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●アルバム『GREASY LOVE SONGS』解説、その3
め込み画像はネット時代になってアイコラ(アイドル画像に別人の部分をコラージュして自分好みのものに改造する)画像として盛んになったが、『CRUISING WITH……』のLPジャケットでは見開き内部にマザーズのメンバーの顔写真に機械の部品らしきものがコラージュされている。



昔それを初めて見た時にはかなり印象に強かった。またその写真のメンバーたちはみんな動物のようで、ザッパは特に頭に角の生えた悪魔みたいに処理されている。顔に落書きを施す悪ふざけは珍しくない。若者の特権みたいなもので、青春の頃は誰でも一度はそんなことをした経験がある。見開き内部の機械部品コラージュは、そうした若者文化を思い出させつつ、それとはまた違った奇妙な味わいがある。それはザッパが演奏だけではなく、録音技術に詳しいことを思い出させ、その成果が『CRUISING WITH……』であることも示している。つまり、ジャケット内容と音楽は釣り合いが取れていて、この見開き内部の部品はめ込みのメンバー写真に相当する音楽性を知らねば、ザッパの意図を理解したことにはならない。それはさておいて、今回の『GREASY LOVE SONGS』は『CRUISING WITH……』と同じ名前で発売することは出来ないところから考え出されたが、このタイトルを暗示する言葉をザッパ自身が発している。20曲目の「SECRET GREASING」がそれだ。この曲の冒頭はラジオ番組に出て、『CRUISING WITH……』を宣伝するザッパで、その後にザッパの語りがある。それはLPジャケットでは裏面に印刷されていた「THE STORY OF RUBEN & THE JETS」の全部を起伏豊かに話すものだ。そうした録音があったとはかなり意外で、またザッパの書く文章が朗読された場合、それがどれほど人々の動きを想像させるかの最適な見本となっている。声だけではなく、背後にはレコード針のパチパチ音の入っているが、これはブックレットによると、ビッグ・ジェイ・マクニーリーの「Benson’s Groove」という曲だ。1968年11月、パサディナでの録音とあるが、『CRUISING WITH……』の発売直前のことだ。また、ザッパが「THE STORY OF RUBEN & THE JETS」を気に入っていたことがわかる。
●アルバム『GREASY LOVE SONGS』解説、その3_d0053294_0314049.jpg

 この「ルーベンとジェッツの物語」は、当時のザッパが自分の体験を反映させた物語を書くことを好んだことをよく示すが、ザッパは元来饒舌で、しかもこうした物語をその後も書き、それらは作曲されてアルバムに収められることが多かった。その代表がたとえば『ジョーのガレージ』で、「ルーベンとジェッツの物語」の物語はその原点でありながら、話がかなり継続しているところがある。それはバンドを結成したが、結局はほかの仕事に就く者の話だが、そういう例がプロの世界でも少なくないことをザッパはよく知っていた。また、そういう筋立ては、プロのミュージシャンとして成功しているザッパからすれば、負け犬に水をかけるようなもので、かなり辛辣に思えるが、多少はそういう思いもありながら、そこにはそのように生きてもそれが本人によければ否定はしないという寛大さも見える。「ルーベンとジェッツの物語」はルーベン・サノという19歳の男の話で、彼女がうるさく言うのでバンドをやめてしまう。バンドには大勢のメンバーがいて、ルーベンひとりがいなくても誰も困らなかったのだ。お金を貯めていたルーベンは車を買い、彼女とモーテルに行って寝るが、ここには女をどのようにしてモノにするかという、年頃の男の生態が端的に描かれている。つまり、バンドをやって目立つか、格好いい車に乗るかだ。