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●嵐山駅前の変化、その74(売店、脇道から広場)
の毛が目に入るので、なおさら目が痒いのかもしれない。それで今日は散髪屋に走るつもりが、午前中は自治会のことでつぶれてしまった。



年度末で、4月から始まる来年度に向けて、各役員を決めたり、また新たに自治会に入りたいという家に説明に行ったり、また来年度の最初の総会に向けて名簿や資料作りをしなければならない。そのためにここ10日ほどは毎日時間を費やしている。運動不足にいいと思って引き受けたことでも、自治会内を1日に3度も歩き回ることがあって、それだけでも1時間はかかる。歩き過ぎで、かえって足が痛い。この場合の痛む箇所は左足の親指の根元だ。10数年前、銀行ローンを別の銀行で借り替える契約をした。そして、サンダルを履いて自転車で梅津の銀行のその場へと走っている時、松尾橋をわたったところで、どういう拍子からか、左足親指の先が地面に強く擦れてねじれてしまった。サンダルがペダルから下方にずれたのだ。激痛が走ったが、待ち合わせの時間が迫っていた。また坂を下ったところに銀行があったので、そのまま自転車を走らせてたどり着いた。親指はかなり擦りむいて血が滲んでいたが、その傷はさほどたいしたことがないように思えた。むしろ指の間接が普段は曲がらないような位置にまで後方にねじれたことが何とも痛く、顔をしかめながら居並ぶ銀行マンの輪に入った。すると、担当者は「大丈夫ですか」などと心配そうに声をかけて来たが、ティッシュで血を簡単に拭き取ってそのまま契約へと臨んだ。その親指のねんざは、その後何ともないように自然に治癒したが、じっとしている時に急にずきずきし始めるようになった。冬場は特にそうだ。おそらく軽い骨折をしたのだと思うが、神経が伸び切ってしまったのか、内部は完全には治らないままになったようだ。そして、歩き過ぎるとその箇所が痛むことがよくある。ほんの一瞬の気のゆるみから起こした事故が、その後長年影響を及ぼす事実を思う。あの時、契約の後に病院へ行って適切な治療やアドヴァイスを受けておれば、後遺症的な痛みに悩まずに済んだろうか。そのままでも日常生活には何の不便も感じなかったし、擦り傷が治れば全く問題はないように思えた。また、急に訪れる痛みも我慢出来ないほどのものではなかったので、病院に行くという思いは全くなかった。今日はその痛みがぶり返したが、急に気温が下がったことも影響していると思える。昔の古傷が、老年になると蘇るというやつであろう。完全に治ることはなく、何かをきっかけに少しの痛みが蘇る程度に、内部に傷が残るのだ。
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 この傷は肉体的なものばかりではなく、精神的なこともある。人間の体が自然治癒の能力を有するのと同じ程度に、人間はいやな経験を忘れるように出来ているが、肉体が100パーセント治癒しないのと同様、精神の傷も何か種のようなものを残す。それが老年になると、あるいはそういう年齢にならずとも、何かの拍子に蘇る。そして、時には1日のかなりの時間の思いがそのことで左右され、不機嫌になることもあるだろう。その不機嫌はどこかへ発散されねばならず、自分では無意識なのだが、家族に愚痴を言ったり、不機嫌な言動を示したりする。後で思い返すと、そうした行動の原因が、内面の傷であることに思い至る。この内面の傷は、肉体の傷と同様、予期せぬ時に急に訪れる。あるいは経験を重ねると、ある程度予期出来るだろうし、それに若い頃ならばショックであったことも、年齢を重ねるとやり過ごすことが出来るケースは増える。これは経験が豊かになって自信がつくためだが、この自信が曲者だ。自分はいいが、他人を傷つけることに作用する場合がある。「あいつは自信過剰で、鼻持ちならない」といった印象を持たれがちとなる。自分の内面は鉄のように強固で、多少のことでは傷つかないと自惚れることは、他人から見れば単なる鈍感に過ぎないことになりかねない。実際そういう大人はよくいる。本人は気づいていない、あるいは周囲から孤立しているため、それなりに気づいているのかもしれないが、気づいていてもたいていはどうすることも出来ない。筆者は自治会長をしていて、それに似た話を耳にすることがある。みんな大人であるから、鈍感な当人の前ではほのめかしや当てつけの言葉を吐かないし、また当人とつながる人の前では決して本音を言わないが、心がある程度通じるほどに仲のよい相手とならば、つい人物評が出る。そして、それは実に的確で、その人物の名前を口に出さずともだいたい誰かわかるほどだ。つまり、ある程度誰しも同じことを思っていて、その鈍感な人物は、暗黙のうちに疎外されている。疎外される理由の最大の要因は、言葉だ。大人であれば、自分は言葉の表現が下手ですなどという言い訳は通用しない。下手であっても温かい人はあるし、言葉がうまくても嫌われ者がいる。であるから、言葉の表現というものは、理路整然に無駄なく話すといったこととは別のところに本質がある。心から親しみも持って話しているかどうかなのだ。これは芸術でも同じことが言える。作者が何を思って作ったかだ。芸術に無縁の人でさえも、言葉ひとつで嫌われ者になるのであるから、表現の結晶である作品づくりで生活している人は、どういうことをよく考えて製作しているかが重要な問題となるのではないか。芸術と人柄は全く別物という意見は昔からあるし、そういう部分も確かにある。とはいえ、筆者の経験から言えば、面白くない人、あまり印象に残らない人は、やはりそのとおりの作品を作っている。
●嵐山駅前の変化、その74(売店、脇道から広場)_d0053294_12222100.jpg

