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●観峰美術館
筆で書くべきところを、息子が、サインペンがないかと騒いでいた。昨日、息子が友人の結婚式に出るため、祝儀袋に名前を書く時のことだ。サインペンとは情けない話だが、それは今では半ばあたりまえになっている。



それに、冠婚葬祭のそうした場では、ほとんど大人の字と言えない不細工なものがあったりするが、それを恥とは思わない時代になっている。筆者が小中学校の時は習字の時間が必修であった。それに当時の先生はみな見事な字を書いた。特に個性的な字は筆者の憧れでもあって、家でその字を真似して書いたことがある。それがここ数年は、字を書くのは年賀状くらいなもので、さっぱり手が思うように動かない。習字は一部の人だけのものになったかと思えば、そうではなく、実際は習字ブームと言ってよいのではないだろうか。路上ミュージシャンと同じように、路上で自筆のちょっとした言葉を色紙やはがき大の紙に書いて道行く人に売る若者や、またTVでは同じように若い書道家が何人も出て顔を売っている。先日はたとえば「SEA」という3文字を「海」に構成して、漢字をその意味の英語で毛筆によって表現するという書道家をTVで見たが、もう何でもありの状態で、書道がイラストや漫画と同じ世界になっている。「SEA」を「海」のように組み立てて書く行為は、双方の言葉に源流的には何の関係もないし、また字画や筆順からしてもあまりに強引で、全くの冗談行為と言ってよいが、それを歓迎する人がいるから充分商売として成立し、またその女性は有名人であるらしかった。そうした書道から、毛筆に関心を持つ人がいるだろうか。まず皆無に近いと思うが、書道が面白いもので、誰でも簡単に踏み入れることの出来るものであることを示すにはよい。字はまず自分の手で書かなくては話にならないからだ。また、「あんなもの、自分でも簡単に出来る」と思わせる場合も多いだろうし、その意味でも存在価値がある。また、そうしたおもしろ書道も、元は多少なりともきちんとした習字から入ったはずで、書道の根本が脅かされることはない。だが、伝統的な書道はいつまでも手本どおりに書く練習の積み重ねであって、そこに面白味を感じない若者がいるのはごく当然のことだ。今の若者は昔のように我慢強くない。我慢を数十年重ねて、ようやくその狭い世界でのちょっとは知られる人になるという我慢はアホらしくてとても出来ない。わずか数年でTVに出て有名になり、お金も稼ぐというのが、才能を持った者がすることであり、伝統的書道だけに埋没する書道家など、ただの能なしに見えるだろう。そうした思いによる生き方がそれなりに認められるほどに、今は何でも最初にした者勝ちというところがあって、またTV界には書のわかる人間がいるはずもない。見栄えがよく、視聴率の稼げる者であれば、どんなゲテモノでも歓迎という考えだ。かくて、今のTVに出る者はそれなりの才能はみな持っているが、ゲテモノだらけで、流行の変化によって簡単に忘れ去られる。それはある意味では正しい姿だ。TVとはもともとそんな庶民の移ろう気分を瞬時に反映させる任務があると言ってよい。その使い捨ての部分の膨大な積み重ねから、やがて何か遺産となるようなものがおぼろげに見えて来るだろう。ともかく、地味で地道にやっている存在はTV向きではなく、書道は今までその地味な印象によってTVではほとんど番組が組まれたことがないから、今の若者のおもしろ書道が盛んに話題になるのは、その穴を埋めているところがある。
 筆者は近年書の面白さに割合開眼していて、過去のいろんな人の書に目が行き、また作品を買う。たいていそれらは禅僧のもので、また明治までのものだ。絵は字よりその人柄を表わすと言えるが、案外そうでもなく、字は字でその人でしかあり得ないものを的確に表現する。その意味で、字は自分が丸裸になったことを晒すので、筆者は近年あまり字を人に向かって書かないようにしたいと思っている。電子メールであればその心配はないのでいいが、そうなるといざと言う時にろくな字にはならないので、パソコンでこうした文章を毎日書くことにも大きな欠点がある。全く人間は何かひとつ新しいものを得ると、その一方で何かを失うのであって、便利なことだけ喧伝されることには常に注意しておいた方がよい。その意味からすれば、進歩などあり得ず、ただ変化しただけと捉える方がよい。