阪やまた半生を住んでいる京都の項目を読むと、なかなか的確にまとめてあって、説得力がある。同じような県民気質を紹介するサイトはいくつもあるが、書き手に偏見が目立つことが多い。その判断は、大阪についてどう書いているかによる。これは誰しも同じで、出身地のことがどう評価されているかが真っ先に気になり、そして悪く書かれると腹立たしい。悪く書かれる代表のトップがいつも大阪だが、大阪はよほど日本全国から侮られている。樋口清之は奈良桜井出身の考古学者で、奈良県をどう書いているかと思って読むと、これがまた的を射ている。つまり、この博士には自分の出身地に対する過大評価がなく、そこから他県への評価もかなり客観性があるように思える。家内は両親とも代々奈良に住む家系だが、博士の奈良県人気質そのままが当てはまるのが面白い。そのほか大阪や京都を読み、そして山梨を読んだが、土地や気象、歴史が県人気質を育むのは確かとしても、東北の人が関西に嫁いだり、その逆があったりして、同じ県の人全員が同じ気質であることはあり得ないので、こうした評価は半分お遊びで思っておいた方がよい。また博士の書き方で面白いのは「美人が少ない」という表現で、それでは美人の多い県はどこかとなると、「秋田」を読むとちゃんとそのことが書かれているし、また「この県ほど住民の流動が少なかった県はめずらしい。……長い間近親婚をくり返してきたので、一種の劣等感が生まれて性格開放を妨げる結果となった」などという記述を、秋田県が自殺者が多い県では日本一であることと合わせて考えたなる。それはいいとして、甲斐国すなわち山梨県人の気質は、「他国で憎まれ、軽蔑され、一面恐れられながら、勤勉に、ときに大胆に立ち働いて成功する人が少なくなかった」とあって、これは土地が狭いことによるが、そう言えば阪急電鉄を創始した小林一三に思い当たり、東京だけではなく、大阪に出て大成功を勝ち得た人物もいて、甲斐にそれなりに興味が湧く。そうした甲斐出身者として、今日取り上げる展覧会の中心人物浅川兄弟がいる。北巨摩郡の出身でこれは小林一三と同じで、山梨では東北に位置するが、浅川兄弟が生まれたのは現在の北杜市、小林は韮崎市だ。
 兄の浅川伯教(のりたか)は30歳ほどで朝鮮にわたり、弟の巧は兄を頼ってソウルに赴くが、巧は40歳ほどで若死にしてしまう。弟は林業を学び、朝鮮総督府で植林の業務に携わる。そこに山梨出身ならではの強みがあった。筆者が浅川兄弟のことを知ったのは柳宗悦の本を読んでからだ。柳の10冊だったか、選集を買って読んだのは23歳だった。柳が朝鮮の美術に開眼したのは朝鮮総督府に勤務する浅川巧やその兄の伯教から教えられたためで、直接的には彫刻家だった伯教が白樺派がロダンに直接かけあって送ってもらったロダンの彫刻を伯教が見せてもらいに行く時、土産ものとして李朝の白磁を持参し、それを柳が眼に留めたことによる。日本の民藝を考える際、この浅川兄弟の存在は計り知れない大きなものがある。その兄弟が甲斐の人物であることに、小林一三と同じように、他国に出て一旗上げようとし、これと決めたことには徹底して進むという大胆と勤勉を持ち合わせた気質を思う。柳の民藝は朝鮮美術に留まらず、沖縄や日本、それに陶磁器以外の分野にも手を広げたので、朝鮮の陶磁器や木工を専門に研究した浅川兄弟は、どうしても華々しい柳の陰に隠れてしまいがちだが、最初に李朝の白磁の美を見出し、その収集と研究を始めたことは、朝鮮の美術にとっても幸運ではなかったか。浅川がいなければ誰か別の日本人が同じことをしたかどうかははなはだ疑問だ。日韓併合という、今の韓国では否定的に見られがちな時代に、浅川兄弟がソウルに住み、陶磁器の研究をしたことは、戦後から現在にかけての韓国の自国の美術に対する自信を見出させたのではないだろうか。誰も顧みない時期に積極的にそれを評価して買い集める行為はやがて柳の民藝に通じて行くが、浅川が李朝の焼き物の美を最初に発見したという表現に対して、現在の韓国はどのように学校で教えているのかいないのか、その紹介が今回は欠落していて、微妙な国際問題を避けたい思いも見えた。