消えた画像を昨夜は探し続け、結局見つからなかった。名古屋に行った時の画像を、先日1時間ほどかけて半数ほど加工したが、どのMO、と言っても3枚しか使っていないが、そのどこにも見つからない。
幸いカメラには元の写真がまだ入っている(確かめていないが)と思うので、もう一度同じ作業をすればいいが、確かに保存したのに、それがいつの間にか消えてしまった。こうなるとMOには保存せず、加工した尻からヤフー・フォトに溜め込むに限る。ところで、このヤフー・フォトというサイトに行くには、ヤフーのトップ画面からアクセス出来ず、いつも検索する始末だ。ヤフーは多くのサービスを提供しているので、トップ画面にそうしたものを書き切れないのかもしれないが、かなり不親切だ。同じように困るのが、ホームページを作るためのジオシティーズというサイトもそうだ。これも毎回検索をかけて、そこで表示される項目をクリックしてアクセスする。こんな馬鹿な話はないと思うが、ヤフーとしては容量を食うヤフー・フォトやホームページ作製ページにはなるべくアクセスしてほしくないからだろう。つまり、あまり使わせないために、あえてわかりにくくしている。それはそうと、ヤフーと契約しているので、筆者はヤフー・フォトを1GBまで利用が可能だ。これは筆者がブログに用意する程度の画像なら、100年分以上に相当する。というのは、今までこのエキサイト・ブログにしても、投稿した画像の容量は40MBに満たず、制限の1GBをいっぱいにするには数十年以上要する計算で、死ぬまで気にせずに済む。話を戻して、名古屋に行った時の話は、最初に見た展覧会のことは先日書いたのでその後の行動を順を追って書こうと思っているので、写真の加工も撮った順にする必要がある。その最初のものが消えてしまったので、今日はまた予定を変更して駅前変化シリーズにするが、今日も出かけてブログ用のネタを得たし、また写真も撮って来た。それは名古屋の話題の後にするつもりでいる。そうした現実の行動のほかに、昨夜は近年稀なほどの鮮明で驚くべき内容の夢を見た。そのことについて今日は歩きながら、またバスに乗っている間、文章に出来ないものかと考え続けた。見ようと思って見た夢ではないから、その夢はひとつの儲けものだ。だが、目覚めている時の思考を左右するその方向性いかんによっては必ずしもいいとばかりは言えない。そう思うと、夢が目覚めている時の思考や行動に影響する点で、現実の幾分かは自分が思ってもみないことに左右されていることになる。そのため、何事も自分の思いどおりになっていると、人は自惚れない方がよい。その最たるものが天災でもあるし、いつ何時どのように予想もつかないそうしたことが襲って来るかわからない。そのミニ版が、たとえば最初に書いた消えた画像で、自分の思いどおりにならず、行動が規制されることはある。
さて、今日掲げるのは6月23日の写真で、駅前の変化は売店の新築とそれに隣接する円形階段の一部撤去だ。阪急嵐山駅前はミニストップというコンビニがある。そことこの駅前の売店しか渡月橋に至るまでちょっとした買い物をする店はない。そういうこともあって、売店が拡張されるようになった。また嵐山公園には以前は大きな屑かごがあったが、世間に爆弾騒ぎが一時流行し時に全部撤去され、ゴミは自分で持って帰るようになった。そう言えば今朝は9時半に集合して自治会内の清掃をした。毎年春と秋に実施するもので、西京区全体の行事だ。軍手と専用のゴミ袋が予め配布され、今朝それを集まった組長や役員に配ったが、チラシを作って配布していても、集まるのは半分ほどの10数人だ。小1時間で作業は終わるが、どこをどのように掃除するかは各自に任し、また駅前の道路を初め、もろ観光地に相当する地区であるために、ほとんど目立つゴミはない。だが、筆者は今回側溝脇に落ちている落ち葉を専門に集め、大きな袋をいっぱいにした。しゃがんで小1時間同じ作業をすると汗だくになる。集合地に行くと、筆者はほとんど最後で、みんな手持ち無沙汰で待っていた。解散を伝えた後、副会長の運転する車でゴミを小学校の前まで持って行くと、すでに他の自治会が大量にゴミを持って来ていた。草やたばこの吸い殻などは一般ゴミ、空き缶空き瓶は資源ゴミとして2種の袋に分けて集めるが、中にはそれを混同している袋もあったりする。袋は印刷の色が緑と茶で、どっちがどっちがとてもわかりにくい。そして、この専用袋は京都市がゴミ用に指定しているものとは違って、春と秋の2日にしか使えないのに、中にはこの袋のあまったのをいいことに、一般ゴミを入れて後日使う人がある。そうした人は自分の家の前に置けばいいものを、いつもとは違う袋であるのが多少気になるのか、わざわざ筆者らの町内まで持ってく来る。そういう行動に遭遇して注意すると、「この袋は市からもらったもので、使えるんでっせ」と逆に食いかかって来るから始末に悪い。それにたくさんあるゴミの中にそれが1袋程度混じっていても、ゴミ収集車は面倒なこともあって、何事もなかったかのようにそのまま積んで行くから、なおのこと、そうしたことをする人が後を断たない。その袋を筆者は2種とも10枚程度持っている。もちろんそのまま使わない。その袋に入れた後、ちゃんとスーパーで買う指定の袋に入れ直す。そのように二重にして使うと烏が突ついても破れにくいし、またゴミ収集車が袋が違うぞと顔をしかめることもない。公共マナーは年配者ほどなっていない。昭和の道徳教育をしっかり学んで来た者ほどそうだ。道徳教育という形ではなく、別の方法で公衆のマナーを教えるべきなのだろう。あるいはどのように教育をやっても同じことか。教育などによって人間が変わると思うことが、人間を駄目にして来たと言っていいかもしれない。