●梅雨時の白花三題、その12
守番をしていると家内が言うので、昨日はひとりで神戸まで展覧会を見に行った。読みかけの本かカメラを持って行けばよかったが、帰りに荷物で両手が塞がることを思ってやめた。



実際そのとおりになった。4時頃には家に着くつもりが5時過ぎになってしまい、また町内の用事を少し済ませると、もうムーギョ・モンガに買い物に行く気もかなりなくなった。筆者と出かけてもいつもハードなだけで、だいたいどういうことになるか予想がつくので、家内はあまり出たがらない。週1回の休みは体を休める必要もあるし、たまった洗濯物や掃除もある。筆者が出かけていた4、5時間の間、家の中に何か目だった変化があったかと言えば、それはほとんどない。それほど片づけるのに大変なほど、どの部屋も散らかっているということなのだろう。夫婦ともにかなり整理整頓下手で、また家内は何でも残したがるたちなので、細々としたものがいつの間にかたくさん溜まる。以前は、スーパーの袋がきれいに折りたたまれて、千枚ほども台所の片隅に置いてあった。それに気づいた筆者は即全部捨てたが、そうしたところで家内は気づかないし、困らない。そういう困らないものがわが家には溢れかえっている。筆者の本はまだしも、スーパーの袋を1000枚も溜め込み、それからさらにまた溜めようとするのはどういう神経だろう。筆者はムーギョに行く時は必ず袋を持参し、スーパーの袋が増えないように努めているが、家内はその逆で、ただのものは何枚でもほしがる。その浅ましいところが大嫌いで、そのことを何度もきつく言うが、聞き入れない。どうせ余分にもらったものは絶対に使うことがない。そして筆者が家内に何も言わずにまとめて捨てることになる。また、冷蔵庫の奥を見ると、とっくに賞味期限が過ぎてカビだらけの食品がたまに見つかる。それを処分するのも筆者だ。もらった高価な食品ほどいつまでも手をつけずに戸棚の奥深くしまい込み、結局それも食べずに捨てることがある。そのことに以前気づいて、もらったものはその日に食べることを徹底して言ったが、それでもやはり家内が聞き入れたとは言い難い。今日は冷凍庫のたらこと先日買ったパスタでたらこパスタを作れと命じたが、たらこは数か月前に買って冷凍したもので、これもとっくに賞味期限は過ぎている。そのたらこを昨日見つけたからよかったものの、そうでなければもう2,3年は眠っていただろう。冷凍庫の底を探すときっと数年前の魚があるはずだ。家内は冷凍庫は永遠に食料が保存出来ると信じているのだ。筆者はスーパーでの買い物は一瞬で決め、いつも2,3分で済ますが、家内は全くその反対で、たとえば1パック198円のトマトが山積みになっていると、それを全部手に取って確認し、さらに何度も眺め回して、決めるのに最低でも10分はかかる。そのため、1軒のスーパーで1時間ほど過ごして、買い物が3,4点ということはざらだが、筆者はそれが全く理解出来ず、いつもいやみで「1日そこで悩んでいろ」と怒って言う。198円のトマトはどれもみな同で、たとえあるパックが別のパックより倍の重さがあっても、10分費やす時間の方がもったいないことがなぜわからないのだろう。家内とスーパーに行くとこっちはイライラしていつも爆発するので、それで筆者が買い物をするようになった。家内の優柔不断は病的というより、すっかり病気だが、筆者があまりに判断と実行が瞬時なので、それで夫婦が務まっているのかもしれない。
 家内が仕事で疲れて帰って来るのはよくわかるが、仮に離婚しても、家内は働かねば食べて行けないから、今と生活は変わらない。そのことをいつも指摘して、あまり泣き言を言わずに働くように言う。だが、外で働くのはストレスが多いのはわかる。それで毎日必ず愚痴を30分ほど聞く役目を引き受けるが、毎回同じ内容で。それを10年も繰り返しているので、こっちは聞くふりをして全然別のことを考えている。それでも家内にすれば吐き出せるだけでいいらしい。だが、たまに機嫌の悪い筆者はその愚痴に対して、職場での対処法を意見する。それはかなりの割合で家内に批判的で、それを聞くと家内は激昂するが、それでも数時間後には筆者の意見には一理あると折れて来る。また、こっちも忙しい時に毎回全く同じ内容の愚痴を聞かされるのはたまったものではなく、夫婦喧嘩に発展することが多いが、家内は愚痴が言える相手がいるだけまだ幸福だ。