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●『郷土文化をつたえる-面-』
面の写真を、エル・アナツイ展を見た後、みんぱくの常設展示館で2枚撮った。理由はふたつある。ひとつは今日取り上げる展覧会の案内はがきに、同じような仮面の写真がいくつか印刷されていたことを思い出したためだ。



●『郷土文化をつたえる-面-』_d0053294_20475246.jpgもうひとつは、3年前にこのブログで「チベット鉄道と観光」と題して書いた時、その最後にシュマイサーのチベットの仮面を並べて描いた版画の写真を掲げたことと関連させようと思ったからだ。この2番目の理由には別の思いが反映している。この段落の下に掲げる写真からわかるように、みんぱくのチベットの仮面を展示する壁面の中央下には、チベット寺院のモノクロ写真が置かれている。仮面とこの写真は20数年前からそのまま変わらないはずだ。20数年前、ある女性とみんぱくを訪れた時、館内は写真撮影が自由であることもあって、筆者は彼女をその寺院の写真の前にしゃがませて仮面と一緒に撮影した。女性の笑顔と仮面が面白い対照をなすと考えたのだが、それとは別に筆者は昔から仮面が好きで、チベットの仮面にも関心があった。女性と一緒に撮ったその当時の写真はアルバムのどこかに貼ってあるはずだが、記憶を頼りに、彼女の姿がない状態で同じ角度で撮った。やや暗く写っているのは、館内に光源が乏しいせいで、これは昔と同じだ。シュマイサーのチベットの仮面を描いた版画を買ったのは、そのみんぱくでの思い出があったこともあるが、同じ80年代半ばだったろうか、シュマイサーがカメラマンと一緒にチベットを訪れ、その成果を分厚くて大きな写真と銅版画集として出版し、その紹介を兼ねた展覧会を当時ドイツ文化センターで見て、シュマイサーのチベット作品がほしいと思ったことにもよる。平安画廊は長らくシュマイサーの大量の作品を置いていて、それらをもうすぐ返却するという時期に、筆者は全部見せてもらって何枚かまとめて買った。その中の1枚がチベットの仮面であった。以前に書いたように、残念ながらわが家は壁面の全部を本やCDなどで塞いでいるので、その版画を飾る場所がない。たまにひっぱり出して眺めるが、そのことはみんぱくで20数年前と変らぬ状態で展示されている仮面を見る度合いより少ない。ともかく、筆者にとってチベットの仮面はその女性やまたシュマイサーの思い出とつながっている。そして、みんぱくで昔と同じ状態で仮面が展示されていることがうれしい。何でもすぐに変化してしまう時代に、何十年経っても同じままというものがあることは必要ではないか。フィレンツェに行った時、現地の人が同じことを自慢げに言っていた。「数十年経って訪れても町は同じたたずまいですよ。」
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 筆者が仮面を意識した最初は、近所の家の壁に飾ってあった大きなえべっさんだ。このことについても以前に書いた。3,4歳頃の記憶だが、その面はかなり不気味であった。郷土玩具に多少の関心を抱くようになったのは、まだ8、9年前のことだが、それ以前にも意識せずに、それなりに関心があった。先のえべっさんに続いて興味を持ったのは、小学3年生頃の図画工作の授業で新聞紙を貼り重ねて仮面を作ったことだ。粘土で土台を作り、その上に紙を何度も水糊で貼り合わせて行く。そして、剥がした後、絵具で彩色した。その作業はとても楽しかった。今でも小学生の思い出の中で最もいいもののひとつになっている。その授業が意義深かったのは、物作りの段取り、工程だ。いくつもの手順を踏めば確実に形のあるもの、望むものを作り得る。それはお金を出して既製品を買うこととは天地の開きがある。どんなものでもしかるべき手順を踏めば作り上げることが出来るということを、その授業が筆者に教えた。息子を見ていると、何をどうすればいいかさっぱりわからないという顔をして生きているが、それは子どもの頃から小遣いを無条件でもらい、それで好きなものを買うという生活ばかりをしたからではないか。そのため、こうすればこうなるという想像力が減退し、ゼロの状態から自分で何かを作り上げて行くことが思いもよらない。だが、そんな世代は筆者以降どんどん増えたのではないか。