人気ブログランキング | 話題のタグを見る

●伏見人形についての公開講座
ブログをつけ始めた日から骨董に関するカテゴリーを設けていた。そこに書くべき内容はいくつかあるが、なかなか思い切りがつかず、2か月も放ったらかしになってしまった。まだ投稿がないカテゴリーは目下のところもうひとつあるが、これもある程度は用意はしているのにまだ書いていない。



何でも最初が肝心で、その突破口が見つかれば後はどうにかそれなりに続いて行く。そんなことを思っていたところ、この骨董に関するカテゴリーにふさわしい経験が一昨日あった。その前日に1枚のファクスが届いた。大山崎に住むM氏からで、伏見区の京都教育大学の公開講座として伏見人形が採り上げられていることを告げるものであった。講師は村上敏明氏で、この人の名前は3年前にネットを始めた直後に伏見人形を検索して知っていた。今でも「伏見人形」のキー・ワードを入れて検索するとこの人のホームページが上位に掲示される。それからもたまに氏のホームページを訪れていたこともあり、今回の講座で実際に会えるのはいい機会と考えて出かけることにした。ホームページで見る限りは筆者と同じかもっと年下の男性かと想像していたが、実際はとっくに定年されている方で、それが多少意外であった。ところで、筆者はネットを始めた頃は毎月必ず21日の弘法さんの市と25日の天神さんの市に朝から出かけて伏見人形を買い集めていた。そしてネット・オークションでも珍しいものがあれば入札してたまに落札もしていたが、競り上がる価格に恐れをなしてさらなる入札を諦めた古い伏見人形が、その翌月には村上氏のホームページに新資料として写真入りで紹介されていることが2、3度あった。その点からも村上氏がどういう人なのかは興味があった。伏見区在住であることはわかっていたが、伏見人形の紹介に熱心で、使命感も感じておられることがホームページからは伝わる。そのように充実したホームページであるので、大体話の内容は予想がつき、講座を改めて聞くまでもないかと思わないでもなかったが、ファクスを送ってくれたM氏にはもう2年ほど会っていないので、出かければまた新しいニュースが得られるかもしれないと考えた。
 講座は6時からであった。まだ日差しは明るく、暑い。京阪電車の藤ノ森駅から降りてすぐの藤ノ森神社は有名であるにもかかわらず訪れたことはないが、ネットで調べるとその神社前をすぐ東に上ったところに教育大学はある。初めて歩く道はなかなか楽しいもので、藤ノ森駅からすぐの、京阪電車の線路に沿って南北に通る伏見の旧街道のどこかひなびた味わいは、当然それよりずっと北に続く伏見稲荷大社前の街道と同じで、いつか改めてこの街道を南端から北まで全部歩いてみたいとも感じた。JRや京阪電車が通ったために、今ではこの街道を歩いて京都の中心部まで行く人はいなくなったが、昔のままに道は残されているから、想像力を逞しくすれば江戸時代の光景を脳裏に描くことは出来る。京都にはまだそうした道が縦横に走っているので、建物がすっかり新しく変貌してはいても、昔の情緒の名残はそこかしこに漂っている気がする。藤ノ森神社は鎮座して1800年というから、深草のこのあたりは江戸時代どころではない、歴史的にはきわめて古い由緒あるところだ。そうした土地から生まれ出た伏見人形が同じように古い歴史を持っていると考えるのは自然なことで、単なる郷土玩具といった捉え方ではなく、土偶や埴輪との関連で研究すべき対象に思えるが、残念ながらと言うべきか、あるいは全く反対に幸いにもと言うべきか、今も伏見人形は細々と商品として作り続けられていて、ごくごく一部のファンの関心事にこそなれ、それ以上には出ない存在にとどまっている。これがもし完全に廃絶でもすれば、たとえばの話、ギリシアのさまざまな壺などのように立派な美術品として崇められ、研究対象にもなり、また価格も天井知らずになる可能性もある。だが、今も江戸期と同じ型によって、彩色の違いによる色の差はあってモ、形だけ見れば昔から何ら変わらないものが作られるあまり、美術品としての条件である稀少価値の面が満たされないものとして認識されている。もちろん江戸時代末期や明治初期の、それこそ数がうんと少なくなった古伏見人形は、それ相応の骨董価格で市場取引がされているが、大抵は同じ形のものが今も製造され続けているし、仮に型がすでにないものでも、製造しようと思えば比較的簡単に出来ることもあって、1回限り、1点限りのアウラという美術品の命が幾分うすまったものとして捉えられる。これは複製かつ大量生産、しかも安価で一般の人々に供給された造形作の宿命で、そうしたものを柳宗悦は民芸と呼んだが、どういうわけか柳はあまり伏見人形を評価しなかったから、そこがまた民芸からもある程度はじき出された存在として伏見人形は不遇を囲っている。
