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●女は男の奴隷か、さらに
び率がはなはだしくなって来た。筆者のこのブログの訪問者数だ。増え始めたのは5月下旬からで、10日ほど前にTWITTERを始めてからはさらに拍車がかかり、昨日は99を記録した。



これまで100をわずかに超えたことは確か一日あったと思うが、それはおそらく記録機器の故障であったと思う。アクセス・ランキングという項目があって、それで調べると、訪問者のあるエキサイト・ブログが63000ほどあって、訪問者数が多い昨今、筆者はだいたい3000位台に位置する。300位になるのはどれほどの訪問者数が必要なのか、そうしたブログを見て参考にしようかという気が筆者には全くない。それはいいとして、TWITTERへの投稿はWINDOWS98のパソコンでは非常に時間を要する。反応が遅いためだ。それで2階のXPを使うが、スイッチを入れるのが面倒なので、なるべく3階の98を使うようにしている。ところが、98のパソコンでは英語の画面が出て来る。それでも不便はないが、XP以上の機能でないと日本語表示の画面が現われないのではないだろうか。また、英語の画面から投稿しても問題はない。昨日は、エキサイト・ブログの投稿画面に、「ツイッターに投稿」の項目があって、そこにチェックを入れられることに改めて気づき、それをすればどうなるかを試した。ツイッターは140字の文字数制限があるから、筆者の長文がそのままツイッターに投稿されるとはどういうことなのか意味がわからなかったのだが、ブログの題名とURL(これはたいてい長いので自動で短縮される)がツイッターの画面に投稿されることを知って納得した。だが、となればブログの題名を魅力的なものにしなければならない。その意味で言えば駅前シリーズは最悪で、タイトルと中身が合致せず、読んだ人は怒るかもしれない。かといって別の題名をつけるわけにも行かない。ツイッターには毎日真面目に短文をさえずっている。筆者のパソコンではわからないが、このブログの右下のTWITTERのバナーは、性能のいい最新のパソコンではどのように見えているのだろう。どうも筆者の顔写真の下とTWITTERのロゴの上の黒い隙間に、ツイッターに投稿した最新の文章が表示されているのではないかと思うが、どうなのだろう。そうでなければ、そのバナー内部の青い文字「chiwayune」をクリックして画面をTWITTERに切り替える必要があるが、そこまでする人はほとんどいないだろう。また、ツイッターで毎日さえずってはいても、筆者が誰かのツイッターを「お気に入り」に入れておらず、今後もそんなことはたぶんしないから、必然的に筆者のツイッターを「お気に入り」に入れてくれる人もない。これでは完全な籠の中の孤独な鳥だが、筆者のツイッター画面を訪れて、投稿を読む人がどれほどいるのかいないのか、その数値をこのブログのように教えてくれる機能があればいいのだが、どうもそれはないようだ。また、筆者はツイッターの使い方をほとんど知らないので、予想もしない便利な機能があるとは思うが、当分はそれを使いこなせない。このブログにしても、トラックバックの意味が当初わからなかった。ツイッターがブログにはない新機能を持っているのは当然で、どんどん新しいものが登場して、それを理解し、またうまく使いこなすのは、なかなか老人には無理になっている。
 伸びた訪問者数はやはり嬉しいものだが、伸びた数字にはすぐに慣れてしまうし、また伸びたものはまた落ちるという思いがあるので、あまり嬉しくないと言おうか、訪問者数はどうでもいいと思っておくのがいい。先日上野千鶴子と漫才師の対談番組について書いたが、そこで思い出したことがある。上野は、ネットで知り合う相手は現実に知り合う相手とは違うといった意味のことを言った。それに対し漫才師の方は、ネットでの知り合いもあると反論していたが、これは話があまり噛み合っていない。上野の言った意味は、ネットがなかった時代のような人間の付き合いと同等のものがネットでは得られないと言いたかったのだ。もちろんそのことも含めて漫才師の方は、知り合う相手はあると言ったつもりだろうが、それはかなり例外のはずで、ネットで知り合うのはネットだけのことという場合が多いのではないか。上野も言っていたように、ネットでは男が若い女を装って書き込みなどすることがよくあり、顔が見えないことをいいことに嘘にまみれることは多い。だが、それが昔はなかったかというとそうではない。昔は雑誌の文通欄で男女が手紙をやり取りして実際に会うことがままあった。今思い出したのでそのことを書いておく。昨日書いた染色工房に、筆者より数歳下のある男が筆者より数日遅れて入って来た。入社早々、妹が田舎から出て来たので今日はアパートで一晩寝かすといったことを主宰者に報告し、早く仕事を終わらせてもらった。その妹は翌日工房にやって来た。筆者はてっきり妹であることを信じていたので、「お兄さんはいつも怒られてばかりで、妹からもちょっと注意した方がいいよ」と冗談混じりに声をかけた。