筆者の染色の個展会場に妹が中学生の娘を連れてやって来た時、妹は、娘がどのようにしてこんな作品が出来るのかさっぱりわからないと言っていると話した。工程を説明しても理解出来ないから、具体的なことは何も言ってやらなかったが、筆者は姪が未知の何かに遭遇して驚いている様子を見て満足であった。その姪は結局造形方面には進まなかったが、こうすればこうなる、あるいは何かになりたいためには今これをしておくべきといった、物事の段取りをしっかりと学んだようだ。小学生の図画工作は、受験にはほとんど何の関係もないものように軽んじられているが、実は人生で最も大切なことを学ぶ時間でもある。それは真っ白なところから、自分の手と目で好きな何かを構築して行く作業を学ぶ場で、想像力が創造を育む。音楽の授業も実は小学生の頃から作曲を教えるべきだが、その方法論が発見されていない。
 小学校で作った紙の仮面はどんな色合いで、どういう形のものを作ったのかほとんど記憶にない。完成したものよりも、その製作過程が面白かったのだ。これはその頃から筆者に、ほとんど職人気質が芽生えていたことを示すだろう。自分の手を汚して物を作ることが嫌いな子は、作られた物を扱う商人になるかもしれない。それはそれで重要なことであるし、むしろそっちの方が頭がいるとばかりに、世間では商人は職人の何倍、何十倍もの収入を得ることが当然とされている。お互いがお互いの仕事がうまく出来ないのであれば、世間的にはお互いが対等であるべきはずなのに、職人はたいていさげすまれ、あるいは仮に人間国宝にまつり上げられても、住む家は小さなボロ家で、その職人の商品を扱う商人の家が大邸宅というのが現実だ。また、お金に頓着しないからこそ、その職人の作るものは純粋さを秘めるとも言われるが、そんな状態に甘んじる職人がこれから若い世代に出て来るのだろうか。そうした職人もさまざまだが、郷土玩具を作る人は、ほとんど最低限の生活を維持するのがせいいっぱいではないだろうか。また、郷土玩具がブームであった昭和30年代はまだよかったが、今では廃絶したものの方が多いだろう。子どもが楽しむ仮面は、縁日の露店で売られるプラスティック製に変わり、節分の豆についているものは印刷の大量生産で日本中同じだ。郷土の特色が稀薄になったと同時に、郷土玩具は時代遅れになり、携わる人も減った。そして消耗品であったかつての郷土玩具は、収集家によって集められたものが、各地でまとまって展示される時代になった。博物館入りしたということは、それはすでに剥製と同じものになったことを示す。それはそれであり、また郷土意識がなくなったと同時に、郷土玩具に代わって子供たちを喜ばせる玩具が登場して来た。そう言えば、筆者が3,4歳の頃、動くロボットを買ってもらったことがある。その次にはピストルに興味を持った。そうした昭和30年代初頭のおもちゃは、郷土玩具とは別の扱いで、それなりに郷愁を誘うものとみなされ、収集家が後を断たない。筆者はそうしたものは眼中になく、それ以前からある郷土玩具に関心がるのは、やはり手づくりしたものであるからだろう。そして、自分が職人気質で、しかも実際手づくりすることを職業としているからだ。それは郷土玩具のような素朴なものではないが、素朴なものには尊敬を抱く。筆者には伝えるべき郷土はないが、そうした場所や家柄に生まれていたならば、その伝統を伝える作者になったかもしれない。
京都の嵯峨芸術大学は今年創立40年らしい。10数年になるか、以前は嵯峨美と短く呼んで、大半の学生が女子の短大であった。その正門の奥にある塔が、わが家の3階から遠く、桂川bの向こうに見えたが、名前が変わってから、その文字の位置も変わったのか、そう言えば3階から目につかなくなった。それに昔は、阪急松尾駅で降りて、松尾橋をわたり、罧原堤を20分ほど歩いて通う学生が目についたが、数年前からか、送迎バスが1日中何度も往復し、みんなそれを利用するようになった。4年生の大学であるから、それくらいのサービスはすべきということになったのだろう。まさに学生さまさまであり、京都にいくつかある芸術系の大学では、その奪い合いになっている。少子化であるから、学生ひとり当たりに費やす教育費が増え、その分大学は儲けとなって、校舎ばかりが異様に立派になる。中身もそうであったほしいが、絵が好きで入ったのに、さっぱり描かないという話をよく聞く。文化が爛熟して芸術が栄えるのはどの時代のどの国で同じことなのかもしれないが、こうも芸術大学が出来ると、卒業した後の就職も大変で、その方面ではなかなか食べて行くことは出来ない。