申し分のない開花と天気になって、嵐山駅を下車する人が一気に増えた。それを示すのが4月4日の写真だ。明後日と分けて掲げる。
近隣の人々の散歩に最適な場所となっている桜の林は、駐車場とされているものの、普段は車がない。それが人と車が詰まって、いつもと同じ角度で撮影するには無理が生じる。それでもどうにか撮った写真は、「花より団子」そのままの俗な雰囲気だ。年に何度かの珍しいことと思えば、これはこれで面白い。実はこの写真を撮るために、「嵐山駅前の変化」シリーズを始めたところがあるほどだ。それを予定どおりにこうして掲載出来たことは、計画どおりに事を運びたい筆者としては気分がよい。たくさんの人に来てもらって、商売が繁昌するのが地元の商家の思いであるし、それは現在の車社会の事情を考えれば、どこかに駐車場を設けなければならない。また土地を所有する人がそれに利用しようとするのは自然な考えで、普段は駐車場でないところも、花の季節には臨時で駐車場にして観光客に貸す。そして、それだけ人が押し寄せ、しかも広大な空き地があるならば、ホテルを建てようと考えるのもももっともな話だ。古くから住み続ける地元住民がその建設反対を思っても、大きな抗議運動になるほどには地元住民はおらず、また自治会、つまり筆者が会長をする自治会は強固な組織とは言い難い。そうであるから、筆者に会長をしてもらって、新しい風を招いてもらおうという考えが、またそれとは反対に、誰がなっても同じなので、引き受けてくれそうな人をという考えが生じたのだろう。
半年ほど前のこと、あるスーパー銭湯で見知らぬ男性と話をして、大きな建物が建つ計画に対して住民が団結してそれを撤回させたことを聞いた。桂坂と呼ばれる、山を切り開いて建ったニュー・タウンでのことで、ある日、大きなマンションが建つことになった。それが建てば山手の1戸建ての家は見晴らしが一気に悪くなる。桂坂はどこも立派な、また区別がつかないほどよく似た1戸建てばかりが建ち、住民は比較的社会的地位の高い。中には弁護士もいる。その新しく建つマンションは当初保育園として宣伝されていたのに、工事が始まりかけると、もっと背の高いマンションであることがわかった。騙されたと感じた地元住民は団結して抗議を続け、ついに建物が建たなくなった。建築業者が法律を守らなかったことを住民の中の弁護士らが立ち上がって追求したのだろう。それは住民の年収や世代が似る桂坂ならではのことであったと言ってよい。住民が団結しやすいのだ。ところがわが自治会は、世帯数が100数十しかなく、その数分の一は嵐山あってこその商家で、もう半分のそうではない住民とはまとまりがつきにくい。そのため、こうした特殊な地域に大型の施設が建つとなっても、他人事と思う人が多い。どうせ大手が法律を守ってやるのであるから、反対しても仕方がない。それにそうした施設が出来ることで嵐山全体が潤うのであれば、それも歓迎だ。といった考えもあろうし、そのようにして江戸時代からこっち、わが自治会が存在する地域は少しずつ俗化し、先日掲げた「京都市 都市計画情報 用途地域・高度地区」といった図面がその時代ごとに見直されて作り変えられて来たのだろう。こうした都市計画は、何年も前から地元の人々には伝わっているが、数十年以上先を見越して少しずつ改造されるので、当初の計画が変更されることも多いと考える。あるいは、役所のことであるから、何世代にもわたって同じ決まった計画がバトンタッチされ、いずれはその図面どおりになるのか。半世紀以上も経てば、当初は反対していた人々は世を去り、その子孫はもう仕方がないとか、時代は変わったのであるからなどと思って、ついにはその計画にしたがって、家を立ち退いたりもするだろう。
「京都市 都市計画情報 用途地域・高度地区」で一番興味があるのは、
