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●渡月橋とイルミネーション
月橋は昔、歩道と車道の区別がなかった。それが出来、そして5、6年前だろうか、今度は歩道を狭める形で夜に七色に光る固定照明が等間隔で据えつけられた。



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通行人にとっては、行楽シーズンにはそれがかなり邪魔で、いつ見ても必ずひとつやふたつが壊れている。車やバイクが乗り上げてぶつかるのだろう。その補修費用は税金から出ていると思うが、地元の商店主たちは、嵐山に年中観光客がやって来てお金を落としてほしいから、さまざまなことを考えてその誘致を図る。渡月橋の歩道上の照明は、クリスマスのイルミネーション・ブームに便乗したものに思える。クリスマス・シーズンには、いっそのこともっと派手に橋を飾ればいいかもしれない。本当は地元商店街はそれをやりたいのだろうが、許可が下りないか。歩道上の照明は、橋を真横から見ると見えない。それで許可されたのではないだろうか。昨日書いた展覧会を見るために、嵯峨芸術大学に向かうために渡月橋を歩いていると、紅葉の季節が過ぎたのでさすが観光客は少ないが、前から西洋人の集団がやって来た。彼らは嵯峨や渡月橋から見る嵐山を美しいと感じているだろうか。彼らに気づく直前、橋の中央で下流を見ると、遠くに虹が見えた。小雨が降ったりやんだりの天気で、ちょうど光が射した時に生じたものだ。立ち止まって写真を1枚撮った。その虹を西洋人たちも気づき、笑顔で何やら語り合っていた。橋をわたり切って横断歩道を向こう側に行かず、すぐに右に折れて川沿いを歩いた。というのは、虹を作った陽射しが、遠くの京都タワーを照らし、それを見るためには川沿いでなければならなかったからだ。左端に京都タワー、右端に阪急嵐山駅前のホテルを建設している大きなクレーンが入るような角度でまた写真を撮った。その位置からは虹は見えなかった。また、川面にはたくさんの鴨が泳いでいて、それらがなるべく写り込む角度を狙ったが、幅500ピクセルに縮小すると、鴨と大きな石が区別出来ない。下流側を2枚撮ったので、上流もついでに撮っておこうと思ったところ、若い女性が筆者のかたわらを過ぎて、渡月橋の写真を撮ろうとカメラを構えながら走って行った。筆者の頭上の楓は葉がしわくちゃで色も茶けているが、どうにか晩秋の雰囲気が残っていて、それと一緒に橋と女性を写し込んだ。その角度は渡月橋を撮る代表的なものだ。テレフォン・カードや絵はがきなど、昔からみなそれを採用している。つまり、渡月橋が最も美しい角度は、橋の奥に嵐山が写り込んでいるもので、それは嵯峨地区からの景色だ。筆者は嵐山の中に住んでいるようなもので、その代表的景色を味わうことが出来ない。前にも書いたが、それもあって、右京区の嵯峨地区は、西京区の嵐山地区よりはるかに地価が高く、まためったに売られる土地がない。
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 クリスマスなのでそれに絡めた話題にしよう。2日前、河原町通りを三条から四条へと歩いた。歩道の頭上は雨に濡れないように覆いがずっと施してあり、数メートル間隔にクリスマス用の青や赤のLEDで作った飾りがぶら下げてあった。今年、筆者は自分の分身キャラクターのマニマン(「おにおにっ記」に何度も登場させた)を、LEDのチューブライトで作ろうと思いながら、結局その時期を逃してしまったが、ネットで調べると、ロープライトと呼んで、10メートルで2000円ほどで入手出来そうだ。コントローラーつきの電源が1000円ほどするが、コントローラーがなければライトはつきっぱなしになる。LEDは電気代が安いのでそれでもいい。色は普通の山吹色がいい。中国製がかなり安いようで、2000円程度のものはみなそうだ。そして、100個につき数個程度の電球がつかなくてもそれは仕方がないと諦めてくれとある。中国製の粗悪さを知って買えということだ。日本製で安価なものがないのかと思うが、日本は電飾趣味が中国より後れているのだろう。透明なチューブの中に3センチ間隔程度で電球が埋め込まれていて、点灯しなくなったものは交換出来ない。それでそうした製品を買うことにためらいがある。100個のうち100個とも灯ってほしい。河原町の歩道にあった電飾は唐草模様で、幅2メートル、高さ70センチほどの板状で、それが数百も連なっている。歩きながら確認したが、電球の列は二重になっていた。それは唐草をより目立たせるのに効果的だが、1本の線であるLEDの列を用いて表現するには、そうした二重のデザインにする必要がある。この説明はわかりにくいかもしれない。LEDのチューブは最大50メートルまで、1個のコンセントで賄えるが、これは、唐草模様が何本かの途切れた線でデザインされるならば、その線の数に応じたコンセントが必要だ。その無駄を回避するためには、唐草を二重にして、一筆書きの方法でデザインする必要がある。そのため、唐草模様の中心線の、ちょうど2倍の長さのLEDのチューブが必要だ。つまり、筆者がマニマン像を同じチューブで作るならば、10メートル買うとして、その半分の5メートルで描けるような寸法にする必要がある。下書きをしていないが、これは高さ3、40センチの像が作れるのではないだろうか。そのすべての輪郭線が二重になって光るという寸法で、これなら100個に数個点灯せずともいいかなと思わないでもない。だが、河原町の電飾唐草はどの電球も光っていて、中国製ではないのだろう。それに、はっきりとはわからなかったが、透明なチューブに電球が入っておらず、プラスティックの唐草の骨組みに電球が裸で組み込まれていたように思う。特注品であるからそれくらいのことは出来る。来年こそは電飾マニマンをと思うが、12月になれば毎年同じように忙しいとつぶやいていて、結局実行しなくなる。だが、今年は観察も調査もし、情報を蓄えた。この調子では実行はたやすいとも感じる。
