実が出来ない花のことを「英」と言うが、この意味を知っていると娘の名前につけたくはなくなるだろう。昨日は桜は実をつけないと言ったが、サクランボが出来る。
だが、果物として出荷出来る品種は特別だと思う。たいていは実が出来てもごく小さい。とても熊が腹をいっぱいに出来るものではない。一昨日のTVで見たが、熊がりんごをどっさりと食べ、1万数千個、つまりその農家が育てているリンゴを全部食べ尽したそうだ。1匹が1日で数百個食べるというから、サクランボなら1万個くらいは必要になる。サクランボを食べればの話だが。そう言えば梅は実が大粒でたくさん出来る。だが酸っぱくて熊は食べないだろう。それに青い梅を食べれば腹を壊す。また、梅の木のあるところへ熊が来るかどうか。梅の花が咲いている2月は冬眠中であるし、実の出来る6月は空腹ではない。秋が問題なのだ。さて、冒頭の一字を「実」にしたので、昨日に続いて熊の話になった。実際は「実際」という言葉で始めようと思ったのに、ここまで書いて来てその「実際」に続いて書くべき内容を忘れてしまった。最近物忘れが始まったのか、考えていたことをすぐに忘れ、数時間後に思い出す。それでひとつ思い出したことがある。今年の若冲忌で、若冲の墓より10数メートル下がった地に大野秀隆の墓があることを知った。その時、大野が所属したパンリアルを思い出しながら、その中心人物であった下村良之介の名前が出て来なかった。下村は若冲を意識していたこともあって、鶏や鳥をよく描いた。それでその日はずっと頭の片隅で思い出そうとしながら、結局1時間後にふと思い出したが、それで納得して、話をしていた人たちにその名前を出すことをしなかった。思い出したのはまず「良之介」で、その次に「下村」を思い出した。「下村」はあまりいい響きではない。下より上がいい。だが「上村」は別に有名な日本画家がいる。それでやはり「下村良之介」がぴたりと決まっている。その若冲忌の時に、下村の名前を思い出せないまま、下村があまり字が上手ではないことを筆者は話題にした。筆者は古書で買った下村の画集を持っていて、その扉に筆字の本物のサインが書かれている。その本の題字は榊莫山が書いていて、それは見事に決まっている。それが下村の字であればどれほどいいかと思わせられる。ところが、下村の字は若者が書くような貧弱なもので、これがとても意外だった。あれほどの緻密な絵を描く人物がこういう字かといった思いだが、案外そういうこともあるのだろう。
それはいいとして、その下村の絵は筆者は正直なところ、何か書く気になれない。よさがわからないからだ。先日「「日本画」の前衛」展について書いたが、下村の作品は1点だけ最後に出ていた。下村展は同じ美術館で去年回顧展があったからでもある。それほど別格的な存在であった。20年ほど前に平安画廊で下村の顔を2、3度見たことがある。また、中島さんが言っていたことだが、下村が扉を開けて中に入って来る時は緊張し過ぎたそうだが、そういう貫禄のある人はもうこれからは望めない時代だとも話していたことが印象的だ。気迫がみなぎっている人とはそんなものだろう。筆者はどう転んでもそんな貫禄が出て来ないどころか、いつも侮られて軽い人間に思われる。それは筆者の責任で、そういう人生を送っているからだ。平安画廊で見た下村の顔を思い出すと、とても寡黙そうで、それがまたなおさら貫禄と映ったのかもしれない。筆者はペラペラ話し過ぎるし、こうして何でもあまりに書き過ぎる。さらけ出すと神秘性がなくなるから、ブログなど欠かず、ネットに名前すら登場しない方が本当はいいのだ。はははは、今ようやく思い出した。「実際」という言葉を枕にしてその次に何を書きたかったかと言えば、ネットでも友人の数について先日ネット・ニュースに出ていたことだ。中国やマレーシアではひとり当たりのネット友だちが200人以上だったと思う。これはとても信じられない。どの程度頻繁にネット上で会話する人たちの数なのだろう。あるいは実際に会っている人の数だろうか。筆者はこうして書き始めて6年目に入っているブログだが、ブログに書き込んでくれる人があまりに少なく、またあったとしてもろくなこと書かない失礼な輩なので、ネット友だちは皆無と言ってよい。6年書き続けてネットで知り合った人が皆無というのもきわめて珍しいかもしれない。それでも筆者は平気だが、ネットで友だちを見つけていろいろと話し合いたいと思っている人からすれば何が目的で書いているのか全く理解出来ないだろう。だが、暇つぶしの無目的でもいいではないか。ネットに書き込んでくれる人があればそれなりに楽しいのはわかるが、ネット上のつき合いはお互いの実際の姿はわからない。だが、その実際の姿がわからないからいいというのが今の若い人たちの考えることなのかもしれない。であるから、ネットで知り合ってすぐにホテルに駆け込んで動物的本能を満足させるということも平気という人がある。いやいや、そうした行為は、お互い素性をよく知らないからこそ、1回限りの適当な遊びとしてすぐに記憶から消し去ることも出来るのだろう。インターネットは主に物事をそのように考えるための人たちのものかもしれない。実際。書き忘れるところだったが、今日掲げる駅横の脇道は4月24日。ホテルの建設現場は4月26日だ。どちらも工事が一段落して作業員の姿が見えない。だが、これは半年前の姿で、今はすっかり変わっている。そう思えばもう懐かしい写真になっている。写真は常に懐かしさを保つ。それが時にうっとうしい。懐かしがるということは後ろ向きだ。人間の目は顔の前についている。背中にはついていない。