ひとり住まいで働いている女性は、そんな相手がいない場合があって、どうしてストレスを解消するのかと思う。ま、家内にしてみれば、筆者がよく稼いで、家内を働かせないようにしてほしいと言うのだが、それを言われるとこっちも返す言葉がない。それで家内がよく言うのは、「1億円の宝くじが当たったら、それをもらって離婚する」で、これは本音だろう。もうとっくの昔に夫婦の意味がない夫婦になっているので、家内にすれば職場でいやな思いをせずに、またうるさい筆者の汚れたパンツなど洗わずに、そして働かずに楽して暮らしたいということだ。それが理解出来なくはない。「夫は元気で留守がいい」というコマーシャルがあった。あれはやはり真実らしい。ま、家内がこれを読むとまた怒るので、あまり悪口は書かないでおこう。家内は以前はたまにこのブログを読んで誤字を指摘していたが、ここ数か月はさっぱり読まなくなった。面白いことを書いていないことを知っているのだ。それをいいことにこっちは好き放題書いているが、これは筆者のストレス解消というほどものにはなっていない。ただ、書いている時はいやなことを忘れるから、その意味では精神にはいい。それでも毎回支離滅裂なことを書いている気がするが、それは考えるに、このブログがひょっとすれば筆者の睡眠中の夢と同じ働きをしているのではないか。夢は覚醒している時の記憶を、必要なものとそうでないものを整理する作業であると何かで読んだことがある。このブログもほとんどそれと同じことをしている。こうして書いていることは記憶すべき事柄、書かないことはその必要のない思いで、つまり、こうして書きながら次から次へと思うことは、睡眠中の夢と同じになる。だが、そうなればなったでまたややこしく、睡眠中の夢が今度は現実に思えて来る。以前は「夢千夜日記」のカテゴリーによく書いたが、ある日それをしていると精神的にかなり危ういことになりそうな気がしてやめた。それはきっと、こうして書いていることが夢であるのに、その夢見の行為として夢に見たことを整理して書くのであるから、必要なものとそうでないものを分ける作業というのが複雑に入り組んで、意識の領域が侵される気がする。
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 昨夜床に入ったのは3時過ぎでたぶん3時半頃に睡眠に入った。目覚めたのは7時少し前で、こうも睡眠が浅いと、こうして書いていることがなおさら夢とさして変わらない気がする。さきほど町内の配りものをし、郵便局で手紙を出し、税金を払い、そして汗まみれになって帰宅してこれを書き始めたが、紫のアジサイが鮮やかに目に留まる場所があって、花は草が化けるのは本当だなと思った。草が花を咲かせるのは子孫を残すためで、子孫を残せば花は不要だ。それは人間も同じだ。女性が花のようにきれいなのは20代半ばまでで、その頃に子どもを産めば、後は花は不要となって、目立たない生を歩む。ところが昨日のネットには、今時の女性は子どもを産んでからが本当に美しくなり、それはだいたい40歳かそれを少し越えた頃と書いてあった。これは晩婚化が進んでいるので、そういう見方をその文章の書き手の女性がしたいと願っているだけではないだろうか。確かに子どもを産んで育てている40代の女性はそれなりに魅力はあるが、それは20代半ばの花のような美しさとは別のものだ。それで思い出した。一昨日ムーギョの斜め向かいの大型スーパーで買い物をした時、見習いのレジ係の女性がどこかで見た記憶がありながら思い出せないが、とにかくとても好感が持てた。好みのタイプと言うほどではないが、何でも話すことの出来る親しい友人にはなれそうで、てきぱきと仕事をこなしている姿がとてもよかった。背丈や、また顎の肉が横から見た時に二重になってたるむところは家内と同じだが、年齢は40かもう2,3上といったところか。賢そうで、また活発な雰囲気があるのに、どこか控えめで、美人かどうかを言えば美人の部類に入るが、こういう仕事になぜ就くのかと思わせられる。彼女ほどの雰囲気ならば、旦那が一流企業に勤めていて当然という気がするのに、何か事情でもあるのだろう。女性の花の時期はやはり20代半ばで終わるのかと思ってしまうが、彼女の仕事に精を出している姿は好感が持てて、年齢に関係のない美しさを思う。