浅川が李朝の焼き物の美しさを最初に発見し、柳がさらにそれをうまく文章化したことの一方で、韓国ではそうした日本の知識人の評価を受け継いで後世に伝えようとした研究家がどれほどいるのかいないのか、そうしたことが日本では全くと言っていいほど紹介がない。そのため、結局は朝鮮人自身が気にもとめなった雑器を、日本が価値を見出し、朝鮮の陶磁器の世界的評価の基礎を作ったということになり、その代表が今回の展覧会でもあり、それはまた嫌韓派の溜飲を下げることにもなる機会であろう。簡単に言えば、無価値であったものを、日本人が価値をつけ、そのことで韓国は世界に誇るべき陶磁器の美を棚ぼた式に獲得したという見方だ。そして、現在の韓国には、質量ともに日本ほどの李朝白磁の名品は存在していないが、その原因を嫌日派は浅川兄弟や柳がすっかり買い漁った結果と見るであろうし、ここには微妙な国際間の問題が関係している気がする。だが、今回の展覧会で写真が展示されたが、浅川巧が現地で亡くなった時、大勢の朝鮮人が嘆き悲しみ、棺を担ぐことを希望したから、浅川は韓国では李朝白磁の美を最初に気づかせてくれた恩人として評価されているだろう。それは柳が死んでから韓国政府から文化勲章に匹敵する勲章をもらったことからもわかりそうな気がする。また浅川は柳とは違って、現地に溶け込み、ハングルを読み書きしたから、現地の人からの尊敬も篤かったはずで、そういう徹底さが甲斐人気質かと思わないでもない。また、併合時代に山深い日本の片田舎に住むより、技術を活かして朝鮮で頑張ってみようとしたことは、東北の人が東京に出るのと同じ感覚で、まだこれからどんどん経済的に成長する朝鮮にわたった方が成功の確率も高く、やり甲斐があると踏んだからで、それに巧が林業を学んだことがよかった。その一方で、兄弟に美がわかる資質が具わっていたことが何よりも大きい。たとえば大勢の人が満州にわたったように、単に経済的成功を求めるために朝鮮に行ったのであれば、李朝白磁の美しさを見出すこともなかった。その審美眼は父だったか、叔父だったか、とにかく年配者に趣味人がいて、その感化を受けた。これは山梨の田舎でもそういう文化的な素養の高い人がいたことを示し、それはそれで別の物語になるほど興味深いことだが、そういうように美に関心のある者は自然とつながりが出来、そこに柳との出会いも生じた。
 東洋陶磁美術館が巧の生誕120年を記念してこうした展覧会を開催することは、筆者の感覚から言えば20年遅い。もちろん20年前すでにこの美術館はあり、筆者はもう100回ほどは訪れているが、今頃浅川兄弟に焦点を合わせる展覧会を開くのは、日韓のサッカーの共催や韓国ドラマ・ブームがあって、韓国に対して20年前よりかは多少偏見やアレルギーがなくなったことによる。だが、この美術館はもともとほとんど朝鮮の陶磁器を専門に見せる場所であり、また朝鮮文化に偏見のない者が訪れることもあって、20年前に浅川兄弟展を開催してもそれなりの人は入ったと思うが、やはりもっと多くの観客動員となると、20年待ってようやく機が熟したところがある。ま、そんなことで、筆者は今さら珍しくないという気分であったので、いつ行こうかとぼんやり思っていたところ、鳥博士さんから招待券を送ってもらい、それで19日に行った。会期は4月9日から7月24日までの長丁場の開催だ。しかも展示は想像以上に充実していて、昔筆者が知った当時とは雲泥の差の情報が得られる。その意味でこの40年の経過は感慨深い。さて、いつもの企画展とは違って、中央の吹き抜け風の広間で、役者を用いた浅川兄弟の足跡の再現した、現地取材の10分ほどの映像があって、それだけでも大きな意気込みが伝わるが、その映像はそれこそ韓国ドラマに馴染んでいる人向きのもので、浅川がいかに朝鮮の風土と人々を愛していたかが強調されていた。