今年も年賀状を書く季節になったが、宛名書きは自筆にしているので、その下手さ加減を晒すことになるかと思うと少々気が重い。これを逃れるためには、電子メールに頼らず、毎日文字を書くことだが、10年ほど前はそれを盛んにやったのに、すっかり習慣が変わってしまった。筆者ですらそうであるので、息子が祝儀袋にサインペンで書こうとするのはあたりまえだ。息子のまるで小学生のような筆跡を見ると暗澹たる気分になるが、それほど字はその人柄を示すもので、習字の持つ意味はきわめて大きい。それは字をうまく書くという末端的なことが目的ではない。いくら時代がパソコン中心になっても、いざという時には自筆の出番があり、その時に自分の丸裸を人は晒す。その裸が見事であれば、みんなほれぼれとするのであって、たとえば筆者は眼前に絶世の美女がいて、その彼女の字が見るも無残であれば、そのまま背を向けてすごすごと去るだろう。男でも同じで、相手がつまらない字を書いていると、それでその人格を判断してしまう。この人はこんな下手な字を書いても平気な人としか付き合って来なかったのだなというわけだ。こうした筆者の見方を理解出来ない人は多いかもしれない。だが、世間は広く、字ひとつでその丸裸になったその人格が判断されてしまうのもまた事実なのだ。また、うまいか下手かは、心がけひとつというところもある。いくら習字の練習をしてもいっこうにうまくならない人はあるが、それでも懸命に努力したことは字に反映するので、手本に近いような字ではなくても、味のある字になったりする。そこが習字のいいところで、とにかく自分の行動を客観視するには習字は最も簡便で役に立つ。「習字なんかどうでもいい、今はパソコンであらゆる書体があって、自分で書く必要はないから」と言う人はきっと多いが、そうした人はそうした人と話が合うだけのことで、それ以外の世界があることを知らず人生を終える。ただそれだけのことであるから、別段何事も問題はない。
●観峰美術館_d0053294_139119.jpg

 さて、「関西文化の日」に出かけたあちこちの展覧会を報告するシリーズ、今日は堂本印象美術館で金島桂華展を見た後に出かけた原田観峰の美術館だ。この美術館での展覧会に関しては以前に何か取り上げた。この美術館は平安神宮のすぐ東にあって、近くに国立近代美術館と市立美術館が近いこともあって、ついでに足を延ばすにはよい。和風の2階建てで、門を入ると仁王の古い石仏がある。いつの時代でどこのものかはわからないが、無鄰菴の門を入ったところにあった仁王と見比べて、屋敷にはこうしたものが似合うなと今さらに感じる。内部の撮影が許可されないのが惜しいが、いくたびに少しずつ改装されているように感じる。たとえば1階奥には、ワークショップの場所が出来て、そこでは習字の練習が出来るようだ。ただし、別料金は必要だ。どういう人が教えるのか知らないが、そう言えば館長がどういう人か、それも知らない。また、館内は受付けに女性がひとりいるだけで、他は人影がなく、その静けさがかえって薄気味悪いとも感じる瞬間がある。その意味でとても美術館らしくない。また、金持ちの邸宅のような雰囲気があるところがよい。めったにそういう場所に踏み入れることがないからだ。それに、筆者が行く時はいつも貸し切り状態で、誰もいない2階の広々としたいくつかの畳を敷いた部屋をたっぷり味わうのは贅沢な気分だ。そのような屋敷は田舎に行けばまだ多いだろうが、京都の岡崎となるともう少ないのではないだろうか。そこで思うのは、この美術館がそんな微々たる入場者数でどうして経営が成り立っているのかという疑問だ。いつもそれを思ってしまう。「関西文化の日」にはアボリジニ絵画展をやっていたが、それらの作品は同館の収蔵らしく、そのような作品を購入するほど資金があることもまた不思議だ。それはいいとして、当日は筆者を含めて10名ほどが入っていた。みんな無料公開を知っているのだ。そうしてでも、館の存在を知ってもらうことはいい。こうも美術館が多い時代となり、また楽しむ事柄に不足しないでは、宣伝がよほど行き届かないと、人は会場に足を運ばない。観峰美術館の企画展はいつもチラシを作っているから、それなりに宣伝はしているが、知名度は決して高くないだろう。それは地味な書道という理由が大きい。原田観峰は仙人のような風貌をした書道家で、同館で上映されるビデオでその書きぶりや表情、話し方を知ることが出来るし、また作品も展示されている。映像で感じる観峰の人柄と、その書が合致しているかどうかだが、両方を見比べながら、お互いを添わせるように思いを修正するところがあって、今では筆者の思いは安定している。