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●嵐山駅前の変化、その70(売店、広場)
ですっかり取り囲まれ、トラックの出入り口に旗も立った。阪急嵐山駅前のホテル建設現場、これで本格的な建設の用意が整った。今日掲載する写真は6月30日のものだ。



この日はホテルの起工式があって、筆者は地元自治会の代表として出席した。その直前に撮影した写真を今日ともう1回掲載し、その次に起工式の様子について書く予定でいる。そして、この6月30日を区切りとして、また「おにおにっ記フィナーレ」を再開する。それが終わればさらに今年7月以降の阪急嵐山駅前の変化を続けるが、「おにおにっ記」に代わるシリーズをいまだに思いつくことが出来ずにいる。毎日長文を書くのは面倒であるし、また最初の一文字を繰り返さない決まりを守ることも同じなので、その意味で「おにおにっ記」は便利なシリーズなのだが、散歩中に遭遇したちょっとしたことばかりを続けても退屈であるので、切りのいいところで終えるに限る。また、駅前変化シリーズは、駅前の変化の写真を掲載しながら、それとはほぼ無関係の日記となっているので、題名を見てそれを期待して読む人は肩透かしを食らうが、写真を見れば状況の大半はわかるから、あまり写真の説明はしないでおく。そのため、こうして書く内容は投稿当日の心に思いつくままの即興の散らし文で、それはそれで筆者の内面を反映するだろう。忙しい日常にどうでもいい他人の日記的戯言が歓迎されるはずはなく、筆者は何も期待しないで毎日こうして書き散らしているが、「おにおにっ記」だけは、まとめて印刷するか、別の何かに書き移して豆本のようなものが作れないかと考え、以前豆本作家に出会って、その可能性を吟味したこともある。またそのためでもないが、PDFファイルについて少し勉強しようかと思いながら、筆者のボロ・パソコンではそれがうまく作動せず、さてどうしたものかと考えもしている。とっくに書き終えている「おにおにっ記」の、その後それに含めるべきネタが新たに見つかりもしているので、番外編としてそれを随時掲載するのもいいかと思っている。だがそれは実行するとしても「おにおにっ記」が全部終わってからだ。
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 今日掲載する写真を見ながら気づいたが、わずかに以前の写真と映っている部分に差がある。これはカメラが違うためだ。ちょうどこの日だったろうか、もう少し以前からっだたか、Nから昔もらったデジカメではなく、乾電池を4本使用する別のカメラを使うようになった。これなら電池切れを以前のように毎日心配する必要がない。同じように重いカメラだが、すぐに作動するのがいい。以前にも書いたように、そのカメラはパソコンとともに、隣の家を購入した時にそこにあったものだ。筆者はいつまでも他人のお古ばかりを使っている。だが、これも何度も書くように、筆者の使用しているパソコンは性能が悪いため、高画質の画像を取り込んで加工出来ない。そのため、古い性能の劣るデジカメがかえっていい。古い人間であるので古い機器で充分、ついでに考えも古いと来れば、時代から取り残されて誰も顧みないが、そういう古い人間の古い見方があってもいいし、世の中はCOP10ではないが、生物の多様性を重んじなければならない。先日家内がある若者から年齢を指摘され、嘲笑混じりに軽くあしらわれたらしく、その憤懣を帰宅して筆者にぶつけた。礼儀のない者はいつどこでもいるが、若者はいつの時代でも若さを絶対的な価値と思い込み、年配者を見下げる。それでいつも思うことは、年配者を笑う若い連中もすぐに同じ仲間になるということだ。笑っておられるのはほんの一瞬で、すぐに笑われる立場になる。だが、それを若者に言うとまた笑われるから、黙って見ている。若さに絶対的価値があるのは事実として、それだけが人間にとって理想的な状態であれば、人間はなぜそれ以上に年を重ねるのだろう。若いうちにさっさと死ぬように遺伝子が組み込まれていなければおかしいではないか。また一方では昔から長命を願うのは洋の東西を問わないから、人間は若さだけがいいとは思ってもいないだろう。年を重ねるのはごく自然なことなのだ。TVでよく見る芸能人や歌手の中には化物のように年齢を重ねたようには見えない者がよくいる。ほとんど20年前や30年前のままで、それは美容整形をし、化粧をしているからだが、そんな連中はみなどこか軽薄で、とても誉められた人格を持っているようには見えない。これも以前に書いたが、ドイツの映画監督のヴェルナー・ヘルツォークの近年の顔写真を見て驚いた。ふっくらとした老人で、昔とは全く違う顔になっていた。だが、その次にすっかり納得させられ、またその近影が素晴らしいと思えた。そのように年を重ねて自然な貫禄を身につけられるのは、ごくごく限られた人のみで、政治家にはまずおらず、芸能人にもほとんどいない。それは芸術家だけに見られる。筆者はとてもヘルツォークのような風格ある顔になる見込みはないが、そのようになりたいとは思っている。そして、そのようには全然至っていない有名人の老人が日本には何と多いことかとがっかりもするが、そういうことを言うのが、若者からすれば古い人間である証拠なのだろう。