これはきれいな人はいつまでもきれいということであるかもしれず、またいやなことを抱えていてもそれを顔には出さない性質であるためと言えそうで、遺伝的な要素が大きい。であるから、嫁をもらう時はその母親を見ろと言うのだろう。そこには躾ということが前提になっているが、子が親から躾られる部分には限界があって、母とよく似た人生を歩むとは限らず、むしろ母と娘は仲がよくても内面では対立することも少なくない。父と息子はそれがもっと大きいと思う。話がつまらぬところに来たので、話題を変える。そうそう忘れないうちに書いておくと、コメントとトラックバックはあえて2日経ってから可能になるようにしている。投稿当日や翌日に可能なようにしていると、必ず多くのスパムがあるためだ。それを防ぐには、投稿当日と翌日には拒否設定するとかなり激減することが2,3年前にわかった。それ以降そうしているので、コメントを書き込みたい人は、投稿から丸2日待っていただかねばならない。またそうしている方が、書き込むにしてもかっかと頭がのぼせることもないであろう。ただし、筆者のブログは全くコメント書き込みの点では不人気だ。
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 さて、以上まで書いて2時間経った。今朝はどんより曇っていたが、昼下がりの今、真横にかけている温度計は34度を指している。1階は7,8度は低いため、以前のように1階のパソコンで作業をすればいいが、そうなると、せっかく聴き慣れたステレオで音楽が楽しめない。それで3階の暑さに耐えながら、暑さ対策にビールのジョッキに氷と水を入れ、それを1日に5杯ほどは飲む。先日気づいたが、わが自治会内に、ある物件が売りに出ていた。5000万以下ではないとは思うが、しっかりした鉄筋コンクリートの3階建ての一戸建てで、バス通りに面した玄関前には車3台は停められる。筆者が所有する不動産を全部処分しても買えない価格なので、見た瞬間に諦めているが、世の中にはそんな家の1軒くらい、何とも思わずに買える人があるのだろう。田舎に行けば、都会では考えられないほどの部屋数のある一戸建てがあたりまえのように建っているが、都会生まれの都会育ちからすれば田舎暮らしは無理で、広々とした部屋がたくさんある大きな屋敷は夢のまた夢だ。目下わが家の裏手にあった畑が造成中で、坪当たり70万の土地で、家が11軒建つ予定だが、3階から見下ろしながら、どう見てもその全体が田舎の家1軒分ほどの面積で、都会の住空間の貧しいかがわかる。田舎の人は都会の人の住居の貧しさを見下げ、都会人は田舎の不便さを笑うが、どっちにもよさがあるというべきで、住めば都と考えるのがよい。筆者の小中学生時代の友人で、大阪にそのまま住んで社長になっているのがいる。数か月に1回は電話をくれるが、会社の機器だけでも10億以上の価値があり、いつ仕事をやめても楽に一生食べて行けるが、その友人はそれだけ稼ぎながら、家にはさっぱり興味がないと言う。いつでも市内に豪邸を建てられるほどの金はあるのに、マンション暮らしだ。住居の豪華さで自分を誇る趣味がないというのは、大阪人らしい。大きな家は維持するのが大変、結局使う部屋はひとつかふたつだ。筆者もその友人と同じ考えで、家など残らないと思っている。そのいい例が今回の巨大地震だ。またそうでなくても半世紀も経てば見る影のない時代遅れとなって、取り壊すしかない。そんな家のためにサラリーマンが一生苦労して勤めるのかと思うと、何とも夢がなさ過ぎるが、それが日本の現実であるから、それにしたがうのもやむを得ない。後世に残る家は、財閥が住んだ豪邸か、寺社程度で、そう思うと、より残るものに人生を賭けるべき気がする。それが筆者の言いたい芸術だが、これはやがて国を世界に誇る大きな要素となる可能性を秘めている。金を儲けて豪邸を建てたところで、それが国の宝になるはずがないから、金持ちは芸術に関心を抱き、それを促進するために援助すべきだが、なかなかそうならないのが現実で、家や車、女に費やしてそれで終わりだ。昨日筆者は周囲の無理解の恨み節を書いたが、それは筆者から見てのことだ。周囲から筆者を見ると、嫁さんひとり養えない最低男で、そんな男が芸術を口にするのもおこがましいといっったところだ。才能があれば有名になるのは当然で、有名になれば普通の庶民の10倍、100倍の年収があって当然と、そういうごく素朴な思い込みに普通の人は支配されていて、「才能、有名、金持ち」が三位一体化している。