●松尾駅の駐輪場、その8
上という言葉を思いついた。今、冒頭の一字でまだ使っていない文字を調べようとして、最初に思い浮かんだのが「途」だ。運よくまだ使っていないことがないことがわかったので、早速こうして書き始めたが、なぜ「途上」の文字が浮かんだのか、その理由はわかっている。



一昨日、70代半ばの親しくしているMと話す機会があった。気候もよくなり、毎日退屈なので、市バスに乗って京都のあちこちを散策に出かけていると言う。今までに行ったことのない場所、歩いたことのない道を行くのが目的で、寺を拝観したり、レストランに入るなど、お金は使わないとも言う。ずっと自動車を使って来たし、また今もそうなので、自動車道路はよく知っているが、車を乗り入れたことのない脇道はとても新鮮らしい。筆者は徒歩専門なので、そうした道はよく歩く。そして、毎日小さな発見を楽しみにして「おにおにっ記」を書いて来たから、Mの気持ちはよくわかる。無目的であちこち行くことのどこが面白いかと問わない方がいいだろう。筆者は必ず用事があってどこかへ行き、そのついでに知らない道を歩くことを楽しむので、最初からMのように散策することはない。だが、考えてみれば同じことだ。目的があるように見えて、その目的もたいしたことがない。歩くために目的を作っているところさえある。それは知らない町を歩きたいという欲求が心の底にあるからかもしれない。Mの好きな曲は60年代初めにはやったジェリー藤尾の「遠くへ行きたい」だ。たぶんにその曲が影響して、とにかくどこかに行きたいという思いがあるような気もするが、もっと哲学的に思えば、それは人間に共通した思いだ。バスに乗っている時、歩いている時には、次々に眼前に違った光景が広がる。それが人生の意味でもあるが、Mにすれば家の中でTVでいろいろと知らない場所を映し出してくれるのとは全然違う味わいなのだ。確かにTVでは諸外国の珍しい都市やジャングルを見せてくれるが、自分が積極的に参加している感覚はなく、より夢に近いと言える。それよりも、身近な場所で知らないところを歩く方が楽しいという思いは、原始的だが健全な気がする。そして、その無目的で暇つぶしの散歩は、「途上」という言葉がふさわしいが、「途上」はどこかにたどり着くことと対になった言葉で、その「どこか」が何かと言えば、これは誰しも「死」しかない。死ぬまで途上であり、その間にさまざまなものを見聞し、それが面白いとかつまらないとか言うのが人生で、「生」は「途上」と同義だ。そして「途上」の「途」は「道」であるから、知らない道を歩く楽しみは、人生の楽しみと同じことになる。また「途上」は英語で言えば「on the way」で、つまりこれは「道の下」すなわち死んで埋められるのとは違って、生きていることの象徴でもあるから、老人がすることもなく市バスを乗り継いであちこち散策することは、生産的な行為ではないにせよ、それは当人にとっても、また広く人類にとっても普遍的な「生」の行動と思える。
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 そうした人が出会ったり見たりするものは、市内をくまなく歩いている人からすればどれも珍しいものではない。もっと珍しいものは違う都市や海外にいくらでもある。だが、そうとも言い切れない。人が違えば見るものも出会うものも違う。これは重要なことで、この思いを持っていると自分に満ち足りることが出来る。卑近な場所に今まで誰も見なかったものがあるし、それは真実だ、であるからこそ、たとえば5、7、5の文字で俳句が今でも作られる。もうみんなわかってしまったと思うならば、そんな俳句になるような心が動くことはないが、家の周囲から一歩も離れないような人でもたくさんの俳句を作ることを思えば、遠くも近くも同じことで、自分のごく近い周囲に汲み尽くせないものが存在している。そして、そう思うことがその人を他人から見て汲み尽くせない何かを秘めていると思わせる理由になるのではないか。筆者がこうして書いている間、Mはまたバスに乗って出かけているだろう。そこで思うのは、筆者のこのブログも「途上」であり、これを読む人もまた同じように暇つぶしの「途上」の状態にある。だが、この言葉に怒らない方がよい。誰しも生きている間は「途上」にある。「途上」を思い出したもうひとつの理由は、今日掲載する写真だ。松尾駅横の駐輪場の建設工事が途上にある。現在は完成しているので、5月9日がこうであったという記録だ。だが、完成した現在はひとまで工事の面からは途上ではないにしても、劣化の観点からは途上にあるし、人間は永遠に建設工事が必要で、永遠なる仕事はそれに携わる人で、であるから日本が際限なく、公共工事をすることで景気をよくさせようとし続けて来たことの意味もある。だが、新しく作らずに、改修でいい場合が多いし、また本来は物を大事に使ってそうあるべきだろう。京都の繁華街を歩いて思うことは、絶対にどこかで毎日必ず工事をしていて、1週間で新しい店が出来ることだ。繁華街は京都ではないと言えるので、そのように急速に変化するのはかまわないし、また一斉に街全体が工事されるのではないので、いつ訪れてもそこが京都であることはわかるが、100年前の人にはそれがわからない。その意味で京都はもう京都ではない。その点、Mはどう思って京都を散策しているのだろう。Mが生まれて数歳まで育った家はまだ昔のままにあるらしい。その付近はほとんど半世紀前と変わらないと思うが、京都らしいところは周辺部にはまだたくさん残っているべきか。それともMにそれを聞いてみなければわからない。
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by uuuzen | 2010-10-23 09:23 | ●駅前の変化 | Comments(0)


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