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●鞆の浦散策、その2
こうにすぐに島が迫って見え、その島を眺めるための小さな望遠鏡が対潮楼の柱にくくりつけられていた。昨日掲げた最後の写真の左手前に写っている。



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望遠鏡ではなく、測量で使うトランシットのようなもので、かなり古かった。角度と焦点が固定化されていて、島の樹木が見えていただけだが、たくさん訪れる人たちに多少なりとも何かで楽しんでもらいたいという配慮だ。寺は福禅寺という名前からして禅寺だが、対潮楼の中ではかなり高齢の住職による説明がスピーカーから流されていた。生前に録音しておいたもののようだが、訛りがきついのか、ろれつが回っていないのか、よく聞き取れず、注意深く耳を傾ける気にならなかった。40代だろうか、眼鏡をかけた男性が今は切り盛りしていた。僧侶の服装をしていなかったが、おそらく住職なのだろう。観光寺院と化している様子がありありとあった。鞆の浦は、対潮楼から見える島を除けば、直径400メートルほどの円内に収まる程度の町であるから、人口は2000人程度ではあるまいか。その数からすれば神社仏閣の数はとても多い。これは尾道以上と言ってよい。尾道で思い出した。今NHKの朝の連続TVドラマで「てっぱん」をやっていて、尾道が舞台だ。半年前に訪れた後のことなので、親近感が湧く。このドラマは見ていないが、お好み焼きを意味する鉄板であり、またそうなると大阪と関係するが、実際ドラマでは大阪も描くようだ。お好み焼きには2種の焼き方があって、筆者が子どもの頃からよく知っていたのは、出し汁で溶いたメリケン粉をしゃもじですくって鉄板の上で丸くうすく描き、その上にキャベツなどの具を載せ、さらにメリケン粉をその上に垂らした後引っくり返すという焼き方であった。筆者が子どもの頃に食べた数軒の店はみなそういう焼き方をしていた。ところが10代後半のこと、ガソリンスタンドでアルバイトをしていた時に親切にしてもらった5、6歳年長の店員と40代の店長に、ある日夕食に誘ってもらった。酒を出すお好み焼き店で、そこで初めてカップの中で具を混ぜ、それを自分で鉄板の上に流して焼く方法を見た。その時、「彼女が出来たらふたり分を一緒にしてハート型にして焼いて食べるんやで」と教えられた。自分で焼く楽しみがある方法を知ったのはいいが、店のおばちゃんが器用な手つきで鉄板の上に丸い輪を描く方がきれいで、筆者は今でもカップの中で具をぐじゃぐじゃに混ぜる、決して美しくはない焼き方を好まない。その方法を大阪のお好み焼きと言い、鉄板上でまず輪を描く方を広島焼きということをその後知ったが、60年代の大阪ではどっちもお好み焼きと呼んで区別しなかった。今にして思えば大阪には広島出身の人が多かったのであろう。大阪は粉もん文化の発祥地と言われるが、案外そうではなく、各地から文化が移入され、それが発展したのだ。これは京都も同じで、外からやって来た人がいつの間にか京都を代表する文化人の顔をする。上方はよそ者が寄り集まって出来た地域で、その点は東京と変わらない。ただ歴史が古いだけだ。
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 対潮楼の中には赤い服を着た等身大の人形が飾ってあった。朝鮮通信使の復元だ。その奥には毛氈上に伏見人形など、朝鮮通信使が来たことによって生まれた各地の人形が並べてあった。その写真を撮ったが、昨日書いたように、コンパクトフラッシュから消えてしまった。人形の中には牛窓で作られていた小さな唐子踊り人形もあった。これは牛窓に今も伝わる通信使の踊りを模したもので、ふたりの子どもが演ずる。それを復元した行列が牛窓では復活してもいるようだが、どこまで当時の再現かかなり疑わしい。