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●『レゾナンス 共鳴 人と響き合うアート』
鳴出来るかどうかで価値が決まるのがアートというのはわかるが、その共鳴には大きさの大小があるし、またどう持続するかは量り難い。



●『レゾナンス 共鳴 人と響き合うアート』_d0053294_17544776.jpgそれにアートを展示する側にすればたくさんの人が入らないことには失敗とみなさざるを得ないから、より多くの人に来てもらうことがより大きな共鳴を得たことであり、よりアートを示したことになる。つまり、いかにも民主主義のように、現代はアートは多数決で決まる。そのため、アーティストは人気獲得に血眼になり、そこそこ人気を予め獲得している芸能人までがアート界に参入してさらなる不滅の人気をと売り込みに懸命になる。アートは人間が作るものであるから、結局は人間のしがらみに支配され、時代によって、人の考えによって、価値が作り上げられる。作品そのものには変化がなくても、それを見る人の目が変わるから、過去に大いにもてはやされたものでもいつ忘れ去られるかわからない。まるで流行歌手と同じだ。だが、次々と新しいアーティストが登場するから人々にとっては退屈しのぎになってそれでいいのだろう。アートは消耗品だ。それに鮮度が命だ。そのサイクルが年々短くなっている。アンディ・ウォーホルが言ったように、誰でも15分くらいは有名になれるのであって、ネット時代になってまずます現実はそうなって来ている。そんな移り変わりの激しい世の中であれば、古いものはさっさと消えるべきなのだ。そして、そういう時代の激しい変化に耐えられなくなると、おそらく晩年のロジェ・カイヨワのように、人間の作るアートなどもうまっぴらで、自然が作り出した石、しかもその内部にこそ興味があるという境地に至ってしまう。筆者もかなりそういう段階に近づきつつあるが、それは昨今のアートのアホらしさを思うからでもある。だが、そうした日替わり定食的な軽いアートは現実の反映つまり共鳴であろうし、それゆえアートの本質であるかもとも思うし、またアートそのものにはさっぱり共鳴出来なくても、そういうアートを作り出すしかない立場には共鳴出来る部分がある。
 それは簡単に言えば、当人が好き勝手をやっていることに共鳴出来て、その好き勝手こそが人間に残された最後の自由と思うからだ。アートは結局のところ好き勝手だ。何ものにも囚われない部分が大きいほどよい。ところがそうしたアートを発表、展示するとなると、人脈と金脈が欠かせず、好き勝手という部分が限りなく減少する。誰かを喜ばせることが必要になるからだ。それはアーティストを売り込む人であったり、また展示場に訪れる人であったりする。つまり、アートは共鳴であるから、自分個人が好き勝手というだけあることにとどまることは出来ない。他者が欠かせない。その他者を思った途端にアートはある意味では限りなくつまらないものになる。その意味で筆者はベストセラーの小説などは読まないし、そうした小説には読者を喜ばせよう、そのことによって小説を多く売ってやろうという、つまらない精神が見え見えになっている。だが、世の中はいつでもそういう思いを巧みに見え隠れさせながら立ち回る者に光が当たる。それはアーティスト個人の力では世の中に出る機会がほとんどなく、それを売り込む人が必要であるからだ。筆者はある作品を前にして、それを本人がどう売り込もうとしているか、また売り込む人が現われるタイプのものかをよく思う。アーティストとして有名になるには、本人がまず積極的に世の中に出ようとして、他人と多く関わり、売り込みをする必要がある。そこにアートとして不純さが混じると思うような人はまずアーティストにはなれない。なれなくてもけっこう、自分は好き勝手に作るだけと言って、生涯全くの無名で、誰もその人が作品を作っていることなど知らなかったし、またこれからも知ることがないといったアートを筆者は昔からよく思う。それは見えないから存在しないことと同じではあるが、そういう思いを馳せることが出来る点で全く無意味な存在ではなく、またむしろそういう完全な自由な立場が理想的なアートに思える。有名になって経済的に豊かになると、確かに生活が楽になり、より大作を作る環境が得られるが、その反面失う自由がないかと思う。逆説めくが、自由を希求しながら、結局不自由な泥沼にますますはまり込む。金は自由への近道であるようでいて、自分で落とし穴にはまる場合があるということだ。