その時、彼女はさびしそうな顔をして、筆者をまじまじと見つめた。それがどうにも不思議で、変な兄と妹だなと思った。だが、その日のうちに彼女が妹ではないことがわかった。男の言うのには、雑誌にペン・パルを求める一文を見つけ、早速手紙を出し、京都で会おうと誘ったのだ。そしてアパートでは一晩に何発して最後はアヌスにも入れてやったなどと得意気に話す始末だったが、その男は同じテクニックで一夜限りのそういう付き合いを重ねているらしかった。また、その若い女性もそういう行為を求めて、あるいは少なくても予想してやって来たのだ。初対面でいきなりお互いの性を貪るという行為は若い男女ではあり得るだろう。女性の場合、一度男性経験があればなおさらで、男なしでは一生暮らせないと思い、そして適当なところで手を打つと言おうか、妥協して男を見つけ、妻、そして母となって一生を過ごす。それは後でまた述べるとして、ネットがない時代でも若い男女は性を求めていとも簡単に一夜限りの交際をしていたわけで、そういう人間の欲望をネット社会は加速化、肥大化させた。だが、時代がどんなに進んでもそういう行為を積極的に求める若者は一定の割合だろう。つまり、ネットがあろうとなかろうと、やろうと思えばどんな手を使ってでも人は何でもやる。その妹と称された若い女性が工房の2階の端にしばし立って、どこかさびしげに外を見ていた姿を思い出すが、年齢は20かそこらか、手紙で知るだけの男にもっと理想の姿を思い描いていたかもしれない。それが実際に会ってみるとさほどでもなかったが、どうせセックス目当てでもあったので、そのまま男に身を任せたというのが実情だろう。そして、今は全くそういう素振りも見せずに家庭の奥さんに収まって、旦那が初めての男といったような顔をしているか、自己暗示にかけているし、また世間でもそれが大人の態度であるとして非難もしない。
 話を戻して、上野が言うネットでは人が知り合えないという意見に賛成だ。筆者はこうして毎日投稿しているが、未知な人と知り合い、その後は実際に会いたいという思いは全くない。筆者が会う人は、最初に実際に会ったことのある人に限られる。ネットだけの知り合いは、先に書いたようにお互い嘘が混じりやすい。ところが、ネットで趣味を同じくして知り合い、実際に会うことを重ねて結婚に至る例もあると聞く。そういうことがあっても不思議ではないが、何と孤独かと思う。また、一方では合コンなどといって、男女が複数で会う場が若者の間に持たれるが、そうした機会で将来結婚する相手が見つかるだろうか。筆者ならそういう場には出かけない。男も女も自分を最大限に宣伝するために、媚びを振りまくであろうし、そういう場に身を晒すのは何だか情けない。筆者はもうそんな出会いを求める年齢ではとっくにないが、高齢者でも配偶者を亡くすなどして、再婚相手を求めてそういう出会いの場に参加する人はある。男女のことは若いも老いもないのだ。また話を戻すと、ネットで知り合うことに幻想を抱かない人は、現実の生活に自信がある人が多いかもしれない。それは現実の生活の中で異性と出会うことが困難ではないというのではなく、自分にある程度の自信があるので、その気になれば異性に接近する機会を作ることが出来ると思っているのだ。そして、そういう自信のない人がネットにすがって、どうにかして異性と出会えないかと思っている。だが、そういう考えをまず捨てることだ。そこからしか自信は得られない。だが、こういう意見はきっと嫌われる。自信のない人は多いし、そういう人はそれをあまり認めたがらず、その一方で、異性と出会うことを心底望んでいる。それは男女ともで、そういうさびしい男女が出会って一夜だけの肉体のうずきを満たしたりもするのだろう。だが、それは責められない。以前ネットに出ていた調査に、妻が産んだ子が実際は夫の子でないという場合が1割だったか、2割だったか、とにかく予想以上に高い数値で、夫はそのことを知らないという結果があった。これは男がそれだけあちこちの女と交わっているためで、結局男女が同じであることを示しているに過ぎないが、1割でもかなり多いだろう。だが、女から言わせるともっと多いという意見もあろうし、夫に悟られないまま生涯暮らすのであれば、問題は生じないし、妻もそういうことを隠すことにさして罪悪感を夫に抱かない。また、抱かないような女であるから、夫以外の男と交わりもする。それでも婚外交渉がそれほどあって夫以外の男の子を産んで育てることは、動物的本能から見れば、優性な遺伝子を伝えることにつながってもいるようで、言葉はふさわしくないが、本当は健康なのかもしれない。健康や不健康は、条件を変えて見れば転倒することが往々にしてある。アメリカでは優秀な男が自分の精子を売り、それを買う女性がいる。それは妻が夫以外の子を密かに産むことにどことなく通じている。産むのは女で、また産む行為にまつわるあらゆることを女が自分の思いどおりにしても、男はそこから疎外されっぱなしのところがある。また、男は妻に貞淑であってほしいのに、一方ではたいてい浮気願望があって、機会さえあれば他の女と交わりたいと思っているが、それが理屈に合わないはよくわかっているのに、現実はやはりそうでないとすれば、男が妻を持つことの意味がどこにあるかを真剣に一度考えるべきで、妻を女中のような、簡単に言えば炊事掃除洗濯のために必要と思っているとすれば、女が反乱を起こして、男の奴隷ではないと抗議の声を上げるのは当然だろう。
