●嵐山駅前の変化、その103(売店、円形階段、駅舎から広場)
、またこのカテゴリーを続ける。駅前写真は今日から去年9月に入るが、2日に撮影した4枚を載せる。ということは4段落の長文になる。



さて、ひとまず仕事の区切りがつき、今日から新たな気分だが、書きたいネタが溜まっていないので、どう埋め草をしようかとはたと立ち止まる。昨夜から今朝はひどい雨で、その音を聴きながら、天井から雨水が漏れるのではないか、裏の小川が津波のように増水して家が流されるのではないかと寝床で思ったが、今こうして書いていて、空は青く晴れわたっている。天気が移り変わるように人の心も変化する……とか何とか、月並みなことを書いてみるが、誰にでも月並みな思考や行動はあるし、よほど頑固な人も時にはそれにしたがってみるのもよい。この頑固は女性の場合は操として見られる場合がある。貞操観念という言葉は今は死語になった気がするが、好きになった者同士がお互い相手を暗黙のうちに性的に他者と交わってほしくないと思うのはごく自然だ。だが、よく言われるように男と女は体の構造が違い、そのことで性に対する意識にも差があって、貞操は主に女性に言われる言葉で、男はその裏で勝手な行動をする場合が多い。男が女に貞操を求めるのは、自分の子孫を残すための本能だろう。女が産む子は自分のものと確証出来るから、どんな男と交わってもかまわないという本能がどこかにあるのではないか。ところが男は女性ほどには自分の子という確信が持てない。もちろんほとんどの夫婦における夫は自分の子を産んでくれたと妻を信じ、それはほとんどの場合に正しいはずだが、先日たまたまネットで知ったことによると、数パーセントかそれ以上の妻は旦那以外の子を生みながら、旦那にそれを隠しているとあった。これは男から見れば恐ろしいことだが、自分のだらしなさがそうさせたところもあるはずで、また男は自分のそうした弱さをよく知るので、妻に貞操を求め、貞操帯といったものも発明した。そこまでしないことには男は自分の子であることに保証と安心が得られないというのは、男の悲しさだが、それは男という種族の本能であるから仕方のないところがある。スティングの曲の歌詞に、If you love somebody, set them freeというのがあった。この「誰かを愛するならば、その人を自由にさせよ」ということを、子を残すという男の本能を考えておらず、どこか無理があると反論することは、やはり現代では間違った考えであり、男も女もそのように相手を縛らない方がかえって相手は無言の圧力によって縛られるという見方なのだろう。また、この歌詞のように、相手を縛らずにそのまま放っておいたら、逃げられた、浮気されたということになれば、それはそれだけの軽い関係であって、惜しいとは思うなということでもあるだろう。だが、現実の男女の関係はこの歌詞のようにそう簡単に割り切れるものではなく、スティングは理想を言っている。その理想がなかなか現実にはないので、この歌詞のようにありたいということだ。
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 男が自分の子である保証がほしいためにたとえば貞操帯を発明したということだが、さて本当に男は自分の子孫である確証がほしいであろうか。自分の子がほしいために女と交わろうとする男は少ないのではないか。家の意識が強かった時代でも、男の子孫に恵まれない時は養子をもらったから、血がつながっていることは最重要の事柄ではない気がする。自分の子であればどんなに出来が悪くてもかわいいとよく言われるが、これを裏返しにすれば、他人の子は誰も自分の子よりかわいくないということだ。出来が悪いと自分の子であっても他人の子であってもかわいくないというのが、人間を動物的に見た場合には正しい見方ではないか。それが大きな声で言えないのが現代の実情で、たとえば障害を持った子でも、あるいはそうである場合はなおさら大切にすべきという社会的通念がある。これは人間みな平等、人間には愛が最も重要という考えから出ていることで、その一方に日本が経済的に豊かになったことが理由として大きい。子の間引きや姨捨山があった時代にはまず考えられなかったことで、そういう時代から何と隔たって今の日本は愛情豊かな国になったという思いがあるだろう。だが、そう簡単に200年やそこらで人や国の考えが変わるか。単に経済的に豊かであるからで、これがまた江戸時代のように貧しくなると、子の間引きや姨捨山は復活するのではないか。現にそれは今もあると言ってもいい。老人ホームや病院は体のよい姨捨山であり、また子の間引きは経済的に豊かになって収入の大きな格差が生じたことによって、もっと巧妙な形でより深刻にかつ絶対的に実行されている。有名大学に入るには今では小学校2,3年から塾でそれなりの点取りの技術を身につける必要があり、その塾の費用は家庭の経済力に応じる。であるので、もともと頭が賢いから有名大学に入れたと自惚れない方がよく、だいたいは単に一般以上経済力のある家庭に生まれた運のよさに過ぎない。経済力がない家庭の子が自動的に将来収入のいい仕事に就けなくなるのは、まさに江戸時代の貧しい農民の子の間引きと同じことで、現代が江戸時代に比べてよくなったとは手放しでは言えないと思える。そして、そんな過酷な現実の現代社会を、有名大学を出た人たちが改善することはまずなく、逆に自分たちの保身のために動き周り、ぶん取れるものならいくらでも国からもらうというのが実情だ。そういう人たちが牛耳る国は巨大地震がなくてもいずれ亡びる。