ほとんど通信使に名を借りただけの町起こしだが、それも歴史の再認識の点ではいいことだ。牛窓には数年前に少しだけ立ち寄ったことがある。天候と季節のいい時にゆっくり訪れたいところでもある。通信使は鞆の浦の次に牛窓に立ち寄ったのではなかったろうか。ともかく瀬戸内海の港を順に立ち寄りながら大阪湾まで行き、そこで船を停泊させて、主立った人たちが行列を作って淀川を遡り、伏見から歩いて市中に入った。伏見人形のうち、通信使を模したとされる型はそれ見たことで出来たものとされるが、それにしてはあまり影響が大きくなく、おそらくもっとあったはずの型が失われたのだろう。伏見人形は廃業した店がほとんどで、そこにあったさまざまな型は、今も残る丹嘉が可能な限り収集したようだが、とても全部というわけには行かず、大部分は破棄されたに違いない。これは現在の型にない伏見人形が見つかることからわかる。それはさておき、対潮楼で見るべきものは他に「日東第一形勝」の扁額くらいか。「日東」は日本のことで、朝鮮では東にある日本をそう呼んだのだろう。日本海は今でも「東海」と呼ばれるし、国際的にもそう呼ぶことを韓国は提唱している。朝鮮半島と日本の間にある海を「日本海」と呼ぶことなしに、「東海」と呼ぶのは、「東シナ海」からして妥当に思えるが、そこには「シナ」が入っている。だが中国ではこれを省いて「東海」と呼ぶようで、これでは日本海と東シナ海が同じことになってしまう。海の呼び方がこのようにややこしくて国家間でまとまりがないことが、たとえば尖閣諸島の領有問題にもつながっている気もする。いっそのこと海はどこの国のものでもないことにすればどうか。だが、そうなれば周囲が海に囲まれた日本が真っ先に不平を唱える。話が脱線し過ぎた。望遠鏡に戻ろう。それから見えたのは向いに見える小さな弁天島で、その奥にはもっと大きな仙酔島がある。1か月ほど前のTV番組でここを訪れる芸能人の旅行記をやっていた。自然豊かなところで、ホテルなどの宿泊施設がある。また、対潮楼の眼下には船着き場があって、そこには竜馬ブームにあやかってでもないが、いろは丸を模した船が島との間を行き来している。このあたりで1、2泊する人は、1泊は島を利用するのだろう。
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 眼下に船がちょうど出入りしていた。その写真を撮ろうと思ったが、代わりに撮ったのは、朝鮮通信使が絶賛した景色から目を落としての窓下の光景だ。それを3枚連続写真として掲げようと、撮った時には思いながら、一昨日の画像加工には載せないことにした。あまりに幻滅的であるからで、その様子の一端は昨日掲げた最初の写真にも一部写っている。だが、向い側に見える島と海のコントラストが美しいのであって、近景はどうでもよいと思えばいいのだ。島がとにかくそのまま残っているように見える限り、朝鮮通信使が見たのと同じ感動を味わうことが出来る。となると、筆者が何年も前に旅行会社が作っているパンフレットに見た、崖の上の対潮楼は別段見物ではなく、その内部から見る景色が主役ということで、対潮楼下の道路やその護岸がどう変化していようが関係ないことになる。それをさらに納得させることが、先のTV番組で紹介された。それは戦前に発売された記念切手だ。国立公園シリーズなのだが、その中の1枚に鞆の浦があることを初めて知った。国立公園シリーズは戦後まで続いたが、戦前から始まったシリーズは切手がかなり細長い大型で、4枚ずつセットになった。その最初は当然富士箱根で、次が日光であった。そして3番目が大山瀬戸内海で、当時は山陰が山陽と一緒になって指定されていたことがわかる。この大山瀬戸内海のうちの1枚が鞆の浦で、その写真は山頂から遠くに弁天島や酔仙島を眺めたもので、これと同じ角度で撮影した映像が番組では映し出されていた。