 筆者は苦手な人であっても、その場は話を合わしてしのぐことは出来るし、「本当はあんたのことは嫌いですが、今は仕方なしに話している」という態度を見せない。これは内面に仮面を被って接しているのかと言えば、そうでもない。その部分はあるが、どうせ話をしなければならない場であれば、相手を好きにならずとも、嫌いという感情を涌き起こさないようにする。すると相手もそれに反応し、会話は問題なく和やかに進んで終わる。だが、いい話をしたという思いにはならず、無理をしたという感情が一種の内面の傷となって残る。簡単に言えばストレスだ。だが、後々までうずくほどのものではない。それに筆者もいい年齢になって来たので、あまり好まないそうした人と話をせねばならないとしても、それも経験で、ストレスの中から何かを得てやろうという思いにもなる。また、そういうあまり面白くない人とは反対に、筆者の興味をそそる人がたまにあることで、自治会長の仕事も救われている面がある。相手が女性であれば、興味が微妙な感情に変化する可能性があるが、それは案外相手も感じているだろう。そして、お互いそう感じている間がよい。これが、対話の回数が10や20と増え続けると、ふたりの間に散っている火花のようなものを、周囲の人が感じて、どこかで妙な噂を立てるかもしれない。これは注意しておかねばならない。そのため、筆者は積極的に対話の機会を画策することは全くしない。相手も同じように考えているだろうかと夢想することだけで満足出来る。だが、相手の方はそうではないかもしれず、接近を待っているかもしれない。その接近の度合いや限度は、何かの拍子に急速に縮まるものだが、そういうことを勝手に夢想する段階がよく、それで留めておく方がいい。そんなことを思っているせいか、数日前に見た夢は、筆者が見知らぬ女性と真夜中に並んで歩いていて、右手が彼女の下腹部に触れてしまう。バツが悪いなと思って歩みを早めて女性を後方に置き去りにすると、後方遠くで女性が、「その気にさせておいて意気地なし!」と筆者を罵倒する。この話を昨日版画家の門坂流さんに話すと、笑いながら、「衰えて来た証拠ですよ」と言われた。実際そのとおりだろう。だが、夢の中で意気地なしと怒鳴った女性は、あまり魅力的ではなかった。また、似た女性を知らず、女性の「性」が象徴的に出て来たのだろう。やはり衰えて来た証拠か。最後に忘れずに書いておくと、今日の3枚の駅前写真は、7月9日のものだ。
●嵐山駅前の変化、その74(売店、脇道から広場)_d0053294_1224566.jpg

by uuuzen | 2011-03-02 23:59 | ●駅前の変化
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