条件が普段とはどう違ったかをよく自覚しているが、昨日生じたことをみなここに書くわけにも行かない。こうして書くことの向こうに筆者のより大きな生活があり、その内容はこの文章とは大きく異なる場合もある。
たとえばの話、昨日筆者は激怒する出来事があったが、その精神の高ぶりが条件になったのだろう、今朝は5時に起きた。睡眠4時間だ。それで目が冴えたので階下にそっと行き、TVをつけずにパソコンのスイッチを入れて、仕事を始めた。それで感じたが、いつも1日要する程度の仕事が朝のうちに終わった。早起きは三文の得とはこういうことかと思った。この調子なら毎日睡眠4時間でも大丈夫な気もするが、昼間眠くなるかもしれない。実際さきほどソファで眠った。だが、20分ほどだ。それでむくりと起きだして、気分転換にこれを書き始めたが、サイレンがけたたましく裏庭の向こうで鳴る。消防車が3台、真向いの家の前にやって来て停まった。裏庭に出て金網越しに見ると、筆者から直線距離50メートルほど、消防員のマイクから大きな声が鳴り響き、火災警報機が鳴ったので駆けつけたことがわかった。何事もなく、すぐに消防車はサイレンを止めたが、つい先日も同じ家で同じ出来事があった。たぶん高齢者が住んでいるのだろう。警報機は来年5月までに取付が義務になっている。わが家はまだ買っていない。自治会長がそれではしめしがつかないが、来年5月までまだ間がある。そう言えば地デジ化対策もまだだ。もっとも、わが家はケーブルTVなので、アナログのTVでもチューナーを買えばそのままで映る。TVが家の中でどれだけの大きさ、豪華さを占めているかで、その家の文化度がだいたいわかると思うが、経済的不如意もあって、わが家は驚くほど小さな画面で見ている。画質も最悪だが、どうにか見えればいいと思っている。あまりTVが重要でないのだ。だが、一昨日だったか、NHKでネヴィル・マリナーが振るブラームスのシンフォニー第1番をやっていて、第1楽章の途中から見たが、それは少々驚きであった。というのは、先日のブログの思い出の曲のカテゴリーにその曲を採り上げてもいいなと思っていたからだ。今頃の秋にはブラームスが似合うようで、ここしばらくはよく思い出していたのだ。なので、NHKのその放送を見た途端、テレパシーかと思った。だが、そんなことはなく、筆者と同じように秋にブラームスが似合うと放送局が考えただけだ。ブラームスのその交響曲は2、3秒聴いただですぐにそれとわかるが、そこが音楽の面白いところで、個性のあるものはほんの少しの断片にも全体が縮小されて宿っている。それは結局ブラームスらしさを凝縮して行けば、2、3秒で表現出来る意味でもあるかもしれない。だが、その2、3秒だけを聴いても楽しくないし、それでわかった気になってはいけない。その2、3秒の確かさがわかるようになるには、何十、何百回と、何十年にもわたって聴き続けなければならない。それがクラシック音楽の楽しみであり、また正統な聴き方ではないかと思うが、そんな心と時間の余裕を持った人は、TVは日常生活において大きな場を占めていないのではないだろうか。TVを愛する人はクラシック音楽を愛する人とは別の意味での孤独を抱えているように思う。
そうそう、昨日のNHKのETV8は、配偶者に先立たれた人の悲しみをテーマにしていた。だいた60代が中心で、しかも男性だ。どこに通帳があるのか、また料理はどうすればいいのかなど、奥さんに死なれて急に大いに困り、生きる勇気を失う。自治会連合会の集まりでは筆者より年配の人が会長になっている場合が多いが、筆者がよく話す他の自治会の会長ふたりは、どちらも去年奥さんを亡くした方だ。だが、至って元気で、また落ち込んでいないように見える。そう見えるだけで本人は家にいるとまた違った顔をしているかもしれないが、ともかく自治会の集まりで人と交わる必要があって、あまり悲しみに浸ってもばかりおれないという事情もあるように察する。その意味で自治会は大きな役割を果たしていると言うべきだろう。確かに筆者も配偶者を失うという世代に差し掛かっているし、それは家内にも言える。妻が先に死ぬと、残された夫は急に体調を悪くして後を追うように亡くなる場合が多いが、それはある意味で理想かつまともなことだ。妻に先立たれて悲しみの底に沈んだ上田秋成は奥さんの残した和歌などを書き写すことで、なおさら悲しみに浸ったところがあった。よほど応えた妻の死の後は、最後の力を振り絞ってまとめに入った著作に次々と勤しむ。