ハイキング・コースになっているのかどうか知らないが、鞆の浦も小さな町だけではなく、その周辺も見所があるということだ。ついでながら4枚の切手の場所を書いておくと、大山、屋島、阿伏兎観音、そして鞆の浦で、阿伏兎観音を見て少々驚くのは、そこに対潮楼そっくりな岸壁上の楼閣が見えることだ。これはいったいどこか。早速ネットで調べられるのがありがたい。何と鞆の浦から西へ4キロのところに位置し、しかも鞆の浦とは違ってもっと海に迫り出した岸壁に建つ。つまり下に道路も護岸もない。これこそ対潮楼以上に見事なところではないかと思うが、残念ながら楼閣から見える景色には島がない。つまり、建物は対潮楼以上に自然豊かなところにあっても、そこから見える景色がさほどでもないのだ。それでも戦前の切手にこうして採用されるところ、山陰山陽では代表的な景勝地であることは間違いなく、いつか訪れたい場所だ。
●鞆の浦散策、その2_d0053294_112742.jpg

 さて、対潮楼を見た後、町中を散策した。狭い路地があちこちあって、有馬の町を思わせるようなところがある。人が少ないこともあって、とても静かだ。また昭和の建物が多く、レトロ感覚に満ちる。同じような味わいは20年ほど前の長浜にもあったが、その後訪れると古い建物がすっかりなくなって、味わいが半減していた。だが、観光客を多く呼ぶためにはそんな古ぼけた建物はよくない。古いが手入れされているのではないからだ。古いものを手入れして使うことはかえって不経済で、いっそのこと建て直す方がよい。そして日本中みな新しい建材の同じようなデザインの店ばかりとなる。だが、鞆の浦はまだそうはなっていない。古くて重厚、風格のある建物が目立った。それがいつまで続くかは疑問で、道幅を広くする、あるいは橋を架けるかすれば一挙にそういう家並みは失われる。だが、路地はそのまま残るであろうし、また海が間近である独特の香りも保たれるはずで、今後も観光客は押し寄せるだろう。団体旅行ではなかったので、筆者と家内はきままにあちこち歩き、対潮楼を出た後はさ迷いながら波止場に出た。高さ3、4メートルの大きな石灯篭があって、その写真を撮ったがこれも消えた1枚に含まれる。灯篭は灯台代わりに使っていたもののようで、「金比羅大権現」と文字が彫ってあったように記憶する。その灯篭のすぐ際、突堤の先にレトロな喫茶店があった。表には橋が出来れば環境がどう変化するかの説明書があって、店の若い主は鞆の浦の開発に反対しているようであった。入江には船が何隻も泊まっていた。人影がなく、実際に漁業に使っているものなのだろうか。その付近から今度は山手に向い、時計回りにバス停に戻ったが、途中でどこを歩いているのかわからなくなり、近くを歩いて地元のおばさんに訊ねた。すると後を就いて来いと言う。おばさんはひっきりないにしゃべり始め、半ば独り言のようでもあって、半分以上聞き取れない。何度か道の角を曲がって、ついに、「この道を真っ直ぐに出るとバス停があります」と言ってくれた。買い物に行く途中のようであった。途中にあった大きな古めかしい建物が何かと質問すると、確か「保育園の園長さんの家で……」といった返事で、その言葉の雰囲気から地元の有力者らしいことがわかった。そのおばさんと会った場所はよく記憶している。その付近はどこか京都らしいところがあった。道が縦横に走り、その角に立つごとに町の歴史が見えるようで、今思い出して書いていると、どこか夢の中の出来事に思える。これは古い町特有の味わいで、同じよな感覚はどのような古い町にも漂っている。そうしたところに落ち着くものいいが、筆者はやはり都会派で、人ゴミが恋しい。
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by uuuzen | 2010-10-25 11:03 | ●新・嵐山だより
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