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●嵐山駅前の変化、その40(脇道、駅舎、広場)
めるもの、つまり人生の夢や目標を持っていないと退屈だと思うが、何となくその日が無事ならそれでよいと考える人も多いだろう。



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去年の今頃に亡くなった友人Nの趣味は、映画を片っ端から見ること、推理小説を読むこと、酒を飲むこと、おいしいものを食べ歩くことであった。老人になればたくさん食べられないし、楽しい時期はせいぜい60までと言っていたが、その言葉を裏づけるように早々と逝ってしまった。おいしい食べ物の話ばかりするのは、隠居した老人のような趣味で、あまり感心出来ない。また、漫然とおいしいものを食べるのではなく、器や食材のこと、それに調理のことに関心を広げることを好む筆者は、Nと食べていても少々退屈なところがあった。そんなNがぽつりと、人生は自分で面白いと思うことを仕事にして生きるのが一番だと言ったことがある。あまりに珍しいことなのでよく覚えている。その意見は普段筆者がNに言っていたことだ。いつもNはそれに反論した。仕事とはただただ辛くていやなものであり、その苦痛を忘れるために仕事が終わった後はおいしいものを食べて酒も飲むと主張していた。Nは心底自分の仕事が辛かったのだ。その反動で、仕事を終えれば毎日ネオンの輝く街に向ったのだ。いろんな店でおいしいものを毎日食べていると、体にはよくない。本人は栄養をつけるためと言っていたが、薬と思っていた食べ物が毒になった。数日前のTVで、沖縄の長命の家系を調べると、老化を防ぐ遺伝子のSIR2が作用していると言っていた。この遺伝子は誰でも持っているが、活動しない時とする時がある。毎日摂取するカロリーが少なく、また繊維質をたくさん食べるとその遺伝子は動き始める。これは言い換えればあまりろくでもない食べ物ばかりを食べていると長生きするということだ。何年か前に親類の兄さんが笑いながら、「人生はおいしいものをたくさん食べて早う死ぬか、まずいものたべて長生きするかのどちらかやで」と言った。これは誰でもよく知ることだ。それが先のTV番組では遺伝子の側面から見たに過ぎない。科学が発達して遺伝子情報がいろいろとわかっても、結局そんなものは大昔から人間が察知していたことだ。目からうろこが落ちることというほどのことは何もない。
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 おいしいものをたくさん食べて早死にしたのは、たとえば開高健を思い出す。長生きする人が味わえなかったものを短期間に経験することが出来て、それで早死にしたというなら、それはなかなか公平な話だ。人生というものの辻褄が合っている。だが、人間の貪欲さは限りがないから、そのうち毎日カロリーが高くておいしいものばかりを食べてなおかつSIR2の動きを活性化させようとするだろう。そしてそうなった時、また別の不具合が生じ、それをまた抑えるための薬を発明しているに決まっている。そのTV番組では90代の元気な一族が何人も紹介された。また長生きはいいことばかりではなく、悲しみがあるとも言っていた。ある90代の女性の娘は60代半ばで癌で亡くなったのだ。長命の血筋と思っていたのに、そうではない人もいる。長生きが悲惨であることは、『ガリヴァー旅行記』に出て来る。そこでは死なない人がどれほど不幸かが描かれる。元気で長生きはいいが、薬漬けならば人生の楽しみもない。Nはそういうことも予想したのかもしれない。なので、若い時から悔いのない好きなことを面白くやり続ける人生がいいと思ったのだろう。好きなことを楽しくというのは、他人から見て決してそうは見えない場合があって、「そんなに苦労して哀れなことだ。もっとゆっくりすればいいのに」と思う人もあるだろう。だが、身の周りにある人間が造ったあらゆるものは、これ以上はないだろうというたねや仕掛けを用いて、どれも精いっぱいの努力を通じて産物だ。人間自身がそうだ。その精密な仕組みは、これではないという試行錯誤の進化の果てに形作られたものだ。その人間が精いっぱい努力するのは、人間として理想的な姿ではないか。とはいえ、話は全く逆で、それを意識することがすでに動物の真理からは外れていると見ることも出来る。人間は大き過ぎる頭に振り回されているだけなのかもしれない。理想的な生活は、若い頃にとことん努力し、その後は「そんなに苦労して哀れなことだ。もっとゆっくりすればいいのに」と思うことかもしれない。ただし、ゆっくりして退屈しなければいいが。また、経済的にゆっくりも許されないという人も多いだろう。あくせくするだけの人生というのが、大多数の人間の姿か。