そのことは筆者にひとつの勇気のようなものを与えている。家内はよく、「あんたはわたしが死んでも平気で、また新しい女の人を見つけるわ」と言うが、ここ2、3年はそういう話題になると筆者は「もう、そんな元気があれへん」と応える。色気への関心を失うと老化が速いとか言う。それは事実としても、老いぼれ爺になってどこの女性は物好きにも寄って来るだろう。財産があればそれもまた別だが、すかんぴんでは恥ずかしくて女性に背を向けるのが関の山で、筆者はもうそんな気持ちを抱くようになっている。これも先日の敬老の日のTV番組だったか、90代の男性が老人ホームで10ス数歳年下の女性と恋人同士になっていることを紹介していた。ふたりは実にうれしそうで、それが微笑ましかった。どちらもかわいげがあった。いくつになっても異性をそうのように感じ、大切に思いやる姿は美しい。それをいい年をしていやらしいなどと言わない方がよい。明るい老人は、孤独でしみったれた老人よりどれだけいいことか。それで筆者も明るくいたいが、腹立たしいことばかり多く、眉間に皺が行きっぱなしだ。だが、そんなことをブログに書いても誰も楽しいとは思わないので、話題としては務めて避ける。
さて、今日は3枚の写真を掲げるから、もう一段落書く必要がある。先の消防車の話題で思い出した。「その50」に掲載した駅前広場の写真には消防車が写っている。これはそのすぐ下に大きな防火用水の貯水漕があって、広場がアスファルトで平らになったので、その点検に来たのだ。駅が燃えた時にはこの貯水槽の水を使う。もうひとつついでに書いておくと、2枚目の写真の中央左に写っている男性が3枚目の右端に見える。これはその男性が早足で歩いて来る間に、筆者はカメラの角度を変えて3枚目を撮ったことを示す。今日の写真は、4月16日の桜の林だ。桜はすっかり散って、雨に濡れた地面は桜の花びらでピンクに染まっている。この写真を同じ角度の位置に先日立ってみた。現実の光景と写真のずれはいつも感じるが、それはTVでも同じで、よく知っている場所が映っても実感がない。この感覚がいつも不思議で、それはなぜかと今考えれば、カメラと人間の目玉の違い、そして撮影者と自分の違いによるだろう。で、どういう結論が導き出されるかと言えば、自分が撮れば実感が湧くということになるが、それで改めて今日掲げる3枚の写真を見ると確かに自分が撮ったものという意識はあるにはあるが、実際の光景とは何かが違う。そしてまたその理由を考えると、やはりカメラと人間の目玉の違いが決定的ということだ。これはカメラの欠点を言っているのではない。現実の多様性をそのまま2次元の画面に映し出すことは不可能で、撮影は大きく言えば本人中心の、そして創作行為と言える。これはあたりまえのことで、であるから近年は写真に撮影者の名前がクレジットされたりする。それはいいとして、その創作行為は一瞬になされ、その後画像のトリミングなどの処置が施されてブログに掲載されると、絵日記における絵のような創作物としての姿として立ち現われる。これも当然のことだが、何を言いたいかと言えば、こうして書く文章や載せる写真は、現実に反応した筆者の断片で、あえて書かない、また写真を掲載しないことを含めてそれは存在し、その見えない部分が他人の脳裏にどう映っているのか、そこに興味がある。それは、自分で自分が見えない、あるいは見えているとしても、その部分と他人が密かに感じ取るかもしれないそれとの間のズレが、一種のスリルを持った謎めいたものとして、筆者と鑑賞者の間に存在しているその大きさが、こうした文章の醍醐味として価値あるものではないかという気がする。つまり、書いていないことをどれだけ謎めきとして相手に気づかせることが出来るかだ。わかったようなわからないことを書いているが、そういう独自の味わいをかもすことが出来るようになるのは、文章の達人でなくてはならないだろうか。それはよくわからないが、文章の上手下手を越えた何かがやはり大事で、それは人格ということだ。そしてその人格は、ブラームスの交響曲のわずか数秒ではないが、こうした文章を凝縮させて、わずか数語か1行にし得た時に見えるものであることが理想だ。そんな境地に至るのが文豪と呼ばれる人々なのだろうが、それは考えずに、せいぜい老いの暇潰しでいいではないか。これも孤独のなせるわざかもしれないとして、何もしないで孤独を噛み締めることよりかはよく、そしてそういう気分でいられるのは孤独ではないということになるだろう。