どっちみち大学は暇つぶしの期間であるから、それでいいのだろう。嵯峨美の隣は、集配する西郵便局で、ここにはたまに行く。その郵便局の玄関のすぐ隣が、大学附属博物館となっている。オープンは数年前だ。確か開館記念の郷土玩具展を見に行った。その時、芳名帳に住所氏名を書いておいたためか、先日案内はがきが届いた。この博物館には郷土玩具が2000点ほどあって、それらは大半が寄贈になったものだと思う。40年の歴史しかない大学であるので、郷土玩具を集めるとしても、誰かが昔から持っていたものを譲りうける方が早い。と言うより、そんれしか方法がない。あるいは競売に出たものを買うかだが、そんな手間なことを担当する先生がいるだろうか。それより手っ取り早いのは、誰かが収集したものを、たまに展示するという契約を交わして無償で受け取ることだ。そうした代表が朏コレクションだ。だが、郷土玩具は安価なものだけに数が多く、展示するには場所を取り過ぎるうえ、また芸術とはみなされにくいから、展示してもごく一部の好事家だけが見る。それに、学生にそうしたものを見せるのはいいことだが、学生は郷土玩具作家になるつもりはさらさらないであろうから、心にどれほど留めることか。
 みんぱくに行った2日後に出かけた。小雨が降っていたので、自転車に乗らず、カメラ持参で徒歩で行くことにした。渡月橋をわたり、罧原堤を行かずに、三条通りを進んだ。そして右手に入って西郵便局の前に出る。学生の帰宅時間に当たっていた。数年ぶりなのできょろきょろしたが、学生は変なおっさんが入って来たとは気に留める様子もない。博物館の出入り口の位置を思い出して踵を返したが、中には誰もいない。学生は休憩時間にでも見るだろうか。あまりそのような様子はないように見える。興味のないものには目を閉ざす。それでいいのかもしれない。何にでも興味を抱くことは出来ない。郷土玩具といった忘れ去られたものに関心を持たない分、筆者が想像出来ないような新しい何かに貪欲に向かっているだろう。最近ある古本屋の主を話をした。その時、筆者は昔のように古書店巡りをあまりしなくなったと言った。すると、主は、そういう状態では書くものに影響すると言った。それはもっともだ。だが、筆者が古書店に頻繁に行かなくなった分、ネットで珍しい本に出会えていることも確かで、一概に古書店巡りのみが、人間の知識や知性を高めるのに役立つとは言えない。それに、筆者はどこか人を侮った主の態度がどことなく気に食わなかった。古書店主はたくさんの本を知っていることが大切だが、知ることには限界がある。たとえばの話、その店では、店の面積もあるだろうが、仏教関係や音楽関係の本、また江戸時代の版本は皆無であった。筆者が面白いと思う古本屋は、主が価値を知らずに安く売っている本が置いてある場合だ。あるいは価値を知りながら、あえてそうしている場合だ。買う方にとってはそれが掘り出しものとなって、また足を運ぶ気になる。造形的なことでも同じで、あらゆるものをくまなく知ることは無理だ。何か偏りが生ずる。そして、それでいい。郷土玩具に詳しくなくても、郷土玩具というものが存在し、どういう色や形をしているものか、おおよそ知っておればよい。そのことがいつか何かの拍子に蘇り、熱中する時期が来ないとも限らない。筆者がそうであった。そして、筆者は熱心な収集家ではないし、ある郷土玩具を見てもそれをただちにどこで作られたか言い当てることはとても出来ない。またその必要はないと思っている。それに、郷土玩具好きとはいっても、すっかり魅了され、それを手元に置きたいと思う場合は稀だ。その意味で言えば、今回の展示には、ほしいと思うものがなかった。
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博物館は100平米程度だろうか。1階のワン・フロアだ。その四方の壁面(ただし出入り口を除く)と、中央の大きなガラスケースを使った、120点ほどの館蔵品の展示であった。仮面が中心で、もらって来た作品リストによると、ほとんど関西のもの、関東は千葉の大黒夷、河童、狐、鬼、宮城のひょっとことおかめ、天狗などがあるのみだ。関西は京都が最も多く、他に兵庫、大阪、奈良、三重、高知、愛媛、島根、鳥取、岡山、福岡、そのほか愛知や富山のものもあるが、日本全県ではない。これは現実を体現しているかどうか知らない。