車はザッパの後の曲によく登場する。そして、当然ザッパは車にうつつを抜かすより、音楽にはまり込んだし、それでいくらでも女をモノにすることが出来た。それは車組みからすればうらやましい格好よさだ。さて、バンドを抜けたルーベンはメンバーの誰からも惜しまれなかったが、バンド甲子園のような大会に行くのにバンドは車が必要で、その車がなくなったのは残念であった。ルーベンはそのように便利屋程度に思われていたのだが、それでもバンドの連中とはその後も仲がよい。バンドは有名になり、主要メンバーのひとりがジェッツという名前の前にルーベンを加えることを提案した。とても格好よく響き、風格もどんと増すように思えたからで、ルーベンもそう思った。そしてバンドはほかのバンドの演奏とははるかに違う音楽にみんなが熱中することを願っている。彼らはみな社会的に認められるような若者で、ガールフレンドについて歌うことを望んでいる。この下りはビートルズを連想させる。実際これを書いた時のザッパの脳裏にはビートルズがあったはずだ。そのことは、バンドの連中たちはみんなに手を握ってほしく、また自分たちの音楽で踊ったり恋に落ちてほしいと願っているといった、次に出て来る表現からわかる。「手を握る」はビートルズ曲の代名詞みたいなものだ。だが、そこにはビートルズに対する当てこすりはないし、またビートルズの音楽を特定しているわけでもなく、1955年スタイルの音楽を演奏するとしているので、『CRUISING WITH……』に収録されている音楽を指している。
 「ルーベンとジェッツの物語」は省略が多くて、意味を取りにくい。だが、青春の1ページがいかにもよく表現されていて、その懐かしさが、収録される曲に実によく合っている。そして、このザッパの文章から曲を見つめると、ザッパの思いがよりいっそうよくわかるだろう。文章の最後は、大文字で書かれている。ここで初めて「WE」が出て来るが、それは物語から現実に戻って、ザッパの体験談だ。つい最近バンドの主要メンバーのひとりの男との会話で話の落ちとしているが、それでわかることは、「ルーベンとジェッツの物語」はそのメンバーから聞いた話ではないかということだ。実際はそうではないかもしれず、多分にザッパの脚色が加わっているだろうが、案外古い友人が成功したザッパを訪れ、十代の頃のことを懐かしく話をしたのだろう。さてその落ちだが、男はバンドのメンバーの半数ほどだけがリハーサルのほとんどの時に目立っていたと話し、そしてこう言う。みんながおれの願いを聞いてくれるなら、何をあげてもいい。おれに高校で歌わせて気分よくさせてくれるなら。この落ちは、男のバンドが高校レベルの下手なものであることを言っているのか、あるいはまだ若い娘にキャーキャーと騒がれるという男の自惚れ、騒がれたいという願望を描きたいのか、判断に苦しむところがある。アルバムに収録されている50年代風の曲は、その男が所属するバンド、つまりルーベンとジェッツが演奏するものになぞらえているし、またアルバム・タイトルもそうなっている。かつての高校生がバンドか車で女を誘い、バンドをやめて車に走った男ルーベン・サノはバンドとは相変わらず交流し、またバンドはバンドでそれなりに有名になったようだが、みな好青年で古くて単純なダンス音楽を演奏して、高校時代を懐かしんでいる。そこにザッパとマザーズを対比せよということだ。ザッパ・マザーズがどれほど汚い格好で登場し、またそれが良識派からひんしゅくを買ったか、さらにその音楽は50年代のものとは全く違って、素直に男女が抱き合いながら踊れるものではない。ところが、時代が変わって、そうしたものを格好いいと思う人も現われるし、それほどにショー・ビジネスの世界は大変好みが変わる。音楽を女を引っかける道具くらいにしか思っているととんでもないことになるが、そんな連中は放っておいてもすぐに業界からは消える。高校レベルとは違う音楽、そして回顧趣味に堕さない今風の工夫、それをザッパは『CRUISING WITH……』で披露して見せた。ルーベンのように音楽の才能はないが、それでいて好感の持てる奴というのは誰にでも思い当たるふしがある。ザッパにもそういう友人がいただろう。それはこのアルバムを収録した当時のマザーズにもいた。だが、そういう連中と一緒にやり続けていては、時代にそれこそ取り残されて「ルーベンとジェッツの物語」そのものになってしまう。『CRUISING WITH……』は、やがてザッパがマザーズを解散し、実力のある者だけを集めて演奏することになることの予告にもなっている。

