埋め草的に何か書くというのがブログの基本姿勢と思うが、書くことが好きな人でも書くべき何も思い浮かばないことはあるだろう。今日はそんな気分だ。
昨夜からずっと雨で、今日もそのようなので、雨に関する何かを書こうかと思って、「雨」の文字を、このブログの冒頭の一文字用に溜め込んでいるメモ帳で検索すると以前使ったことがわかった。それで5つほど思い浮かんだ文字を順に検索すると、どれも駄目。ふと思い浮かんだのが「埋め草」で、「埋」で調べるとまだ使っていないことがわかった。それでエンジン始動。即座にこれを書き始めた。冒頭に同じ文字を再使用しないという原則を自分で設けたのは、それが書くきっかけになりやすいからだが、その例が今日の書き始めのこの文章からわかるだろう。「埋め草」という言葉をなぜ思い出したかと言えば、小学6年生の時に、担任の先生がクラスから数人を選んで大きな画用紙に絵を合作させたことを思い出したからだ。また、それをなぜ思い出したかも説明することが出来るが、話があまりに込み入るし、また別のカテゴリーに書くべき内容なのでやめておく。合作の画題は筆者が決めたはずで、教室の窓から見える景色だ。遠近が利いて絵になると思ったのだ。それに窓から見える風景を筆者は好んだ。絵具が順に塗られて行く時、最も遠い景色が霞んで見えた。それを半ば冗談にどのように描けばいいかわからないと口にすると、かたわらで立っていた先生が、「ぼんやりとして見えない部分はそれなりに描けばいい」と助言してくれた。それはあたりまえのことだが、先生からそのように言われると、なるほどと思う。その頃の先生は今とは違うのか、絶対的に尊敬出来る存在で、またそういう先生が今より多かった気がする。自分が大人になって、年下の先生を見るにつけ、これが先生かと首をかしげたくなるような人が目立つことに多いに戸惑ったが、案外それは筆者が小学生の頃にはわからなかっただけで、昔も変わらなかったかもしれない。それはいいとして、そのぼんやりしている部分はぼんやりと描けばいいというのは、言い換えれば埋め草的に描けばいいということだ。つまり重要でないので、適当に処理すればいい。そのことは今日のような書くべき内容が思い浮かばない時にはすっかり当てはまる。こうして書いていることは、勢いに任せた完全な即興であり、それは時間的にも埋め草以外の何物でもない。だが、もう少し見方を変えると、今日だけではなく、もうすぐ連続投稿2000日になろうかというこのブログ全体が暇潰しみたいなものなので、埋め草と言えることに思い当たるし、もっと拡大すれば筆者の全活動がそうかとも思える。となれば人間全体がどうでもいい埋め草とも思えるし、宇宙から見れば実際そうだろう。あまりに小さなウィルスみたいな存在なので埋め草にすら値しないかもしれない。言うなれば埋め黴菌だ。
と、話が宇宙的になったので、元のちっぽけな筆者自身に戻ると、ぼんやりしている部分はぼんやりと表現せよという先生の言葉は、改めて考えればとても哲学的と言える。ぼんやりとしているのであれば、表現は絶対的にぼんやりとするしかないないではないか。だが、絵具なり言葉なりを使って無地空間を埋めるのであるから、それは1個の確定した表現となって、その意味ではぼんやり感はない。確かに霞のようなぼんやりとしたものを描くと、絵はぼんやりとしたものになるが、ぼんやりを意識して描くのであるから、描いたものはぼんやり見えてもそれは覚醒の産物だ。たとえばこのブログにしても、今日は何も書くべき内容がないと思いながら、頭をぼんやり思うがままに漂わせると、いくつかの想念が浮かんで来て、それで「埋め草」の言葉を思い出した。そして書き始めたのだが、こうして息接ぐ暇もないほどの速さで書きながら、徐々に文章が出て来る、言いたいことが固まって来ることが不思議で、ぼんやりと埋め草的なことで今日は茶を濁そうと思っていたことが、その冷めた濁り茶で目が覚めて来たという感じだ。そこで改めて先生の言葉が名言に思えて来る。ぼんやりとした部分をぼんやりと描くと、それで絵になる。それはぼんやりしていると「認識」したことは、「はっきりとして見える」ことと同義でもある。はっきりとぼんやりは全く正反対のようだが、それを何かに表現するとなると、どちらも意識することにおいて同じ次元にある。また、遠くのものはぼんやりと見えるのは当然で、そのことが間近にくっきりと見えることより価値があるとは限らない。物事は相対的でもあって、筆者がその遠方に移動すれば、ぼんやりがくっきりし、今までいた場所が逆にぼんやり化する。この論法で行くと、埋め草的に適当に書く内容と、しっかり書くべきことを決めて書いた内容は等価値ということになる。前者は随筆のようなもの、後者は論文的なものだが、双方の価値は比べることが出来ないし、また面白い云々で比較するならば、どちらもそれなりに面白くあり得る。つまり、何を書いていいかわからない時、とにかく最初の言葉さえ思い出して書き始めれば、それなりに面白い内容として固まって行く可能性がある。これは人生にもなぞらえ得る。何をしていいかわからない時、とにかく何でもいかから一歩前に踏み出し、さまざまなものに出会うように心身ともに刺激を受けるべきだ。
と、ここままで書いて来て、筆者は重要なことに気づいた。それは実は昨日から書きたいと思っていたことで、それが別の形を取って以上に言い終えることが出来たのとだ。つまり、何を書きたいかぼんやりしていると思ったのは、書きにくいからであった。それが結果的には別の角度から突き崩すことが出来た。ま、その個人的な落ちはさておき、絵も文章も、何もないところに何か埋めることにほかならない。そして何も思い浮かばなくても、とにかく筆を進めると何らかの形になり、それは本当に内面で思っていることを表現になるのではないか。先日から筆者は同じようなことを書いているが、表向きに見えている向こうに、書き手の本当に言いたいことが隠れていたりする。ならば本当に言いたいことをずばり書けばいいようなものだが、そういう場合もあるし、またそうでない場合も多いのだ。そしてそうでない場合でも、実際はその向こうに言いたいことが見え隠れていることが絵や文章の不思議だと言いたいのだ。それは結局のところ、こうして何でもいいからとにかく書き続けることで露になる。あるいは書かなくても、役者なら演技、音楽家なら演奏に表われる。あるいは表現者でなくても、その人の顔にそのままそれが刻印される。先の人生は常に真っ白なままにあって、そこに何をどう埋めるかは自由だ。その自由を自由と感じられない人は不幸だ。本当にやりたいことが本人はわからないと思っていても、それは本当はそうではなく、それに触れにくいのでひとまずは逃げているだけのことで、本人の半ば無意識の行動に、本当にやりたいことへの希求が表われている。だが、それを見つけるのは本人であるし、他人が手を差し伸べることが出来るのはごく稀だろう。その稀な機会が、たとえば筆者の小6の担任の先生が言ってくれた言葉だ。ぼんやりしているところはぼんやりと描け。それは意識せよということなのだ。本人がそう意識しなくてもそうなのだ。今日掲載する2枚の写真は4月23日のものだ。