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●嵐山駅前の変化、その65(広場、ホテル)
われてしまったと思っていたが、昨夜改めて調べると筆者の勘違いで、撮った駅前写真に別の日を名前にして保存していたようだ。今日掲げる駅前をパノラマ風に左右に分けて撮った写真のうち、右側が6月21日、左側が22日、そして3枚目のホテル建設現場が同じく22日となっていた。



てっきり21日の左側と22日の右側分が失われたと思っていたが、21日の右と22日の左は雲の形が同じに見える。写真の明るさとまた雲の位置が少し違うが、これは太陽の位置と撮影角度の差によるものだろう。では21日か22日のどちらに撮影したかだが、ホテルの写真が22日となっているので、22日が多く、22日なのだろう。当日の天気を調べるとどちらの日かわかる可能性もあるが、1日違ってもたいしたことではないので、22日としておこう。よくアルツハイマーなどの病気の検査で簡単な図を描かせたり、その検査日が何曜日で何日であるかといった問診をする。そんな場面をTVで見るたびに筆者は不安になる。筆者は何日であるかをここ20年ほどは気にしたことがない。カレンダーをほとんど見ないので、今日が何日かとよく家内に訊ねる。何日であろうが、何曜日であろうがどうでもよいと思っているからだが、これは外に働きに出ている人にとっては許されないことだろう。自治会のあれこれでさすがカレンダーに予定日に丸印をするようにはなっているが、それでも毎日今日は何日で何曜日であるかをまず気にしないから、訊ねられると即答出来ない。それはアルツハイマー病と同じとみなされる恐れがある。何日で何曜日であるかを気にしない割りに、散歩中に変化には敏感で、毎日どんな植物がどのように変化しているかは気になる。そういうのを老境に入ってしかも世間から取り残された状態と言うのだろうが、実際にそうであるから仕方がない。先の21日か22日かわからなくなった写真も、画像を保存する時に「今日は21日だったか、あるいは22日だったか」と迷ったに決まっているが、そうい言えば図書館でコピーする時に申し込み書に日づけを書き込む際も、いつもその日がわからず係員に訊ねる始末だ。そばに係員がいない時には空欄にするか、あるいは適当に書くが、その適当がひどい時は3日ほどもずれている。全く日にちを気にせずに生きているわけで、この呑気さと言おうか、あるいは無頓着ぶりがこれからどのように拡張するかと思うと、筆者は案外アルツハイマー病になるのが早いかもしれない。毎日こうしてブログに投稿しているところからは、今日が何日であるかを忘れるはずはないと思われがちだが、これが案外そうでもなく、画面右上にあるカレンダーを凝視し、それを脳裏に焼きつけることはない。
●嵐山駅前の変化、その65(広場、ホテル)_d0053294_11153835.jpg