 大阪天保山のサントリーミュージアムで開催中のこの展覧会、ひさしぶりに面白いものであった。内容としてはほとんど国立国際美術館がやりそうなもので、それをこの美術館がやることに拍手を送りたい。先週金曜日に行った。平日であるためか、館内はガラガラであった。こういう現代美術系の展覧会が人気のないのはわかる。難解という思いが即座によぎるからだ。だが、展覧会名にあるように、作品に対峙して何か共鳴するものがあればそれはアートの役割を受け取ったことであり、その共鳴させる何かをどれほど持っているかという、いわば作品が裸になって自分を晒しているところに出会う機会はどんな展覧会にも共通することでありんばがら、現代アートの場合はまだ評価が完全に定まっていないという不安定な部分をまとっているため、裸になっていることはより大きい。つまり、肩書きや名前といったことに囚われずに鑑賞出来る。これは作品にとっても鑑賞者にとっても真剣勝負の出会いと言える。すでに巨匠と目される人の展覧会は、感動しなければきっと自分の感性が鈍いのだと誰しも思って出かけるから、感動は贋のものになりやすい。逆に言えば、相手がほとんど見たことも聞いたこともない存在であれば、どうせ無名だろうと侮ってしまうことになりかねないが、そういう人は最初から現代アートを見ようとはあまりしない。また、無名と思っていても、たとえばこうした企画展で紹介されるほどには現代アートの分野ではそこそこ名前が知られているから、自分が無知なだけで、そういう自分の視野の狭さを補ってくれるのがこうした展覧会であると言える。つまり、筆者にとってはもっとも見たい展覧会なのだ。近年はこうした現代アートの最前線を紹介する展覧会がかなり増えて来たように思うが、まだまだ少ない気がしている。どういう人を取り上げるか、また来場者が期待出来るかどうかなど、いくつも問題があるのだろう。
 今回意表を突かれたのは、映像作品と音楽作品があったことだ。また、キーファーやロスコの絵画を展示して、そうした評価が定着した巨匠と呼ばれる人ともっと若い人の作品を対比させて現代の様相を示そうという試みもよい。キーファーもロスコも大きな出自を背負った画家であるから、本当は日本で理解がどこまで及ぶのか筆者は懐疑的だが、こうした若手の作品とともに並ぶと、別の見方も出来る気がする。それは相互の作家が共鳴しているという肯定的な見方と、またそれとは正反対に越えられない垣根が相互の作家の間には歴然とあるという一種の疎外、孤独感の確認で、その背反するふたつ思いがそのまま持続することもまたある意味ではこうした展覧会の意義ある役割によるものであるし、そこに足を運んだ自分の運命みたいなものも思って、それはそれで楽しいと言いくるめることが出来る。出かけて自分の目で見て確認しなければそういう思いは何も生じないから、展覧会にせっせと行く意味はやはりあるのだと自分に言い聞かせる。さて、今回は20名の作品が展示された。どこかで別の作品に接していると思える作家もあったが、名前までは覚えていないので、新鮮に接することが出来た。以下順に気になった作品の感想を書く。最初はイケムラ・レイコの油彩画だ。全体に部屋を暗くし、作品にスポットライトを当てていた。光の当たり方が作品全体にまんべんなくではなく、外部はかなり暗い。これは作家がそう指定したのだろうか。そこがいかにも舞台じみた、ちょっと姑息な見せ方で、描いておしまいではなく、展示の細部にも工夫を要するこだわりがかえって作品のつまらなさ、脆弱さをあらわにしていると思える。作品は夢の中で見るようなところがあって、ムンクの風景画とどこか似ながらもっと日本的だ。こうした個人の思いに鑑賞者がどこまで共鳴出来るのか知らないが、ともかく本人が好き勝手をやっているところはよい。次の部屋はマルレーネ・デュマスの水彩による人物の顔。以前国立国際美術館で見た。ケープタウン生まれの女性で、今はオランダに住む。この女性の作品は強烈なオーラがある。それは痛々しく赤裸々で、そのあまりの裸さ加減に日本とはまるで違う国、考えがあることを改めて思ってしまう。そして、それを考え始めると恐いほどに、作品には真実味があって、なかなか立ち去り難い。だが、それは従来の美術のように、美しいものを描くという概念からは遠い。美しいものより真実なものとムンクは言ったが、その意味でムンクの子と言えるかもしれない。簡単に描いたような大きな顔であるのに、それが本物の人間以上に本物に見えるのはどうしてか。
