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●嵐山駅前の変化、その44(駅舎、広場)
の射し加減で季節と時間帯がわかる。同じ角度で撮影しながら、季節や時間帯を変えることで、全体として変化に富んだ写真を撮ることが出来ると考えたのが、昨日の最後に掲げたわが家の裏庭の向こうにある畑の一角であり、それと同じものが駅前写真だ。



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だが、畑の写真はある程度同じ光景が季節ごとに巡って来るのに対し、駅前は工事中であるから、どの光景も一度限りで元に戻ることはない。人間の生活は、その裏庭の向こうの畑にも、駅前の工事中の光景にも近い。毎年同じことの繰り返しのようでいて、年齢を重ねることは変化することであり、また自身のそうした自然な変化とは別に、周囲の変化に対応しての変化もある。たとえば失業、病気、あるいはその逆に結婚や出産だ。自分に陽がどう射しているか、あるいは射していないのか、それを確認しながら陽の射す場所を求めるのが人間だが、他人から見ればとても陽が射しているとは思えなくても、本人のやる気が陽射しを感じ、また他人にもそれを感じさせる。この前向きの思いは動物や植物にみな具わっている。先日富士正晴の随筆の中に、家の近くのコスモスが、陽射しが少ないためにあまりにも小さな花を咲かせ、それを見ていると悲しくなるとあった。懸命に生きようとする本能があるのに、環境が成長をはばむ。人間にもそれがあるだろう。あるいは、富士が感じたことは、富士の思いの反映であって、他の人ならば別の思いを抱くかもしれない。小さくしか育たない花を悲しいと見るより、むしろそこまで育って逞しいではないかという見方だ。発芽さえしなかったかもしれないのに、どうにか陽射しと水と土があって、小さいなりに育つことが出来た。大きく育つことに比べると悲しい姿かもしれないが、発芽しないままの種子からすれば開花しただけでもたいしたことだ。また、大きく立派な花を咲かせる姿が悲しみの反対に位置するとは限らないかもしれない。そういう姿のコスモスも悲しみを抱いているかもしれないし、またそうでなくてもその姿を悲しいと見る人間がいるかもしれない。成長の姿の大小や盛衰で悲しみの度合いが決まるのではなく、存在そのものが悲しいとも言える。だが、それを前提として、なお小さな花しか咲かせない日陰のコスモスが悲しいと富士は思ったか。
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 春の雪は京都市内ではきわめて珍しい。そういう日があることを見越してカメラマンは夜半から待機して、明方に美しい雪景色を求めて出かけるのだろう。3月30日はきっとそんな日であったに違いない。筆者もそんなカメラマンの気分になって、筆者としては珍しいまだ早い朝の時間帯に駅前に行った。来年春の雪があっても、駅前はすっかり変化していて、ホテルが嵐山をさえぎっている。それはそれでまた面白い光景かもしれないが、視界が遠くまで見通せないのは圧迫感があって、ビルが建ち並ぶ街中と変わらない。陽が射してそれなりに変化を見せるビルであろうが、変化をもっと感じさせてくれる山や雲が見える方が楽しい。それで筆者は裏庭の向こうの畑や、またそれ以前から毎月
山並みの写真
を撮っている。山並みの写真はホームページに掲載しているので、ほとんど誰も見ていない。だが、その写真は今後もほとんど変らぬ景色として筆者には大切なものとなる気がする。で、その山の写真はたいてい午後の逆光気味の時間帯に撮るので、黒っぽい写真となって面白くない。それがよくわかっているのに、朝起きの苦手な筆者はついつい午後に思い出して撮る。黒っぽいその写真と、朝焼けに染まる写真を見比べると、とても同じ山とは思えない。そしてやはり陽射しに染まるきれいな光景の方がいい。陽が射すことは外的な要因だが、陽が射す日を待ちながら内面に陽を輝かせることがまず大切だ。それが若い世代の特権であっても、老齢になってもその気持ちを忘れないでいたいものだ。
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 ところが、富士が書くように、日陰の小さなコスモスを哀れと感じるようになるのが、そして生存の悲しみを思うのが老齢であるかもしれず、それはそれで自然なことかとも思う。昨夜TVで、判決が下ったある事件について伝えていた。その事件は小さな女の子が継父と母親にいじめられてベランダで衰弱死したものだ。今はそのマンションに別人が入居し、その人は女の子のために毎日おやつを供え、手を合わせていると言う。優しい人があれば鬼のような父や母がいるということだが、継父がその子を折檻したのは、表向きはしつけでありながら、その度合いが過ぎていじめに鈍感になった、あるいは積極的にそうすることに快感を覚えたためだが、妻の連れ子が憎く、また妻は新しい旦那の機嫌を取るために折檻に加担したという図式だろう。そこには女の悲しい性が見えるが、折檻され続けた子どもは、そういう母やまた継父の態度を見透かして、それに馴染めずに本能的に反抗的な態度を取ったのかもしれない。子どもをネグレクトする行為は増えており、そうした子どもの生活を伝えるドキュメンタリー番組を数日前にも見たが、親がストレスを抱え、その解消を子どもに向けるという図式は、社会のひとつの縮図で、その親たちは、勤め先や人間関係で同じようにいじめられることに似た扱いを受けていることが多いとも思える。会社の鬱憤を晴らすのが、帰宅後の家庭、特に子どもたち相手ということだ。そして、そうして育った子はまた同じような親になりがちかもしれない。これもみな陽射しが少ない、環境の悪い場所で多数がひしめき合って暮らすためかもしれない。簡単に言えば貧困ということだが、経済的にゆとりがあっても心の貧しい人はいる。昨日の午後2時から3時、筆者は裏庭に射す眩しい光をぼんやりと眺めていた。クーラーのない部屋で、気温は30数度はあるが、その静かな真夏の陽射しを見ていて筆者の心はとても満ち足りた。遠い昔の夏にもそんなことを感じたことがある。数十年経っても同じことを感じていることは、きっとこれからも同じだろうと思う。真夏の暑さをそれなりに心地よい、またいとおしく思う気持ちは、筆者が真夏の生まれゆえかもしれないが、夏は夏しかないものがあって、それを楽しんでやろうと思えばこそではないだろうか。小さな宇宙の自分はまったくの日陰にいるも同然かもしれないが、こうして書くことが出来るだけでも何となくありがたいという気がする。
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by uuuzen | 2010-07-25 11:55 | ●駅前の変化
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