 京都土産の代表でもあった伏見人形は、一方で伏見稲荷大社との関係もあって京都の人々の生活に深く入り込んだ存在であったのが、今では季節感や歳時記、行事感覚がうすれてしまい、生活から遊離したものになっていることも人気減少の大きな理由だ。需要が減少すれば安価での大量供給はますます困難になり、製造する店も減少するのが道理であるし、店が少なくなれば競争相手がいないために人形の品質が変化するのもやむを得なくなる。民芸品が辿ったのと同じ道を伏見人形も歩んでおり、安価という面がまず不可能になって次には品質が落ちるということにもつながり、そして需要がさらに落ち込むという悪循環に陥る。結局は高価な美術品のような道を採らざるを得ないが、一方で江戸後期や明治期の優品が骨董市場に出回って、同じ買うならばそうしたものを考える人が出て来ることを招く。実は筆者もどちらかと言えばそうだ。集め始めた当初は今作りのものでもかまわないと思っていたが、だんだんと古作の独特な表情を知るようになると、作品の味わいの歴然たる差を認めないわけには行かず、新しい作りのものにはあまり関心が持てなくなった。これは骨董と新作との間に横たわる難しい問題で、郷土玩具収集家でも意見が分かれるところとなっている。50年や100年以上前のものしか集めないとなれば、今も作られている郷土玩具はますます後継者が育たず、すぐに廃絶してしまいかねないし、実際毎年のようにそうなっているものが日本のどこかであると言ってよい。ごく一部の好事家しか喜んで買わないものを作り続けるだけでどうして作家の生活が可能かという深刻な問題が今の日本にはある。この点は昔も大差なかったと言えるが、農閑期の片手間に作業するなど、最低限の生活が保証される実情はまだ昔はあったのではないだろうか。今は自給自足という生活はもう誰も出来ないし、出来たとしても郷土玩具を作るための材料や絵の具などはお金を出して買う必要があるから、否応なく経済問題との格闘の渦に巻き込まれる。
 江戸時代に伏見人形が日本全国に波及して各地で独自の土人形などが生まれることになった事実はあまり知られてはいないだろう。そうした日本の財産とも言える伏見人形であるにもかかわらず、京都には国宝や重要文化財が溢れ返っているあまり、民芸にはほとんど保護の手は差しのべられない。これは前述したように、まだ昔のままの人形作りのための型が残っていて、それを使って同じものを繰り返し作って商う店があるために、公的保護がしにくいという理由があるからと言える。完全に廃絶でもすれば、それこそ一斉に昔の優品が収集されて伏見人形博物館を作ろうという動きも出て来るかもしれない。公的保存の対象になるのはいつでももう死んだものに限り、まだ生きているものは民間の人々が好きで集めて楽しめばよいというわけだ。これはある意味では正しい。ではあるが、もう少しどうにか行政が関心を持って伏見人形を宣伝するなりして価値を広める動きをしてもいいではないかと思う。地方へ行けば観光客誘致のために必死に何か広報に役立つ歴史や文化遺産を地元から探そうとしているのに、京都は有名寺院目当てに勝手に観光客がやって来てくれるという意識が強いため、伏見人形などに行政のお偉方が積極的に目をとめることはまずない。そのため伏見区の地元の有志がどうにかしてこの伏見人形を活性化のひとつの手立てとして利用としているが、資金の問題が大きいはずで、伏見人形をまとめて展示する恒久的な施設は夢のまた夢の話であろう。いくらでも安く借りられる空き家はあるはずだが、いざ展示資料館となれば係員の人件費もかかるし、目に見えないお金が毎年たくさん必要であるのは誰にでも想像がつく。それに、本当に伏見人形が好きで、一生の研究対象として身を捧げる覚悟のあるような人を館長に据えることも必要だ。せっかく日本でも稀な良質の文化遺産が京都にあるというのに、公的な展示館がないのはまことに情けない。京都市内北部に総合資料館があって、そこに伏見人形を初めとする郷土玩具の一大コレクションがある。朏コレクションとして有名だが、つい最近までそのごくごく一部が、季節ごとの展示替えとして京都文化博物館の別館の展示室のガラスケースで細々と並べられていた。そのケースが全部撤去されて今はブティックやらのテナントが入ってしまったが、日本でも有名な膨大な数の収集を誇るせっかくの朏コレクションがまたすっかりお蔵入りになってしまったわけで、これは今も各地に住む郷土玩具収集家の気持ちをすっかり萎えさせるに充分な出来事と言ってよい。自分が一生をかけて集めたコレクションが家の者からは場所塞ぎだと非難を浴び、そして市に寄贈して運よくそれが受理されたとしても、一般に公開される機会がよくないとなれば、集めた意味も寄贈した意味もない。