 次は映像の部屋で、ポール・マッカシーというアメリカ人だ。小さな男女の子どもの人形を持ち出してマヨネーズやオイルなどを鼻歌混じりで塗りたくる様子を撮影したもので、本人の顔は映らない。7分ほどの間に人形はすっかりどろどろになってしまうが、この男は気が狂っていると見るのも自由、幼児に返って遊んでいると思うのも勝手といった作品。ヨーコ・オノが昔はまったプライマリー・スクリームのセラピーにどこかつながっているような、いかにもアメリカ的な、そして孤独を感じさせる。次はいくつか作品を飛ばして、海の見える大きな部屋での作品だ。これは40個の同じ大きさのスピーカーを部屋の周囲に立て並べ、そこから20分近い声楽曲を流す。解説書には本展のテーマの共鳴を最もよく表現する作品とある。筆者が部屋に入った時はちょうど曲が始まったところで、全部聴いた。曲が終わると5分ほど歌い手たちの談笑があるらしいが、その部分は聴いていない。スピーカーが40個というのは、40人の男女の聖歌隊ひとりずつに1個のスピーカーを割り当てて録音したからで、つまり40チャンネルの録音再生だ。そのため、あるスピーカーから急に声が流れて来たりして、通常のステレオ以上の音響が楽しめる。曲は16世紀のイギリスの作曲家トマス・タリスの『40声のモテット』で、実際の聖歌隊は今回のように円形に陣取って歌うことはないであろうから、再生された曲は限りなく現実の音に近いにもかかわらず、どこか不自然さがある。そしてその不自然さは、この曲をたとえば教会の中で聴くのとは全く違った別のアート体験であって、それをそのまま面白がればよい。また、その不自然さは、各声部をくっきりと1個ずつのスピーカーから発するという点で、楽譜あるいは作曲家の頭の中をそのままよく聴き分けられるように仕組んだことに発しているから、タリスの頭をある意味では覗き込んでいる感覚による。アートとはそもそも自然に対する不自然な行為だ。タリスの脳裏に鳴りわたっていた音楽が、始めてこうして正確に聞こえるようになったとも言える点で、しかもそれを実現するのに、400年の歳月と技術が必要であったことを思うと、アートのしんどさと限りなさを改めて確認する。もうひとつ紹介しておこう。映像作品で伊東宣明の『死者/生者』。画面が左右ふたつに分かれていて、左には眼鏡をかけたおばあさんが写り、自分の人生は孫に囲まれて幸福だななどと語ったり、また「五木の子守り歌」を口ずさむ。かと思えば急に病院のベッドで酸素呼吸している瀕死の老婆が写る。画面右は作家が同じように横になりながら、終始左画面のおばあさんの語り口を模倣する。この作品の意味が筆者にはわからなかったが、後で考えると、ふたりいると思ったおばあさんは実は同一人物であることがわかった。自信はないが、そう考えないとこの作品の意味が伝わらない。おばあさんの元気な頃と、そしてもうすぐ死ぬという時のふたつの映像を組み合わせながら、その孫であろうか、作者はおばあさんの語りを口真似し続ける。これは身内であるから可能な作品で、その意味で悪趣味を超えて真実味が伝わる。死は圧倒的なもので、おばあさんはもうこの世にいないのに、映像の中では生きている。そのあたりまえのことが再確認出来て何やら心に染みるものがある。記録ということの意味、そして死と生の意味を問うていて、さて、生きている間に自分も何を好き勝手してやろうかと思う。
by uuuzen | 2010-05-25 17:55 | ●展覧会SOON評SO ON
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