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 クリスマスのイルミネーションで思い出すのは神戸のルミナリエだが、実際はクリスマス前に早々と終わってしまう。今年は見に行かなかったが、最終日は雨で、去年より30万人少なかったことを読んだ。多少飽きられていることも理由ではないか。ルミナリエは見なかったが、数日前、太秦にあるスーパー銭湯に連れて行ってもらった帰り、足を延ばして五条通りの有名な電飾を見に行った。車の中から見ただけだが、想像以上に立派で、大勢の人が来ていて、車がなかなか前に進まなかった。ロームという会社が自社前で始めたのが、年々規模が大きくなり、近くの公園などにも広がっている。だが、五条通りを走る車がそれに見とれて交通渋滞を起こすので、五条通り沿いはかなり縮小されたそうだ。10数メートルの背の高い木の枝一本ずつに電球を這わせていて、その設置と後片づけの費用は、電気代の何倍も要するだろう。光の色は白熱球ばかりで、赤や緑はほんの少しだ。それがまたいい。家庭の電飾ではよく七色を使っているが、シンプルで明るいことが基本ではないだろうか。そう思うので、マニマン像は赤や緑であってはならない。ともかく、クリスマスはケーキで祝うといったことが以前に比べるとかなり廃れ、その分電飾が盛んになった。ケーキはいつでも食べられるし、またクリスマスのそれは大きなパン会社が作るものが多く、おいしくないということが定評になったからでもあるだろう。おいしいものを少し食べた方がいいというように考えが変わって来たのだ。そうなると家庭での電飾も、レディメイドのオブジェを買わず、自分で作るということに時代が進みそうだ。小学校の図画工作の授業で作るのもいい。そうした作り方を紹介したページはまだほとんどないのは、電気製品という観念が強く、加工することに抵抗があるからだろう。それに似たことでもないが、昨日郵便局で見かけたのが、レンティキュラーで作ったはがきが何種類も販売されていたことだ。キティちゃんの絵柄ばかりだが、品切れになっているものに、渡月橋を背後にして、川岸に人力車を引くキティちゃんを合成した写真があった。背景の橋は動かないが、キティちゃんが3種ほどの角度で動く。1枚450円だったか、かなり高価に思えるが、特殊なものなのでその程度はするのだろう。
●渡月橋とイルミネーション_d0053294_1295067.jpg このレンティキュラーでマニマン像を動かしたいと、ブログを始めた頃から思っている。レンティキュラー・レンズを買い、自分でそれ用の写真を印刷すれば手作り出来るが、そういうことも今後は図画工作の授業に取り入れて行くといい。それは写真やレンズの仕組み、そしてパソコンの操作、また工作としての手先の器用さも要求され、完成させるまでに多くのことを学ぶ。学校での授業は、そうした総合的なことを通じて子どもたちに興味を抱かせるに限る。だが、現実的には先生となるべき人材にそうした考えを持つ人が少なく、また教育委員会もそうであろう。昔と同じように同じことをなるべく教えていればよいという考えだ。そこにも一理あるが、子どもの関心を引き出しながら、単にゲームをして受け身的に遊ぶというのではなしに、何かを自分で作るという考えを育てることが重要だ。筆者が知らないだけで、すでにそういう授業が盛んに行なわれているのかもしれない。それに、大事なことは自分で何かを調べたり、行動したりすることであって、それは現在の授業で充分達せられるとも言える。問題は家庭にあるのかもしれない。それに、手作りはどことなくしみったれていて、お金さえだせばブランドの商品が買えるという意識が強くなった。品物の本質はすべてその価格で計られるようになった。何だか昨日書いたことと同じ結論になってしまいそうだ。そのせいでもないが、昨日の続きを書くと、附属博物館を出た後、いつも行くスーパーに向かった。いつもとは全く違った道だが、自転車でたまに走るところだ。その辺りは20年前は田畑が広がっていたのに、今では田畑はわずかになって、新しい家並みが出来た。ふと空を見ると、パンのような形の雲がひとつ浮かんでいて、地平線辺りの雲は太陽の光で輝いていた。すかさず写真を撮ろうとしながら角度を選んだ。そして2枚撮った。今日はその1枚を掲げる。なかなか気に入っている写真で、どこにでもある平凡な風景が、一瞬輝くことを思う。写真の面白さはそんな瞬間をすかさず捉えるところにあるだろう。
by uuuzen | 2010-12-25 12:10 | ●新・嵐山だより
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