●2003年4月1日(火)夕方 その1
●アルバム『GREASY LOVE SONGS』解説、その3_d0053294_0323066.jpg曇り空で暖かい。窓から間近に見える山には花咲く桜が1本あり、その隣りには背丈が3倍もある桐の木が3本ばかり見える。この木は5月に花をつけると全体をうす紫色に変えるが、今は蕾ばかりでオレンジ色とうす茶色の中間色に見える。枯れ木とはまた違った風情のあるその色が好きだ。視線をもっと目を下にやると、紅梅が1本満開で咲いている。さらに目を自分の家の庭にまで寄せると、椿の木がピンク色の八重咲きの花をいくつもつけている。この椿の木に去年は大量の小さな毛虫が発生した。それを知らずに数匹の毛虫が肌に触れたため、数か月間も背中や肩にかぶれた痕が残った。毛虫を全部殺虫剤で退治し、すでに葉が食われてぼろぼろになった枝を払った後、無残にも枝葉はスカスカ状態になった。来春は花が極端に少ないだろうと予想したが、やはりそのとおりで、例年の数分の1の量だ。去年はそれだけ庭に出ることもなしに忙しくしていたのだろう。あるいは都会育ちの筆者は自然には憧れがあるとはいえ、自分で庭の手入れなどをこまめにやるほどには自然派では決してないようだ。雑草を引き抜いたり、たまに球根を買って来て植えたりする程度はやるとしても、毎日庭木の手入れすることはない。そのためすぐにいろんな虫が発生する。これは手入れとは無関係に住みついているのだろうが、毎年のように大きな百足が3階にまで這い上がって来る。除草剤など撒けば退治できるだろうが、そこまではしたくない。もうそろそろ噛まれる頃かと思いつつ、百足が近くに来るとなぜかそれがわかり、不思議にもまだ噛まれたことはない。あのぎらついた黒い表面と、それをひっくり返した時の人間の肌と同じような色合いは、鋼鉄と生身の柔肌を合わせ持っているようで、なおのこと気味が悪い。話は急に変わるが、ネット・オークションで化石のページを先日見ていると、三葉虫がたくさん出ていた。北野さんの縁日で以前、三葉虫の巨大な化石を売っているところを見かけたことがある。長さ30センチ以上はあった。あまりにも立派で高い価格が予想されたので、いくらかとは訊ねなかった。2万円ほどなら買ったかもしれないが、桁がひとつ違うか。先日秋芳洞に行った時、門前通りといった風情の土産店通りに並ぶ半分の店が化石や大理石などの石細工品を売っていた。その中の1件に30センチ長さの三葉虫の化石が売っていて、20万円ほどしていた。妻にあんなのがほしいと言うと、買って帰ったら家出してやるとの返事。起き場所にも困るし、飾っても決して美しいものではないので、あのような大きな三葉虫の化石が売れることはほとんどないと思うが、それでもそんな化石に惹かれる気持ちは理解できる。ネット・オークションに出ていた三葉虫の化石は数センチ・サイズの数千円程度のものであったが、画面に大きく掲示されていた画像は光の当て方が上手な接写写真で、まるで巨大な三葉虫に見えた。岩の色はうすく、しかもきめ細かい砂岩のせいか、三葉虫の各細部ははっきりと残っていて、まるで生きているように見えたほどだ。百足ともそんなに遠くなく、現在の甲虫類に分類されるその姿を見ていると、本当は不気味な生き物だったかもしれないが、ゆでるとカニやエビのよに赤くなって美味しいかも知れない。遺伝子操作で現在に三葉虫が蘇れば、きっと三葉虫鍋などの料理が登場するだろう。