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 一昨日、ムーギョ・モンガに買い物に行った時、前からやって来た女性が筆者を呼び止めた。うす茶色に汚れたマスクをし、また身なりからは貧しい生活であることがわかったが、買い物帰りのようであった。その女性がつかつかと筆者にすぐそばにやって来て話かける。筆者はそういう場合、いつもとても優しいので、黙って聞く。そして3分ほど同じ姿勢でその女性が一方的に話すのに耳を傾けた。何を言っているのかいっこうに要領は得ないのだが、ローマ法王がピストルで頭を打たれ、頭蓋骨がどう塞がったなど、さっぱりわけのわからないことを弾丸のように話す。忙しいのでもういい加減にしてほしいと態度に示すのが大方のやりそうなことだが、とにかくこっちは無言で、相手にしゃべるだけしゃべらせた。すると、全部思いをぶちまけたらしく、すっと身を翻して去ってしまった。40半ばほどの年齢だと思うが、新興宗教に入信しているのか、あるいは心を病んでいるのだろう。どちらにしても哀れで、そういう人が下町には少なくないことに思いを馳せた。同じようなことはたとえばバス中で最近あった。以前にもバスで遭遇したことがあるが、大声で同じことをしきりに繰り返す40歳ほどの男性がいる。その声が本当に馬鹿でかく、たいていの人は「ああ、知的障害者だから仕方がないか」と我慢するが、中には腹を立て、「うるさい! 黙って!」という人もたまにある。すると、その障害者はそれが自分に発せられた侮蔑の言葉であることくらいはよく知るので、その場は黙るが、すぐに元に戻り、どれどころか、今度はその「うるさい! 黙って!」をレパートリーに加えて大声で何度も繰り返す。この男性がバスの中で家内の真横に座った。そして大声を発し続けたが、家内は片方の耳の鼓膜が破れるかと思ったと後で語った。はた迷惑だが、それを大声で言うことは愛情のない人権否定論者とみなされる。だが、大声で間断なく話し続けることはまだしも、それ以上の、たとえば乗客に危害が及びかねない場合もあるはずで、その線引きがどう出来るかの問題がある。以前床屋で主が話題にしたが、車椅子に乗った身障者を駅で世話した時、ありがとうの一言もなかったと憤慨していた。同じことは筆者もよく見かけるし、家内も話してくれたことがある。たとえば電車を下りる際、車椅子に乗る人が真っ先にドアの前に陣取って、真っ先にホームに出る。それが通勤のラッシュ・アワーでは大勢の人の迷惑になることを考えない。また、たいていの通勤客はその身障者を見ると、前もって別のドアに移動するそうだが、1秒の差で電車の乗り換えが出来ず、その後そのずれが重なって通勤地の最寄の駅に着くのが10分や20分遅れて遅刻しそうになることがある。もちろんその身障者もそういうことを知っているので真っ先に降りようとするのかもしれないが、自分が降りるのに手間取って、大勢の客を車内に残し、車掌まで困っていることに気づかない、あるいは気づこうとしない。身障者は保護されて当然という社会のムードがそういう思いを抱かせているとすれば、これは不幸だ。身障者は通勤時間帯に電車に乗るなと言いたいのではない。ただ人に対する迷惑に鈍感になるのは身障者であっても許されることではない。
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 話を戻すと、自分の子なら出来が悪くてもかわいいだろうか。筆者はもともとあまり子どもが好きではないのか、出来の悪い自分の子より、出来のよい他人の子の方がかわいい。出来の悪い者にお金を使うくらいなら、出来のよい貧しい子に寄付したいほどだ。その点筆者は自分の遺伝子を持った子孫を残したいという思いには欠ける。富士正晴の『桂春団治』の評伝には似た話が書かれていた。桂春団治を育てた女性は、自分の肉親でも出来が悪いとさっさと見放し、出来のよい他人に入れ揚げた。これを富士は明治にありがちのきつい性格の人と書いているが、そこに否定的なニュアンスはない。それほどはっきりとした性格の人物が明治にはたくさんいたので、大人物が大勢出た。わが子のみがかわいい、財産は全部わが子にといった考えでいると、そのわが子はろくでもない人物となってしまいがちで、それが今なおほとんどどの家庭でも見られることであるはずだが、破天荒な桂春団治が世に出ることになった陰には、出来が悪ければ自分の子や兄弟でも無視、出来のいい、才能のある人物にすべてを注ぎ込んだ人物がいたということだ。富士はまた、アホが大学を出るとなおさら手のつけようのないアホになると書いている。これは今の日本をよく言い当てている。この場合のアホは、小学3年から塾に通って有名大学を出た人物も該当する。勉強が出来るからアホではないということではない。ザッパはあるアルバムで、勉強し過ぎの糞頭である人物を描いている。障害者の問題はさておいて、人間として生まれて、人並みに性の喜びも含めて人生で挑戦すべきもの、享受すべきものは年齢相応に経験しないことには、人格がまともに具わりにくい。それをさえぎっているのが、たとえば男がつごうよく作った貞操観念であり、また一方では進学病とでも言える有名大学信仰で、古い因習や過酷な競争の陰で道を見失っている若者が絶えず、それが出来の悪いという枠内に一括で押し込められ、なおさらストレスを抱えることにもなっている。出来の悪いは、努力が足りないの意味で筆者は使っているが、若者にとってその努力が報われないのが現代でもあるかもしれない。だが、報われるとは何か。そこを考えないから出来が悪い、アホというきつい言葉も出て来る。
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by uuuzen | 2011-05-24 11:43 | ●駅前の変化 | Comments(0)


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