郷土玩具の盛んなところとそうでないところ、またかつて盛んであってもその後廃れた場合もあるので、芸術家の作品のように、正確な製作年代がわからない。また、その必要がないほどに、同じものを何代にもわたって踏襲しようとする。興味深かったのは、先に書いた朏コレクションの朏腱之助氏が、廃業する寸前の駄菓子屋でまとめて買った玩具で、それを氏は関心のある人に配っていたそうだ。その袋には氏の名前と、そして自分の収集を示す屋号のような名前が木版で刷られていて、そこから、氏が生駒に住んでいたことを知った。大阪の人かとは思っていたが、生駒となると、奈良かもしれない。ともかく、氏が郷土玩具に関心を抱いていた頃に、各地にあった懐かしい玩具を扱う店が次々と閉店していたことがわかる。いつの時代でも時代遅れになって閉店するところがあるので、今のうちに保管しておかねば失われると思えるものには真っ先に目をつけておくべきで、収集家はそういうことに敏感だ。そのようにして郷土玩具は比較的まとまった収集が多く、またそれらを紹介する本も少なくない。今回、図録は作られなかった。また、郷土玩具の本にも紹介されないものが多いのではないだろうか。郷土玩具は、同じものでもそれぞれの代でわずかに形や色に差があって、収集に凝ればそれら全部の代の作を集めることになるが、そういう体系的な収集品が展示されたり、また本で紹介されることはほとんどない。その意味からは、まだまだ研究すべきことが多く、収集が徹底される必要があるが、収集家がなくなればそれらは散逸する場合がほとんどだ。その欠点を補うのがネットの威力だが、ネットは比較的若い世代が利用し、郷土玩具に関心のある古い世代は画像を画面に載せる方法を知らないだろう。もう7,8年前になるが、総合資料館の朏コレクションをネットで全部公開すればどうかと学芸員に話をしたことがある。とてもその手間がかけられないという返事であったが、その後わずかにそのことが実行された。若い世代に関心を持ってもらうには、実物の展示の機会を多く持つこととともに、画像を公開して目に触れやすくすることだ。
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 みんぱくは郷土玩具も集めているようで、仮面は常設展示で見られる。2枚撮った写真の1枚はそういうものだ。最上段に幼い筆者が不気味に思ったえべっさんが大黒と並ぶ。その下の段は紙製で、これは今回も展示された太秦の牛祭りでかぶる面だ。この祭りは夜に行なわれるが、20年ほど前に復活したと聞いた。その後どうなっているか知らない。人が乗る牛と、紙の仮面をの作り手が必要で、そこが難しいのではないだろうか。なお、今回の案内はがき下右端の紙製の仮面は、京都の梨木神社の鬼で、これももう作られていないはずだ。同じような紙の仮面は吉田神社の節分でも売られたが、これも今はない。京都はさすがさまざまな仮面が多く、また造形的にも洗練されている。鳥取の因幡の白兎仮面はまるでキティちゃんそっくりで、日本のさまざまなキャラクターがこうした郷土の仮面に多少なりともルーツを持っていることがわかる。さて、附属博物館を出た時、空は晴れていた。そのため、出入り口脇の傘立てにおいたビニール傘を忘れて帰った。帰宅後に気づいたが、安物なので取りに行かないことにした。その傘は、以前話題にしたが、スーパーで取り替えられたパチンコ屋のマークが入ったものだ。わらしべ長者の正反対で、筆者は傘を粗悪なものに変えられ、そしてついに自分で失った。館内は撮影禁止であったので、出入り口の写真を帰りがけに撮ったが、傘立てにその傘が映っている。この博物館は普段は何を展示しているのか、もっと宣伝してほしい。散歩がてらに行くにはちょうどいい。下の写真は学校の正門右を写している。丸い宇宙船のような建物は10数年前に建った。その奥に附属博物館がある。空に電線があまりに多いことに驚く。これは芸術的とは言いかねる。この大学は嵐山での行事に使う紙と竹を使った照明を20年ほど前から学生が作っている。地元にすれば、せっかく美大がすぐ近くにあるからには、それに援助を乞わないことはないと思ったのであろう。
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by uuuzen | 2010-12-24 20:50 | ●展覧会SOON評SO ON
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