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●嵐山駅前の変化、その53(駅舎、広場)
ロ金利政策を4年何か月ぶりに日銀が取るというニュースがあった。景気を改善するためだが、こういう国家レベルの大きな話はいつもピンと来ない。



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バブル時代にも筆者は景気のよさにほぼ無縁であったし、いつでもマス・メディアは不景気なニュースばかり流して来た気がする。つまり、不景気こそあたりまえで、景気がよくなっても少しも実感出来ない人生を歩んで来た。その景気というのは、人によって捉え方がさまざまで、会社を経営している人は給料を支払わねばならないから、いつも敏感にならざるを得ないが、筆者のように、ほとんどどこへも行かず、あまりお金も使わない者は、大金を仮に所持しても実感がないだろう。ただし、今日はこんなことを思った。たとえば慎ましく生きている人があるとする。その人は自分の稼ぎで自分の生活を支えていて、誰にも迷惑をかけていないと思っている。確かにそれはそう言えるかもしれない。だが、誰にも迷惑をかけないというのは、実際のところあり得るか。また、あり得たとして、それが褒められたことか。その人の生活は個として独立し、清廉そのものと言えるとしても、そういう人間ばかりでは世の中は成立しない。もっと積極的に大きく稼いで、ポンとどこかに寄付すると、大勢の人のためになるだろう。それは個人が誰にも迷惑をかけずに充足して清廉に生きることより、もっと意義があるのではないか。そして、そこに商業の意味もある。つまり、稼ぐことはいいことにつながる。ただし、稼いだものをただ銀行に預金しているだけでは、あまり人助けにはならない。どう使うかが問題で、その使い方が大きいほどよい。そういう生き方は誰もが出来ることではないでの、せいぜい他人に迷惑をかけず、自分の少ない稼ぎだけで慎ましく生きる。そして、そういう人の方がいつの時代も圧倒的に多いので、大きく稼いで大きく使う人が英雄のように話題になる。では、慎ましいだけの人はどう生きれば、人からたいした人間と言われるか。これが難しい。慎ましさは平凡で、平凡は人気がないのだ。みんながかなわない夢を持ち続け、平凡ではない何かが出来ないかと思っているから、平凡な人が脚光を浴びると、すぐに妬みを起こして引きずり下ろそうとする。平凡にはそんな醜さが宿っている。であるから、なおさら平凡な人は平凡に飽き飽きしている。
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 では非凡なことが平凡な人にどのように可能か。それは尋常ではない努力を重ねて平凡を脱することしかひとまずはないだろう。それを才能と言うが、才能には努力が欠かせない。ただし、努力しても才能が芽生えてそれが世間に認められることはない。本人が努力したと思っていても、その努力は全くの平凡である場合がほとんどで、結局平凡は平凡のままで、平凡の中にわずかに非凡さを持っている人が非凡な人として頭角を現わす。だが、わずかな非凡性は誰にでも本来はあるもので、それに本人が気づくかどうかだ。それは自信と言ってよいが、それは名実が伴なわなくても、希望があればそこそこ具わる。ただし、自信ばかりでいっこうにそれをもとに動こうとしなければ、あいつは口ばかりだとか、妄想癖があるとか謗られる。それでも自信はやはり最初に持つ必要がある。それをもとに後は動いて行けばよい。自分で自分を動かすのだ。そのもとになる自信がなければ、何も動きようがない。その自信はどうして身につくものか。いつ頃芽生えるものか。幼少の頃、小学生の頃、思春期の頃など、いつの段階でもそれなりの自信がある。そして、自信喪失という言葉があるように、自信は時として失われるが、最初のタネになった小さな自信さえ見失わないのであればまた自信は育つ。自信は植物の種のようなもので、それが大きく成長すると人にそれを与えるように出来る。そして、どんな人でもその自信が持てるように生物学的には出来ているはずだが、これを育てるのが本来の教育であるのに、今の学校教育は大半がこれを摘むように機能している。本当の生きる力としての自信を与えず、要領よく機能的に情報を頭に詰め込む者が勝者となり、そこから弾かれる人はいやでも自信を限りなく小さなものにさせられる。そしてまたいやなことに、そういう要領のいい子どもが時として要領の悪い子をいじめて死に追いやるから、人間を生物として見た時、現代は徹底的に自信の持てる者とそうでない者を振り分けるシステムを構築している。そういう学力的な自信の問題に芸術までが精密に組み込まれ、巨匠になるには一流芸大出に限るというから、ますます自信の小さな種しか持てない人は生きて行きにい。これは社会が高度に発達したからだと、まるで日銀のゼロ金利政策と同じようなことのように言う人があるが、高度が質のよさを示さないとすれば、何のための高度か。高度に発達したのではなく、限りなく野蛮になったと言い換えるべきではないか。
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 今日は天気がいいので、夕方5時に散歩した。いや、その前に書いておきたいのは、今日も早く起きた。6時半だった。それですぐに昨日と同じように仕事を始め、午前中でほとんど仕事を終わった。この調子よさはどうだろう。で、話を戻して、夕方5時過ぎに松尾橋をわたっていると、向こう側の歩道に、今年の冬に何度か見た60代半ばから70歳くらいのひょこひょこと歩く婦人を見かけた。急に会わなくなったのでどうしているかと思っていたが、元気そうでよかった。歩く姿は病み上がりの雰囲気があるが、人のよさそうな感じがある。明るいうちに散歩しているのだろう。筆者も5時台に出かけるのは珍しいが、たまには明るい頃もいい。さて、書きたいことは、散歩道沿いにある、きれに手入れされた植え込みを見て、それがとてもきれいと思った。花は咲いていないが、狭い土地に10種類ほどの植物が植え込まれている。さまざまな形の葉が1ヶ所に集まって、それが何となく微笑ましいのだ。同じようなことを、3か月ほど前のTVの特集番組でIKKOが言っていた。何でもないような背丈の小さな雑草の集まりを散歩中に道端に見かけたIKKOは、その前にしゃがみながらそれを美しいと言ったのだ。まさにそのとおりで、その時IKKOはやはり有名になるだけあるなと思わせられた。そういう繊細な感情をごくあたりまえのようにそっと口に出来る大人は楽しい人生を歩んでいる。今日筆者は植え込みを見てそのIKKOが発言した場面を即座に思い起こした。そして、次に思ったのは人間が住むこの地球だった。地球という狭い土地に、多くの民族が住んでいる。それは何でもない雑草の集まりと同じほどに美しいだろう。そのさまざまな存在が集まっている様子の縮小が日本の国やまた地域社会であるべきだが、あまりに何でも整理され過ぎると名もないような雑草的存在は抜かれて捨てられる。その最たるものが学校教育で、子どもは早々と選別され、要領のいい子、あるいは経済的に恵まれた子は、肥料もたっぷりと手をかけて育てられる。そういう子が将来大金持ちになって、莫大な財産をポンと恵まれない人に寄付するのなら、まだ救いもある世の中と思えるが、世知辛い世の中は今も昔も変らない。その中で恵まれないと思っている人はどのように自信を得ればいいだろう。それを救うのが宗教、あるいはお笑い番組であったりするが、自信がなくなって行く老齢に入っても、元気で散歩が出来て、橋の上からきれいな夕日が眺められればそれでいいかなと筆者は思う。今日掲げるのは4月16日に撮った駅前の写真で、小雨が降っているのが傘を差す人からわかる。
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by uuuzen | 2010-10-06 21:21 | ●駅前の変化
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