それは過激な個性派ではなく、穏和で人柄のよさといったものだが、習字の手本どおりに書くような味気ない人格とは大いに違う。そこが書の面白いところで、観峰には観峰らしさが明確にある。だが、筆者はその書を手元に置きたいとは思わない。禅僧のもっと個性的な書をいくらでも知っているからだ。だが、世の中には禅僧の書だけがあっていいというものではない。そうしたものの中にも時に書き散らして見るに絶えないものが混じるし、また子どもが最初に禅僧の書ばかり見てそれを真似するのも困ったことだ。最初はまず基本からであり、そうした時に何らかの指針がいる。その指針は中国の昔の大家の手本にいくらでもありそうだが、子ども相手に最初からそんな字を書かせることは無謀であるから、現代的にもっとわかりやすい手本を用意しなければならない。そうした手本の書き手は、中国の歴代の書道家の作風をよく知り、なおかつそのうえに自分の個性を持った人でなければならず、その代表のひとりが観峰であったということだ。
●観峰美術館_d0053294_131011.jpg

 観峰の経歴に詳しくないが、義務教育に習字の時間がまだあった(今もあるのかどうか知らない)筆者の子どもの頃に活躍したようで、習字の連盟のようなものを作った。その結果かどうか知らないが、今は美術館となっている土地建物を入手出来たのだろう。これは経営能力に長けていたことでもあって、現在TVをにぎわす若手のおもしろ書道家とある意味では通ずる。また、京都では森田子龍に代表されるように、前衛書道が60年代には大きなブームになったことを思い出す。京都のそうした書道の幅広い伝統は石川九楊につながっているが、一方で観峰のようないわばごくあたりまえの、伝統的な書を伝える人がいたのも当然で、むしろそうした正統派があってこそ前衛も花開いた。これは書に限らず、工芸も絵画もみなそうだ。京都には常にふたつのそうした流れがあったし、今後もそうだろう。前衛が出て来るには、それが出てもびくともしない伝統がある必要がある。そう思うと、森田子龍がいくら有名であったからといって、その家が観峰美術館のように大きく、また美術館として公開されていないことに合点も行く。その前衛が伝統となるには、その前衛を引き継いで開花させる別の才能のつながりが連綿として必要だが、前衛同士はだいたい交流がないから、一発屋で終わる。まして地味な書道となればなおさらだ。そして、今はそうした伝統と前衛の隙間を縫って、全く新しい、想像を絶した若手のおもしろ書道家が軽々とTVで顔を売る。そしてこれまたどの分野でも同じで、おもしろ茶道家、おもしろ華道家、しまいにはおもしろ漫画家、おもしろ漫才家といったものが出現するはずで、すでにそうなっている。そこで思うのは、たとえばザッパの音楽だ。今の若者にとって、そうしたロックはもう大きな関心事ではなくなっており、コンピュータ・ゲームをしている方が楽しいということになっている。時代によって新しい文化が生まれ、それがまたいずれ飽きられれば別の文化の担い手が登場する。その過程で伝統的遺産は限りなく改変され、また誤解もされるが、それでもまだ顧みられるだけましと言える。伝統を継ぐ者がわずかでも絶えないのは事実としても、背に腹は代えられないから、より斬新な何かが生まれれば、それに多少でもなびく必要は生じ、それが大きくなると、いずれ伝統そのものが全く変貌し切る。そのうち、今の若手のおもしろ書道家が、自分は王義之の書風を継いでいるなどと宣伝して、他のおもしろ書道家とは違うというスノッブぶりで売ろうとするだろう。そして、その声が大きく支持されると、評論家の中にはその片棒をかつぐ者が現われる。言った者勝ちの世の中であるから、みんな華々しく目立つことを願っているのだ。そんな世の中に観峰美術館があることは、ひとつの奇跡に思えたりもするが、それほどの伝統的な習字、書道は不滅ということか。それはいいことではないか。そして、もっと習字で伝統の何かを本当に示す才能があってよい。堂本印象美術館には喫茶室はないが、観峰美術館は隣接して洒落た喫茶店が用意されている。それも私設美術館であるから可能となったことだろう。金の力は大きい。
by uuuzen | 2010-12-13 13:10 | ●展覧会SOON評SO ON
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