昭和初期だと思うが、NHKのTV番組に、嵐山駅のプラットホームを大勢の人が降りる様子を撮影した白黒フィルムが数秒映し出された。
番組の宣伝用のもので、1週間ほど前からコマーシャルのように何度か放送され、そのたびにその番組を楽しみに待った。嵐山駅の戦前の様子がもっと見られると思ったからだ。ところが予想とは違って、目を凝らして最初から最後まで見たにもかかわらず、コマーシャル的に使用された客で溢れ返るプラットホームの映像は使われなかった。その番組は関西だけの放送のはずで、しかも2回目と言っていたから、不定期ながら、シリーズとなっているようだ。ひょっとすれば第1回目にその場面が使われたのかもしれない。それはいいとして、説明がなかったのに、筆者がそのわずか2秒ほどの映像を見て嵐山駅と感じたのは、現在のプラットホームと同じ緩やかな坂をこちらに向って上がって来る様子と、それを見下ろしながら撮影した人の位置が、現在の駅にも同じ場所があって、どこに立って写したかがよくわかるからだ。おそらくその頃と今の駅が基本的には何ら変わっていないことは、今の駅のプラットホームがとても古いものであることから明白だ。もちろんすっかり大きなビルに建て変える場合は別だが、駅舎というものは化粧直しはよくされるものの、建った当初からほとんど変化しないことが想像される。それは先の番組で紹介された関西私鉄のターミナル駅の、戦前と現在の様子の比較からもよくわかった。80年ほど前から嵐山の駅舎があまり変化していないのは、筆者の想像の範囲内のことで、あまり驚くに当たらない。筆者が番組で期待したのは、その他の駅前などのシーンであった。大量に降りる客たちが、駅前をそぞろ歩きするといった光景が見たかったのだ。駅舎はさほど変化なくても、駅前はかなり様変わりしたはずだ。それは筆者が約30年前に嵐山に住んだ頃から比べても確かなはずで、とにかく畑や樹木が激減し、家屋と駐車場が密集した。自家用車が一家の1台以上という時代になったため、嵐山に来る客は電車をあまり利用しなくなった。春と秋のごく一時期は、先の戦前のフィルムのように、プラットホームからこぼれ落ちるほどの大量の人が押し寄せるが、そのほかは静かな駅だ。そのために駅舎を改装する必要もほとんどなかったと思える。
嵐山駅は電車の進行方向の北詰めに改札口があるだけで、そのことは付近に住人にとってかなり不便だ。サラリーマンの住宅は改札口の南に密集しているからで、本当はプラットホームの南端からも入れるならばありがたいが、阪急としてはよけいな人件費をかけたくないから、そんなことは今後も起こらない。わが家も改札口から南にあって、南方から北上して改札口に至る。その道を「脇道」としてこのカテゴリーで最後に紹介したのは
「嵐山駅前の変化、その30」で、その末尾に掲げた写真は今年の3月15日に撮ったものだ。改めて書いておくと、写真右端が駅で、左の塀は嵐山タクシーの車庫だ。今日は17日撮影の写真を掲げるが、ほとんど変化はない。奥に黄色い幟旗が見えるのは、前に書いたように、筆者が駅員に頼んで据えつけ許可を得たもので、
「安全パトロール実施中」と印刷されている。これを風で飛ばされないように厳重に緑色の金網フェンスに結わえたが、そのフェンスで囲われた場所には、昔自転車がたくさん勝手に停められた。そのためにその狭い脇道を南下する自動車が大いに困り、住民が抗議したことで、阪急は自分の土地の一画を金網で囲ってしまった。その面積は10坪もないと思うが、そうして囲った空き地の周辺に今度は自転車が停められるようになった。その様子が今日掲げる写真に見える。だが、正確に言っておくと、自転車の半分はすぐ左の白いテントで覆われた阪急駅舎内倉庫から引っ張り出されたレンタル自転車だ。これを駅前広場北に阪急が臨時で設置した青空のレンタサイクル店の敷地に持って行くのだろう。その青空店は、ホテルが出来る敷地の向い側の林の中に造られたが、ホテルが完成すると、その1階の一角、つまり臨時の青空店の真向い側に移動する。そうなるのは来年の秋だ。話を戻して、遺法駐輪に業を煮やした阪急は時々トラックに全部を運ばせるが、自転車は駅を利用するサラリーマンや主婦、学生のもので、改札口が南方にもあればおそらく激減すると思える。また、自家用車時代になって人は歩くのを億劫がり、充分歩ける距離でも自転車を使うようになった。駐輪問題は嵐山駅よりひとつ南の松尾駅ではもっと深刻のようで、駅の横の空き地をつぶして駐輪場を造っていることは、このカテゴリーでも紹介中だ。だが、嵐山駅の方がむしろ自転車を利用する人ははるかに多い。そうした人は駅前北側の、桜の林に至るまでの道から東側の森の木陰に停めていて、その数は数百台はある。これらをごっそりとトラックに山積みして持ち去っても、またすぐに同じようにたくさん停められる。つい先日、阪急電鉄の社員と話をする機会があって、そのことを何気なく訊ねた。すると、いずれその遺法駐車の場所は整備するようで、松尾駅のように有料の駐輪場が出来るか、あるいは自転車が停められなくなる。
さて、駅脇道は駅の両側にあるが、線路は川と同じようなもので、なかなか向こう側には馴染みがない。そのため、筆者はわが家のある側の脇道の写真のみ撮って掲げる。それにはもうひとつの理由がある。わが家のある駅南側の脇道の方が住民が多く、また変化に富むからで、駅前変化を示す写真のひとつとして掲げるのにふさわしい。15日と17日ではほとんど変化はないとしても、現実は時としてほんの1日でがらりと変化する。しごく健康と思っていた人が、ある日癌が発見され、半年後にはこの世にいない。同じことは景色にも言えるし、この脇道にも当てはまる。脇道の写真を撮ろうと思ったのは、そうした変化を察知出来たからで、それはタクシー会社に勤める人から聞いた。それで撮っておこうと思った。だが、今となれば、この脇道写真の中央に見える3階建ての独身者用のマンションが建つ前、あるいは写真左端にわずかに見えるレンガを模したタイルの建物が建つ前に、同じ角度で写しておけばなおよかったと思う。その写真は、戦前の嵐山駅プラットホーム上に溢れ返る観光客の映像と同じように、古い時代の空気が漂っていたはずだ。筆者はそういう時代を潜りながら、今ここにいることを改めて思う。