そのため、そのどれかが欠けると他のふたつもないと決めつけている。いや、それは実際そのとおりなのだろう。たとえば、TVに出る芸術家で貧しそうな人物はひとりもいない。この三位一体にもうひとつつけ加えるのはTVで、それは有名と不即不離の関係にある。有名になればTVに出るし、そうなれば大金持ちと本気で信じていのが筆者の周りには大勢いる。こういう話を家内にすると、「あんたにはそんな芸術家の知り合いがひとりもおれへんやん」と、全くにべもなく嘲笑する始末で、ま、これも稼ぎのない身としてはじっと耐えるしかない。ともかく、芸術などとっくに死んだ時代に、そんなことをここで口外すると、時代錯誤のアホと思われるのが落ちで、筆者はこのブログを家内の職場でのいやなことの愚痴の吐け口と同じように思っているのかもしれない。
d0053294_14265713.jpg 今日の白花の写真はまず、クチナシから。今朝郵便局に向かう途中の家でこれが数百の花をつけていたが、半分ほど枯れていた。一昨日はそうではなかったのに、花の命は本当に短い。筆者が撮影したのはその家ではなく、数日前、ムーギョ近くの家の玄関先で見かけた。小さな鉢植えに一輪だけ咲いていて、それを間近に撮影するのは、歩道から4、5メートル踏み込む必要があった。真横に玄関扉があって、人が出て来れば挨拶しようと思い、さっとカメラをかまえてさっと1枚撮った。幸い誰も出て来なかった。翌日またそこを通ると、やはり遠目にも萎びているのがわかった。その家の真横には、10数年前まで、ある洋菓子のチェーン店を経営する背の高いおじさんがいつも通りに向かって笑顔で客待ちをしていた。そのチェーン店は全国的になくなったが、その1年ほど前にそのおじさんは急死した。それっきり店のシャッターは閉じられ、今もそのままだ。いい場所なので、マンションでも建てればよさそうだが、そういうことをしなくても資産家で食うには困らないのだろう。それはいいとして、そのおじさんとは言葉を交わしたことはないが、よく見かけたので笑顔は今も鮮明だ。そして、人は死ぬのだなということを実感するが、同じように筆者も若い誰かからいつかそのように思われるのだろう。そのいつかは案外早くで明日か、来月か、来年かもしれない。また20年後であるとしても大差ない。クチナシは10年ほど前に何枚も写生した。ヴァニラの香りがぷんぷんして、他の白い梅雨時の花とは全く違う豪華さを感じさせる。また、一重より写真に写る八重の品種が花弁がねじれて面白い。2枚目はコスモスだ。桂川土手の花壇で撮った。ピンク色は多いが、この白だけが咲いていた。しかも二輪だけで、それが離ればなれに咲いているので、撮影角度に困ったが、加工しながら思ったのは、ふたつだけ咲いて、しかも距離を保っている様子が、この宇宙という名前の花が一輪ずつでは天体の見立てにはいいということだ。つまり、かえってたくさん咲いているのではなく、この写真の両端に位置するふたつの花というのがとてもよい。この二輪は決して交差することがなく、そのままで枯れる。夫婦であっても人間の出会いはみなそういうものだろう。コスモスは秋の花であるから、梅雨から遠いということで、一応最後に掲げることを思った。では次の3枚目はなぜかとなるが、これは白い花ではなく、白い葉だ。これから咲くコンロンカで、花は黄色だが、今のところ蕾でそれがわからない。花は草化けとすれば、葉の一部が白くなるというのも、花みたいなものだろう。今日までの12回で36の花を取り上げたが、これは夢になぞらえると、現実として今後も記憶しておくべきことと言える。では記憶から抹消するための夢見の部分もここで取り上げておかねば、このブログを夢になぞらえることが出来ない。そこで最後にもう1枚白い花の写真を掲げる。6月19日に大阪で撮影した。この花はなかなか枯れずしぶとい。そしていつ開花するかわからない。家内ならすぐに台所に1000個も咲かせる。
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by uuuzen | 2011-06-27 14:27 | ●新・嵐山だより | Comments(0)


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