 話を戻そう。6時公開の講座にちょうど間に合った。100人ほどが入っていて教室は満員で、これは予想以上に多かった。ただし、やはり20代や30代の若い人はほとんど目につかない。村上氏の講座はパソコン画面をスクリーンに映しながらのもので、1時間少々で終わったが、その後の質疑応答では3、4人が質問した。伏見人形に全く関心のない人とかなり知識のある人の質問で、その点から考えれば100人の内訳もだいたいこれら知識のない人とある人に二分されるだろう。その意味でこうした伏見人形を全く知らない人に関心を植えつけるよい機会で、一度と言わずにもっと頻繁に開催される必要を感じる。話の内容の大半は筆者はよく知っていることなので、途中で10分間ほど居眠ってしまったが、予想していない情報がひとつあった。それは筆者が探している古作の布袋像にまつわる話だが、これは村上氏のホームページにはまだ載っていない事柄のはずで、いい情報が得られた。この点に関してはこのカテゴリーでまたいつか詳しく書きたい。いずれにしても、やはりこうした機会は侮らずに出かけるに限ることを改めて思った。講座が終了し、一番前列のテーブルに10数個置かれている伏見人形を眺めに行き、帰ろうとして振り返ったところ、講座中、目で探しても見つからなかったM氏とばたりと対面した。M氏は講座を新聞で知り、それで筆者にファクスを送ってくれたらしい。M氏はネットをやらないので村上氏のホームページも、また氏の存在も知らなかったらしい。M氏との話は駅までの道中ずっと続いたが、知り合いの郷土玩具コレクターが高齢になったため、自分のコレクションを一括して引き受けてくれる人を探しているという話を聞いた。コレクションをそっくり若いコレクターにそのまま無料で譲りたいらしい。公的機関への寄贈は考えておらず、あくまでも研究を引き継いでくれる若い人に限るということらしい。M氏は譲り先候補のひとりとして筆者を推していると言ったが、筆者も自分の100個ばかりの伏見人形を陳列しているだけで手いっぱいの状態、もう新たに並べる場所の余裕はない。せっかくのいい話とは思うが、もっと広い家、部屋がないことにはどうしようもない。これはどのコレクターでも共通した悩みだ。またM氏の話によると、伏見人形の収集家として有名な大山崎の伏偶舎館長の奥村氏は自宅の展示室を空ける必要が生じたのか、コレクションの半分程度を高槻市に最近寄贈したそうだ。ところが同じ高槻市には別のコレクターが先に一括寄贈したらしく、せっかくの奥村氏の寄贈もやや存在が霞みがちになり、またコレクションのだぶりがなければよいがといった話であった。郷土玩具は同じものがたくさん作られるため、あちこちから数千や数万単位の作品数の寄贈を受けると、当然同じものや似たものがだぶる。整理や分類がきわめて大変ということもあって、公的機関が寄贈にしろ積極的に収集しないとも言える。伏見人形にも漂流し続ける骨董品の宿命がある。それでよいのだろうけど。
by uuuzen | 2005-07-24 23:28 | ●骨董世界漂流記
●「WITH OR WITHO... >> << ●『ヒトラー~最期の12日間~』

 最 新 の 投 稿
 本ブログを検索する
 旧きについ言ったー
 時々ドキドキよき予告

S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31
以前の記事/カテゴリー/リンク
記事ランキング
画像一覧
ブログジャンル
ブログパーツ
最新のコメント
言ったでしょう?母親の面..
by インカの道 at 16:43
最新のトラックバック
ファン
ブログトップ
 
  UUUZEN ― FLOGGING BLOGGING GO-GOING  ? Copyright 2024 Kohjitsu Ohyama. All Rights Reserved.
  👽💬💌?🏼🌞💞🌜ーーーーー💩😍😡🤣🤪😱🤮 💔??🌋🏳🆘😈 👻🕷👴?💉🛌💐 🕵🔪🔫🔥📿🙏?