 ジョン・レノンとヨーコ・オノの「女は世界の奴隷か」という曲の歌詞は、ジョンとヨーコがいかに対等であったかを示す内容だ。たとえば歌の最後のリフレインは「We make her paint her face and dance」だ。これは「男は女に化粧させて踊らせる」で、女が化粧して女らしく振舞うことを意味しているが、女が男と違って化粧するのは、ヨーコに言わせれば、男の目を引くための媚びで、女が男の奴隷的な立場にあるという意味だ。だが、これは否定する女もいることだろう。女性開放運動の一番の敵は女だとよく言われるが、そこをこの歌詞はほのめかしてもいる。また「We make her bear and raise our children. And then we leave her flat for being a flat old mother hen. We tell her home is the only place she shoud be. Then we complain that she’s too unworldly to be our friend. Woman is the nigger of the world …yes she is. If you don’t believe me,take a look at the one you’re with.Woman is the slave to the slaves.」はもっと強烈かつ直接に主張される。「男は女に子を産ませ、育てさせる。そして老いた母鶏のように退屈なものにしてしまう。男は家庭こそが彼女のいるべき場所と言い、男の友人になるには俗っぽ過ぎると不平を言う。女は世界の奴隷だ。そうなのさ。それを信じないなら、あんたが一緒にいる女を見てみろよ。女は奴隷に奴隷の扱いを受けるのさ」。先日書いたが、これは1972年の作曲だ。歌詞にはたぶんにザッパの歌詞や考えに対する反論も見える気がするが、それはさておき、この歌詞で「We」と歌われるのは、男が支配する世界のことで、ジョンとヨーコは女よりも男に向かってこの曲を歌い、また自分たちはそういう男が考える男女の関係からは遠いことを言っているニュアンスも込めている。この曲が収録されるアルバムには、ジョンとヨーコがザッパと共演した演奏も入っているが、同時期のザッパは、若い女が巨根を欲してそれにひれ伏す曲を歌ったりしていて、女の性欲に着目していた部分が大きい。それは男の考えであって、実際の女が男と同じほどに性欲があるのかどうか、またその程度の差は筆者にはわからない。だが、若い男女が性欲に溢れ、お互い接近してセックスに至るのは自然なことで、その向こうに妊娠あるいは結婚がある。子どもをほしいからセックスするのではなく、全くその反対で、したいこと、気持ちのいいことをして、知らぬ間に子どもが出来る。であるので妊娠すれば大変だと心配しながら行為に及ぶ。筆者が言いたいのは、そういう男女はさびしいから性行為をするのではなく、まだそれを本格的に感じるより前に、何かに突き動かされる形で行為に及ぶのではないかということだ。そして、その時点では男女は完全に平等で、お互いが奴隷ということも意識しない。ところが、そういう関係は、もう少し年齢が高くなると、男女ともに結婚を意識するであろうし、そうなると、子どもが生まれ、家庭が出来て、収入を得ることと、家事をこなさねばならないことが生じ、男女は父母という、やや別の存在になる。そして、そうなった時に初めてお互い相手がいないことを想像して、そのさびしさを思い、家庭を大切に思う。ジョンもヨーコも芸術家であるから、普通の平凡な男女とは違う。平凡な男女は、たとえば「女は男の奴隷だ」などと主張することに反論することは多いだろう。だが、先の歌詞で言っていることは、女は男の暗示にかけられ、また男が作り上げて来た因習をあたりまえと思い、そして自らも家庭に収まって平凡で単純な生活を送ることに何ら疑問を抱かない現実の指摘で、男が変われば女も変わり、男のように社会で活躍する存在になれる可能性をほのめかしている。だが、現実はそんなに甘いものではなく、まず、男の意識を変える、しかもロックを聴く世代、つまり現在60になるかならない筆者の世代の意識を変え、その後の社会の変革を望んだところがある。そしてジョンとヨーコの望みどおり、40年経った今、夫婦共働きはあたりまえになり、男の地位は下がった。そして社会で活躍する女が増えたことは誰でも実感する。