その頃の写真が写ったが、ソウルを東西に横切る市電が走る大きな道路が続いていて、それは日韓併合後におそらく拡幅したのであろうが、その道の両側をびっしりと埋める平屋の木造住宅の眺めは壮観で、しかも西陣の昔を見るように美しい。今はもちろん高層ビルが林立してその面影は全くないが、戦前のソウルは絵になる場所がふんだんにあったようで、山梨の田舎に住んでいた浅川兄弟は、かえって大都会に来たことを実感したであろう。浅川が住んだのはソウルの東端で、そうした位置は展示された吉田初三郎のソウル鳥瞰図に記されて当時の様子がよりわかりやすかったのはよかった。さてこうして書いていて、あまりの暑さに考えがまとまらず、何を書いているのやら、意識が半ば朦朧として来たが、温度計を見ると36度を指している。梅雨明け前にこの猛暑で、また1階で仕事した方がよさそうだ。それはさておき、巧は兄を頼ってソウルに住み始めた時、あまりに異質な文化に馴染めず、すぐに帰国しようと思ったほどであったが、ある夜、露天の骨董商の品物に、大きな白磁の壷を見つけて買う。それは今回展示されていたが、横から見ると満月のように丸いので、満月壷と呼ばれている。全く見事な壷で、その存在感は圧倒的だ。その壷を手初めに李朝の陶磁器の研究を開始し、10年ほどの間に500ほどだったか、朝鮮全土の窯跡を訪ねた。まだ陶片がたくさん出たところが多かったが、後に行くともう全く出なくなっていたりするなど、兄弟が研究する間でも推移が激しかった場所もあったようだ。集めた陶片は全部記録し、それを持ち帰って東京の白木屋で展示会を開くなど、積極的に朝鮮の焼き物やその窯跡の紹介をした。その背景には日本にいける茶道の勃興があった。昭和初期頃まで盛んに売り立てが行なわれ、有名な茶道具は高値で動いたが、浅川兄弟は日本のそうした茶道の歴史を見据えていたところがあろう。伯教は日本の茶道では最高峰に位置づけられる李朝の井戸茶碗を愛したが、その窯跡が釜山にあったことを突きとめるなどもし、そういう研究態度は、浅川兄弟によって詳しく知るところになったが、もとをただせば日本が数百年にわたって李朝の庶民の茶碗を愛でて、そこに美を見出して来た伝統が背景にあった。またそういう伝統を知れば知るほど、日本にいてただ物だけを手に取るのではなしに、朝鮮の人々の生活に溶け込み、そこからどのようにしてそういう焼き物が生まれて来るかを体感したくなるであろうし、それを可能にしたのが、日韓併合であり、甲斐人気質であった。伯教は巧の没後33年生きたので、今回はその作品の展示も多かった。彫刻家ではあるが、絵の才能も卓越したものがあり、それは浅川を頼ってソウルに滞在したことのある富本憲吉に影響を及ぼしたとさえ思える。巧は亡くなる寸前に朝鮮の陶磁器の研究書を脱稿したが、もっと長生きしていると、戦後の民藝やあるいは朝鮮の陶磁器の研究の流れが多少変わったのではないだろうか。北杜市には浅川兄弟の業績を伝える施設があるようだが、山梨はもっとこの兄弟の顕彰に努めるべきではないか。そうそう、柳は木喰上人の研究でもよく知られるが、木喰も巨摩郡の出だ。甲斐の国に筆者が訪れることがあるのかどうか今のところわからないが、そう言えば数年前に甲斐に住む人から返却してもらった柳の選集の1冊が手元にある。昔に預けていたもので、1冊歯抜けになっているのが気がかりであったが、ネットで同じ本が簡単に見つけられるようになっているので、また送り返していいかなと思う。だが、その人も甲斐に住むとはいえ、甲斐もいろいろだ。交通の便が悪く、車に乗らないのであれば1日や2日ではあちこち巡ることは不可能だ。
●『浅川伯教・巧兄弟の心と眼-朝鮮時代の美-』_d0053294_16402378.jpg

by uuuzen | 2011-06-29 16:40 | ●展覧会SOON評SO ON
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