「都市施設」の図面だ。そこには「嵐山駅前の変化、その3」に掲げた道路計画が載っていて、それは筆者の想像とほとんど同じだ。これほどの大改造は、市内全域を確認していないが、あまり例がないだろう。まず、嵐山駅前の広場を横切って大きな道路が出来る。これは新丸太町通りや三条通りを西進した車を渡月橋まで行かせずに、その数百メートル手前でショートカットする形で桂川を渡らせて南下、阪急嵐山駅前に導いて、そのまま現在ある物集女街道につなげる。この駅前を横切る道路は、駅前の景色をさらに大きく都会的に変えるし、筆者が掲載している駅前写真からはまた想像も出来ないような工事状態と、結果をもたらす。それも引き続き撮影したいが、おそらくその道路はまだ数十年先だろう。別の名前でも表現される物集女街道は、都市計画図上では、南に数キロ先の樫原地区まで一直線で結ぶため、嵐山樫原線と表示されている。この道路幅が現在より東側が歩道分程度広がる。この道沿いを毎日歩いてスーパーに買い物に行く筆者は、道幅が狭くて危険を感じているが、すでに拡幅の兆しはある。つい先頃、以前歩道にせり出ていた1軒の古い家が、西京の土木事務所の計らいで歩道を塞いでいた部分がすっかり削り取られた。地元の人はこの工事をどう見たか知らないが、筆者には役所が都市計画にしたがってまず指導し、法律を犯しているケースについては改善を強制しているように思える。そのようにして住民の意識を高めることに成功したうえで一気に道路幅を広げる工事に着手するだろうが、この街道の東沿いは、現在の歩道分が車道になったとしても、さほど問題がないように、家は道路から引っ込んだところに建っている。もちろんそれは家の前庭的部分で、そこが道路になれば住民は困るから、今後長年を費やして家を改修させたり、立ち退かせたりするのだろう。その時期は前述の桂川を横切って駅前広場に通ずる大きな道が出来る前ではないだろうか。
嵯峨から駅前広場に通ずるこの道の計画を知ったのは、去年ホテルの設計図をもらった時だ。ホテルはその道路が出来ることを見越して、建物に道路がかからないように設計し、また建つため、道路が出来ても改修が最小限に済む。道路にまともに重なるのが、駅前の喫茶店らんざんだ。これは完全に立ち退きをよぎなくされる。また、その隣の円月弁当も建物のほぼすべてが道路にかぶさるから、市はその場所での廃業を前提としている。また、もうひとつ驚くのは、円月弁当から斜めに法輪寺下まで新しい道路が延びていることだ。このために10軒ほどは立ち退く必要がある。それでもこの斜めの新しい道路は現在の法輪寺前のきわめて狭い道路を拡幅するよりかははるかに安価で済む。法輪寺前の道路はバスが行き交い、あまりの狭さによくぞ地元の人が交通事故に巻き込まれないなといつも思っているが、道路両側に家が迫り、拡幅する場合、それらの家全部を撤去や建て替えをしなければならず、莫大な予算がかかる。いずれにしてもこれらの新しい道路はすべて筆者の自治会内にある。そのため、いつ出来るのかは知らないが、将来は自治会の住民の家並みや顔ぶれが大きく変わる。もうその頃筆者はこの世にいない。そう思ってわが家を見ると、これら新しい道路計画からうまく外れているだけではなく、駅の真横でもあって、おそらくどこかのデヴェロッパーが目をつけると思える。そうなればなるべく高額で買ってもらって、もっと静かなところに引越すか。あるいは以前から考えているように、四条大宮や西陣界隈の建て込んだところに行くか。ともかく駅前のそんな変化が、去年辺りから本格化し、そのひとつが大きなホテルであり、また駅前広場の整備だ。そして、筆者は後何年自治会長をやる羽目になるかわからないが、いつも矢面に立って業者と住民との間の伝達役をせねばならない。そのひとつの写真による変化を伝えるのが、このカテゴリーのこのシリーズでもある。