 どうでもいい話の中でも最もどうでもいいようなことを書いてしまったついでにもうひとつ同じような筆者の癖のようなことを書いておく。3階で仕事をするが、3階に上がった時、すぐに部屋の電気のスイッチを入れる。ところがいつも決まったように間違って階段のスイッチを押す。こうして書いていてもわからなくなるが、そのスイッチはふたつが上下に並んでいて、上が階段、下が3階の部屋だ(と思う)。部屋の灯かりをつけようとするのに、いつも迷って結局下のスイッチを押して階段を明るくし、少し舌打ちしながら即座に上のスイッチを押して部屋を明るくする。自分でも信じられないが、この間違いを30年近く毎日続けている。覚えようとしないにしてもこれはあまりにひどい。それはよくわかっているのだが、それが改められない。となればいっそのことそのスイッチの配線を逆に付け替えればいいが、それも面倒でそのままにして、そして毎日間違っている。猿や猫、犬でもそんな間違いを30年も続けることはないだろう。スイッチを入れる段になるといつも迷いがあって、そしてそのままやはり間違って押してしまうが、たまには逆に押して正解の時ももちろんある。だが、翌日はまたそれを忘れている。人間はミスをするもので、そんなミスを防ぐには、たとえばそのスイッチの場合、別々の場所にひとつずつ備えるのがよい。同じ場所に上下に並んでいるから間違うのだ。灯かりにスイッチ程度であるからいいようなものの、飛行機のように人命にかかわるとうな場合は大変だ。あるいは自動車のブレーキとアクセルもそうだ。筆者ならきっとブレーキとアクセルの位置をまともに覚えず、毎日事故を起こすのではないだろうか。今また同じような筆者の鈍感さを思い出した。これは鍵の件だ。家内のヴァイオリンをケースから取り出そうとして、その鍵を壊したことがある。家内が帰宅してから開いてもらえばよかったのに、その時はすぐに中のヴァイオリンを取り出す必要が確かあった。鍵がどこにもないので、どうして開けようかと1時間ほど悩み、結局丸いつまみ部分を壊してこじ開けた。そんなことをすれば後で直すのに困るが、何だか無性に腹立たしく、そうしてしまったのだ。ところが家内が帰宅して言うには、元々鍵をかけていなかったと言う。ではどのようにして開けるのか。それは簡単で、丸い部分を右に少しずらすと蓋が開いたのだ。よくドアが開かないと慌てることがあるが、それは手前に開くのではないに向こうに押すタイプであることを知らないことによる。筆者はそんな間違いをよくするが、それと同じようなことをそのヴァイオリンの鍵でやってしまったのだ。まさか右にずらせるだけで開くとは夢にも思わず、てっきりロックされていると思ったのだ。
●嵐山駅前の変化、その65(広場、ホテル)_d0053294_1116793.jpg

 筆者には他人がいとも簡単に出来ることがさっぱり出来ないことが多いようだ。そういう不器用な人間は、人命に関係のない簡単な仕事に携わるべきで、実際筆者はそうしているが、そういう人がそれに見合う生活ぶりであるというのは理屈にも合っており、したがって筆者は今の経済状態に甘んじてもいる。もっとも多くの賃金を得るべき人は、多くの人命にかかわることをする場合で、世間ではそれが医者であり、また医者は尊敬もされ、収入も多いということで、辻褄がよく合っている。さて、ここまで一気に書いて、今1分ほどぼんやり考えた。昨日は、写真は常に過去を表わしていて、そうでない写真が可能かどうかと書いた。そのことが気になっている。ひとつの理由は、写真だけではなく、目に見えるどんなものでもいつも過去を示しているからだ。人間はいつも過去の記憶を、現在の今この瞬間に引っ張り出しながら生きている存在で、たとえ古い写真であっても、それを毎日新しいものと思って眼前に置きつつ生活することは出来るし、実際遺影などはそうした役割をはたしている。つまり、物事は思いようで、ある人には絶対的に古くても、ある人にはそうでなく、それが最新のものに見える。過去を記録する写真ではあっても、その古さを嫌う立場もあればそうでないこともある。だが、筆者が言いたかったのは、それを前提としながら、やはりいつ見ても新しいと言おうか、時代にほとんど囚われていない写真が可能かどうかという問題だ。以前に筆者はハッセブラッドの正方形のネガ・フィルムを利用して集中的に撮りたいものがあると書いた。そのまだ撮っていない想像上の写真を昨夜は思い浮かべていた。その写真は先の筆者の考えによれば、時代をどう刻印するか。場所と撮影時間、そして季節やあるいはもっと大きく言えば時代もそこに写り込むことは避けられない。だが、それを極力避けて、情報量を少なくさせることは可能だろう。その方法のひとつは、ピントを鮮明にしないことと、白黒写真にすることだが、さてそうして撮ったものをシリーズ化する時、そこにはやはり時代感覚が避けようもなく入り込むだろう。そんなまだ撮ってもいない写真を想像しながら、筆者は一歩も踏み出さないでいる。その一方で、全然別な素材で時間性やその記憶を可能な限り消し去った写真が可能かどうかを考えている。
●嵐山駅前の変化、その65(広場、ホテル)_d0053294_11163254.jpg

by uuuzen | 2010-11-05 11:16 | ●駅前の変化
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