さて、なぜこんな話になって来たかと言えば、目を遠くの桜や桐から順に近づけて来て、ふと自分の室内を見ると、この文章を打つワープロの真正面の本棚に先日の北野さんの縁日で買ったばかりのメノウの標本が目に入った。500円也のシロモノで、ハガキ大の箱に12個のメノウのごく小さな断片が貼りつけてある。まるで小中学生の教材といった感じだ。今でも500円程度で売っているのではないだろうか。それはいいとして、この12種のメノウはどれも色がよい。また質感がさまざまで面白い。デジカメ画像ではまずその本来の味が伝わらないだろう。どれも長さは2センチほどのわずかな断片だが、各メノウの本質がよく出ていて、わざわざ大きなものを買わなくてもよい気にさせてくれる。特に気に入っているのは「黒めのう(Black Onyx)」だ。表面がつるりとしていて、使い込まれて表面に光沢が出たべっこうの質感に近い。「苔めのう(Moss Agata)」もいい。これは透明な中に濃い緑色のもずく状の斑がいっぱい浮いている。創作ケーキか和菓子にこんなものがあったかもしれない。そう言えばこの12個は断片はどれもケーキや和菓子を思い起こさせる。自然の中にすでにこんなに美しいものがあることを知ると、人間の創造力の限界を感じずにはおれないが、晩年のロジェ・カイヨワもしきりにそう思ったようで、石や化石に関する著作が目立って行く。人間の作った芸術とやらにはもううんざりしてしまったカイヨワの憂愁な気分がもうそろそろ筆者にも訪れるかもわからないが、今のところはまだそうはなっていない。今また思い出した。貴石博物館だ。これはカイヨワの著作にも出て来るし、それとは別に昔入手した展覧会カタログで知っていたのだが、フィレンツェに行くことがあればぜひともこの博物館に立ち寄りたかった。去年の日記に書いたかもしれないが、メノウの話が出たのでもう一度書いておく。あまり有名な博物館ではないが、さほど大きくないフィレンツェの町でこの博物館を探すのは簡単であった。去年ついにその博物館の前に立った。だが臨時休館日で内部には入れなかった。それが心残りで、またフィレンツェには行ってみたい。メノウが和菓子に似ているということからまた思い出した。長野の松本市に開運堂という和菓子屋がある。ここで作る「真味糖」というお菓子の美しさは和菓子の本場の京都にもない独特のものだ。チューインガムのような長方形で、1センチほどの厚みに切ってひとつずつ和紙に包んであるのだが、真っ白な菓子の中にねずみ色と黄色を混ぜたような色合いのくるみの実が入っている。その断面がちょうど化石やメノウの模様に見える。また、くるみがあたかもたなびく雲のように菓子の白地を背景として小さく並んで入っている断面の様子は、自然の造形の妙をそっくりそのまま応用して何かに見立てかのような美しさで、食べてしまうのがもったいないほどだ。味もさることながら、その菓子全体に漂う造形感覚は今までに見た和菓子の中では最も忘れ難い。白地にくるみ色の2色の対比は楚々としており、寡黙なメノウをふと思わせる。カイヨワがその菓子を見ればどう言ったであろう。やはり自然の石の方が神秘的できれいだと言ったであろうか。それに真味糖のくるみは自然のものをそのまま加工せずに使用しているから、それが美しいのは当然でもあろう。偶然にカットされて並ぶくるみの断面形は人間の技巧を越えたものでふたつとして同じものがないが、どれも同じように美しい。秋芳洞の土産物通りにはメノウ板もいろいろと売っていたが、10数年前に真っ青で大きなものを2枚買って所有しており、それと同じ程度に迫力のあるものはなかった。その青は人工的に染めたものらしいが、それでも気に入っている。たまにそれを取り出して光にかざすとうっとりしてしまう。
by uuuzen | 2010-05-14 00:32 | 〇嵐山だより+ザッパ新譜
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