 さて、一昨日みんぱくで『ウメサオタダオ展』を見た際、最も印象深かったのは、1959年に梅棹が「妻無用論」を書いたことだ。その反響が大きく、読者の手紙が数通展示されていた。その「妻無用論」をさきほど図書館から梅棹の全集の1冊を借りて、バスの中で読んだ。読者の反響は賛否あって、その反論に対して梅棹は「母という名の切り札」を書いた。これも読んだが、妻を無用とした意見に対し、読者は子どもをどうするのかということで反論し、そこに梅棹は、女が母という切り札を持っていることは、妻という切り札の次に女が用意しているものであって、そういう妻から母という埋没した立場にある女性というものに失望を禁じ得ないと言う。これは簡単に言えば、男のように社会に出て、もっと自己主張すべしということで、前述のように時代はそのとおりに進んで来たし、同論文から12年経ってジョンとヨーコの「女は世界の奴隷か」の曲が歌われ、ヨーコは「妻無用論」とおそらく同時期に同じようなことを考え、また実践して来た。「妻無用論」を簡単に言えば、妻がこなすべき仕事は電化製品の普及ではるかに楽になり、食事にしても何でも売っている時代であり、男は妻がいなくても生活出来る、そのため妻は不要なのだと理解すればいい。もっと言えば、妻の仕事がそのようにして減少するにしたがって、男は妻にペット、慰安婦としての役割しか認めないということだ。これは現在結婚しない男、出来ない男が増え、その一方で男の性の欲求のはけ口になるさまざまな性産業があって、なおさら女の性は商品化されて、食品や趣味の品と同じようになっていることからもわかる。あるいは、男だけではなく、男の味を知ったさびしい独身女も同じで、男と同じように性の満足を求めて、それを解消する商品やオナニーに向かう。「妻無用論」は高次に捉えれば、男女ともに独立して有意義なことに時間を費やそうという主張だが、低次元で言えば、お互いの性は商品化されたので、ほしい時にだけほしい分だけお金を支払って済ませばいいというドライな考えに結びつく。独身者が多く、またネット社会になって、なおさらその傾向は増しているかに見える。そして、女は若い自分の性が金になることをよく知っているので、恋人にただでさせるよりかは金儲けがいいと思う連中もいる。その形を「女は世界の奴隷か」に照らしてどう思うかは、個人差があるだろう。だが、女の性が男のそれよりより高値で売れ、しかも数も圧倒的に多いとすれば、そこには女が奴隷として扱われて来た歴史が大きく反映している。
●女は男の奴隷か、さらに_d0053294_21191238.jpg また、「妻無用論」は田舎ではなお受け入れられなかったのではあるまいか。田舎では家を代々継いで行く意識が都会より大きく、とにかく嫁を得て、男子を産んでもらうことが何よりも増しての最重要事となっている。また、一部の女性には、そういう家に嫁いで、それが代々続く退屈な雌鶏のような生活であっても、男子を産む義務を自らに課し、代を引き継ぎ、また引きわたすことに人生の大きな意味を見出す場合があるだろう。また、梅棹の予言どおりに女の地位は上がり、家庭に奥さんとして収まっているだけの女性は少なくなって来たが、その理由は、男の給料だけでは生活が出来にくくなったからで、女が創造的なことに没入する時間が増えたとは言えない。そこを梅棹がどう思っていたかだ。65歳に失明してから梅棹は奥さんに口述筆記してもらった。そして晩年の梅棹は、「妻無用論」どころか、妻がいなければ自分は何も出来ないことを語った。若い頃、性の欲望につき動かされて衝動的にセックスをし、また成り行きで結婚してしまう男女は少なくないが、理由はどうであれ、そうして始まった縁を長年続けていると、最初の衝動的な性への思いが消え、代わりにお互いを尊重、いたわり合う思いが芽生えても来るだろう。そうならない男女も多いが、それはそれとして、ともかく男女が何か知らぬが、一緒に暮らし、子どもが出来、それを育てるということは、ごく自然であるし、そうして長年連れ添っている間に、これも何か知らぬが、お互い補い合う存在になっているものだ。筆者は昔Tさんが言っているのを聞いたが、筆者が仕事でそれなりの成果を上げているとすれば、それはすべて家内がしっかりしているためであって、妻はそのようにして夫を立てているとの一般論であった。これは晩年の梅棹の感慨と同じで、梅棹は奥さんがいなければ立派な研究をすることは出来なかった。ジョン・レノンも同じだ。ヨーコの導きがなければ、ビートルズ以降のジョンはなかった。「女は世界の奴隷か」の曲が言いたいのは、男が女をもっと尊重すれば、男はもっとましな仕事が出来るのではないかということではないだろうか。つまり、これは「妻無用論」の論旨から外れるが、男を伸ばすも縮ませるのも女の腕次第なのだ。
●女は男の奴隷か、さらに_d0053294_21193661.jpg

by uuuzen | 2011-06-14 21:12 | ●新・嵐山だより
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