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 話は変わる。ここ2週間ほどだろうか、どういうわけか筆者はビートルズの「シー・セッド・シー・セッド」を毎日思い浮かべ、それを頭の中でアレンジして響きわたらせている。ビートルズの曲の中でも筆者はジョン・レノンの書いたものが好きだ。この曲を初めてラジオで聴いた中学生の頃の感動は今も同じように思い起こすことが出来る。特にそのイントロのギターの音色だ。その曲が収められるアルバム『リヴォルヴァー』は、ビートルズ最良のもので、筆者にとってもベスト5に入る。その曲を初めて聴いた1966年からもう44年経ったが、当時生まれた人がもう44歳だ。その頃、少年老いやすく学なりがたしという言葉をよく耳にし、筆者にはそれがひしひしと迫るような恐怖であった。それは子どもでもすぐに老いるということと、学がなり難いということの二重の意味合いにおいてで、前者は避けようもないが、後者はどうにかなるのではないかと思った。その学とは何かとなると、当時筆者は漠然とではあるが、さまざまな本を読み、人格を高めることだと考えていた。その一方には、テストに執着して点を取るのに合理的な考えと行動をする一群の同級生がいた。これはずっと後年、30代のことだが、筆者の小学生の担任を訪ねたことがあって、そうした点取りに夢中になっていた連中の話になった。担任の先生は彼らをよく覚えていて、筆者の知らないことを語ってくれた。その中に、典型的なサラリーマンの中流家庭の当時の彼らが、いい大学目指して血眼になっていることを冷笑するような言葉があって、筆者は内心喜んだ。それは当時、つまり小学5、6年生の頃に筆者が感じていたことと同じであったからで、筆者のその頃の見方はかなり大人びていたか、あるいはごくまともであったのだ。そうした連中の何人が、母親の望むように有名大学に進学したか知らないが、成績や経済状態で人を見下げるところがあったためにみんなから嫌われていたので、そうなったとしてもその後の人生はたかが知れている。学なり難しの意味を彼らも感じていたとしても、その学とは有名大学に入っていい会社に入り、親より経済的にいい生活をすることが夢だったはずで、試験に関係のない音楽や美術などは最初から無価値で、目を向ける瞬間さえも惜しいと言わんばかりであった。したがって、その2、3年後に筆者がラジオで「シー・セッド・シー・セッド」に心を打たれていることは彼らの想像外であり、またそれはいわば落伍者の好むことでもあったに違いない。いや、それは実際そうであるだろう。ロックを好んで聴くというのは、どこか外れた人間のやることであり、外れた人間のためにロックがあるのではないか。それを外れてもいない人物が知ったかぶりをすることには嫌悪を催す。わかってたまるかという思いだ。そんなことはさておき、筆者の耳にいつでも再生可能な「シー・セッド・シー・セッド」であるので、この2週間、一度もレコードやCDを引っ張り出して聴いていない。聴くまでもないのだ。隅々まで知り尽くし、誰も聴いたことのない特別ヴァージョンを無限に思い浮かべることさえ出来る。
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 来週は思い出の曲についての長文を書く番になっているが、何の曲を取り上げるかは2週間ほど前から決めている。ただし、「シー・セッド・シー・セッド」ではない。ビートルズは最初に取り上げたので、もうその対象ではない。取り上げたい曲は山ほどあるが、月1回では10年でも120曲で、これはごくわずかだ。そのことからも老いやすく学なりがたしと同じようなことを思ってしまう。それでも一歩ずつ進むしかないし、その積み重ねがいつの間にかまとまった量になる。量より質が問題であることは重々承知しているが、質を高めるには量をこなす必要があるのではないか。もちろんその量をこなすその奥に本質的なことを自分の言葉でわかりやすく書くという信念のようなものは欠かせない。一昨日だったか、定年退職したような老齢の人々が、学ぶことが好きで、そうした教室がはやっているらしいことをTVで知った。それは少年老いやすくの言葉を子どもの頃によく聞かされた世代ではないだろうか。今の若者にはそういうことはなく、数十年後の老年はまた今の老人とは違っていると思う。学ぶことが楽しいのはいい。若さを取り戻すことにならないとしても、ボケ防止には多少なるであろうし、今まで気がかりであったことを少しでも減らして心をすっきりとし、残りの人生を穏やかに過ごしたいという思いは理解出来る。そうした老人のうちの幾分かはブログやホームページを通して、若い頃からの趣味について意見を述べている。筆者もその部類ではある。さて、今こうして音楽について書いていて、先日の夢について書き忘れていたことを明瞭に思い出した。目覚めた後でメモり、その時は完全に全部思い出したと思っていたのに、実際はそうではなく、別にもっと印象深い夢を見ていたのだ。それについては詳しく書かないが、中学生の同級生に大人になって会い、しかもこちらから喧嘩をふっかけているのであった。なぜそんな態度に出たかの理由はよくわかっている。その昔の学友から半年に1回ほどある案内状が届くが、いつも筆者の名前が間違っている。筆者は京都に出てから心機一転のつもりで画数がいいように名前を1字変え、そのことをその昔の友人にも伝えたのに、うろ覚えなのだろう。そして昔のままの名前ならまだしも、その常に間違って書かれる名前は、筆者にすれば屈辱的に思える字面で、あまりにひどい。それで、毎回その手紙を送り返してやろうかと思う。だが、そこまですることも面倒だ。筆者がそのように気分を悪くしていることをそいつは全く知らない。そう言えばそんな無神経なところがあった。夢の中でそいつに文句を言って絡むと、そいつは無言で突っ立って、返事が出来ないでいた。筆者は自分がそのように喧嘩をふっかける夢は全くと言っていいほど見ない。なので、きっと最近は筆者に鬱憤が溜まっているのだろう。それはよく自覚しているが、その事情の何から何までここに書くわけには行かない。塀に囲まれた中は、人に見せられない雑然さだ。夢にはその隠された部分が別の形になって出て来ることがある。
by uuuzen | 2010-11-23 09:04 | ●駅前の変化
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