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 TV番組でついでに思い出した。臓器移植の法律だ。死んだ本人が移植のカードを持っていなくても、家族が提供を決めることが出来ることになった。それで、生きている間に家族で話合って、死んだ時に提供するかどうかを決めておく方がよい。筆者は提供したくない。自分の体は自分のもので、まだ使えるとしても見ず知らずの他人に提供したくない。よく日本で難病の子どものための募金があって、そのまとまったお金を持ってアメリカに臓器移植手術をしてもらいに行くニュースがある。美談として扱われ、募金しない人は何だか居場所がないように感ずるが、筆者は募金を求められる場に遭遇したことがない。これもどこまで信じていいかわからないが、そのようにして大金を集めた家族がたとえばアメリカにわたって手術を受けようとする時、冷ややかな眼差しが周囲にあったりする。アメリカには同じ病気の子がいても募金など集まらず、そのまま死んで行く場合が多いからだ。日本から大金を持ってやって来るのは、手術を順番待ちにしている大勢の子どもを飛び越えて優先的にしてもらえることだ。TVで紹介されるそうした難病のための募金の陰に、手術の機会に恵まれない子どもがたくさんいる。臓器移植の手術も金次第なのだ。これは命は金持ちほど長らえることが出来ることを示す。拝金主義が幅を利かせるのは当然だ。ごく慎ましやかに生きた人が、死んで臓器を他人に提供する時、大金持ちの患者にということはままあるだろう。死んだ本人は誰に臓器が移植されるかまで指示は出来ないからだ。貧しい者が死んでもなお金持ちに臓器まで提供する図というのは、あまりにもグロテスクだ。それを思うと筆者はとても臓器を提供する気になれない。また、金持ちの中にはおいしいものばかりを食べ続けて、それで肝臓や腎臓を悪くしたので移植の必要が生じたという場合もあるだろう。とすればそうした人物が誰かから臓器を提供してもらうのは、人身売買と変わらない。実際そうした臓器提供は東南アジアなどでは行なわれているようで、それは昔貧しかった日本で自分の血液を売って生活した人がままいたことの延長と思えばうなづける話だ。何が言いたいかと言えば、脳死したのであるから、後は臓器を他人のために役立てるのが美談でありますよという世の中の動きだ。もっとさまざまな意見を活発に交わし、問題点も明確にしたうえで法律を決めるべきと思うが、そうとは思えないのが気になる。ともかく、筆者は臓器提供しない。自分の体はそのままの形で焼いてもらいたい。
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 駅前の変化のカテゴリーに関係のない話をしている。駅前の変化は少しずつであるし、また写真を見ればわかるので、埋め草的に別の話題でもいいかと思う。それに、こうして書いている話題は、それなりに筆者にはある思いがあってのことだ。何かの伏線ということではなく、別に考えていることがこうした話題として半ば無意識に出て来る。気分のバイオリズムのせいもあるだろう。以前書き溜めたことではなく、連日こうして即興で書いていると、自分の心の動きがある程度客観視出来る気もする。そこで冒頭の一文字「求」をまた思い出すと、Nは人生においしい食べ物や酒を求めていて、それで辛い仕事に耐えることが出来たが、筆者は何をいつも求めているのだろうかとふと思う。こうして書いていて誰かに読んでもらおうという気もあまりなく、いったい何が楽しくて生きているのかなと。Nと同じように楽しいことはいろいろとあるが、本質的なことは何か。これだけは絶対に譲れない何かがあるか。このために自分は生きていて楽しいというものがあるか。そう考え始めると、ただ漫然と生きているだけかなとも思えて来る。料亭で豪華なものを毎日食べたいとは思わず、喉が乾いてもビールの飲むことを我慢して氷水で済ますことが出来る。たまには外国旅行したいなと思っても、TVでそうした場所を見るだけで行った気分になる。これもみな金欠病のなせるわざだが、かといって無性に金がほしいとも思わない。さて、そんな筆者でも何年も前から行きたいと思っていたところには、ついに行くことがある。3月26日には1泊旅行して山陽地方をあちこち周った。それにはひとつ大きな目的があったが、まだ書いていない。それはいいとして、今日掲げる写真は昨日と同じ種類のもので、旅行に行く朝に撮った。ちょうど駅舎の駅名看板がリニューアルしたばかりで、これは桜の開花直前と計画したことによる。嵐山に来る大勢の人に、生まれ変わった駅舎を見てほしいという考えで、これに気づいた人はある。正確な日を忘れたが、桜が満開になる前のある日、駅舎の写真を撮っていると、「あれっ! 駅がきれいになった!」と叫んだ男性がいた。駅舎が古びると建て直すか化粧直しをする。まさかどこかの駅にあったものを取って来て臓器移植的な再利用はしないだろう。人間は子孫を残せば用はない。Nは3人の子をもうけた。60前に亡くなっても、生物的に言えば役目を果たしていた。
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by uuuzen | 2010-07-20 00:43 | ●駅前の変化
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