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●『興福寺国宝展』
シュテファン・バルケンホール展を観た後、天王寺の大阪市立美術館に行った。1日に3つ以上の展覧会を観ることは昔からごくあたりまえのようにして来たが、さすがに最近はふたつ観れば疲れを感じる。



●『興福寺国宝展』_d0053294_0103648.jpg奈良の興福寺へは大阪や京都から日帰りで充分訪れることが出来るから、こうした寺の国宝展が美術館で開催されてもあまりありがたい味はない。もらった招待券がなければ行くつもりもなかったが、どうせ大阪に出るのであればついでに足を伸ばそうと思い、2週間ほど前から心づもりをした。幸いと言うか、今年は空梅雨で6月だというのにほとんど雨らしい雨が降らない。そのため足元を濡らす心配をせずに天王寺公園を歩けた。興福寺所蔵の国宝展がなぜ大阪の美術館で開催されるのか、見開きの立派な展覧会チラシは以前に入手していたが、じっくり読むこともなかったから、理由がわからないまま展覧会に出かけた。この展覧会のTVコマーシャルは盛んに流れているし、電車の車内吊り広告でも大いに宣伝されているから、主催者の意気込みがわかる。だが、こうした大きな寺の展覧会は毎年のように開催されているから、仏教に関心がある人しか欠かさず足を運ぶことはないだろう。美術館前に着くと、ゴッホ展とは一転した寂しさで、せっかく用意された入口前の大きな2、3のテントは人影が全くなく、待たずに中に入れた。去年の秋の応挙展では大変な人の列であったから、それと比べると拍子抜けがする。展覧会の終わりを後2週間ほどに控えた天気のよい日曜日でこれであるから、平日はもっと人が少ないだろう。ゴッホ展に完敗した興福寺展という図式が明白だが、それは先にも書いたように、興福寺にはいつでも行けるし、いつでもその国宝館に入れるという気があるからだろう。この展覧会が大阪以外に巡回されるのかどうか知らないが、東京で開催されればもっと人は入るのではないか。
 興福寺の国宝館を訪れたのはもう10年以上も前になる。それ以前は中学生の遠足だった気がする。お決まりの阿修羅像目当てであったが、もちろんそれ以外にも有名な像がいくつもあるのは知っている。それでも奈良に行くたびに猿沢の池にほとりに立ってたくさんの亀(100や200どころではない)が泳いでいるのを必ず立ち止まってしばし眺め、時にはそのほとりに立つ茶店に入って冷たいものでも食べるといったことをしながら、その池から見える興福寺の五重の塔を仰ぎ見ると、もうそれだけで興福寺をすっかり観た気がするから不思議だ。つまり、奈良にはなくてはならない寺であり、あまりに当然の如くあるので、ついその存在が気になりつつも普段は詳しく知ろうとはしないでいる。もっとじっくり境内を散策するとかすればいいのだが、いつもほかの場所を巡って帰途につくから、こうした美術館での特別展によって根本的に興福寺の何かを知ることが出来るのはいい機会だ。これは、先日の新聞を見ていて知ったことだが、興福寺の南円堂の扉が1年に1回しか開かれないのに、この特別展の開催に併せて6月26日までは毎日開かれ、中にある不空羂索観音像が拝めるとあった。残念なことにこの特別展を観たのがその最終日と同じであったため、もう不空羂索観音像は10月17日の秋の特別公開の1日しか見ることは出来ない。今、手元のチラシを見ると、興福寺展は8月から9月に仙台に巡回するとのことだ。東京でないため人集めにはちょっと苦労するかもしれない。不空羂索観音像は珍しい観音像であるらしく、日本でもそう何体もないと聞いた。これは今年の1月だったか、東大寺の法華堂を訪れた時に説明を受けて知った。法華堂に行く気になったのは不空羂索観音像を観るためで、その時堂内の諸像を堪能し、金剛力士像の足元にへたばる餓鬼像の顔をスケッチした。法華堂の不空羂索観音像は大変見事なもので、不空羂索観音と言えばその像を指すほどだが、光背の放射状の光の輝きを表わす表現が特に印象に深い。宇宙的感覚がある。この不空羂索観音像は立ち姿だが、チラシを見ると興福寺南円堂のものは坐像で光背も随分と形が違う。当然のことながら、法華堂のものは天平時代、南円堂はそれより400年ほど後の鎌倉時代のもので、ありがたみの度合いはいささか異なると言えばバチが当たるか。
 それはさておき、興福寺は奈良国立博物館や東大寺、春日大社のすぐ隣に位置しているため、奈良に出たけるたびにそのそばを通る。ここ2、3年であろうか、猿沢の池の北側にある興福寺境内に至る石の階段をのぼってすぐ右に位置する五重の塔のその向かい側(西側)がずっと工事中らしく、急ごしらえの塀に覆いがかかったりしていた。その意味が今回の特別展で初めてわかったが、興福寺では2010年に創建1300年を迎えるらしく、その年から江戸時代に消失した中金堂(ちゅうきんどう)を再建し始めるらしい。中金堂は興福寺の中心をなす建物だが、江戸時代に大火に遇って消失したままになっている。興福寺は平安時代にすでに数回の火事に見舞われているというが、そのたびに復興された。今に伝わるのはほとんど奇跡に近いかもしれない。これはかなり大がかりな工事になるが、美術館に入ってすぐ、その模型が据えられていた。この大事業のいわば浄財集めとして今回の特別展が企画されたようだ。中金堂のあった場所は今は何も建っていないが、そこを発掘調査した結果、再建に関係するさまざまな情報を得たらしい。当初と同じ規模の建物が同じ場所に出現するのはとてもいいことだ。今の日本の豊かさを思えばもっと早くに再建出来たはずだが、文化財があまりに多いために予算が回らないのかもしれない。中金堂は10年ほど要して再建される予定だったと思うが、それに伴って回廊なども整備されればもっと立派な、それこそ世界遺産にふさわしい本来の興福寺の姿が出現するから、それは早く観たいものだ。興福寺の宝物館には有名な像がたくさんあるが、その建物は本来あるべきものではなく、国宝に指定されている諸像の仮の住まいだ。本当は立体曼陀羅のように建てられて境内の建築物とその内部の諸像配置こそが理想なのだ。興福寺は筆者にとっては何だか不幸な寺という印象が強く、それは明治政府になった途端の廃仏棄釈の動きによって寺が崩壊寸前にまで行ったことを思うからだ。
 今手元に週間朝日百科『日本の国宝』がある。全110冊のうち、興福寺は3冊を充てられている。これは法隆寺、東大寺、それに京都の東寺と同じ扱いであるからその重要さが再認識出来る。『日本の国宝』では1ページをさいて「興福寺の廃仏棄釈」と題する紹介がある。興福寺の廃仏棄釈は有名であるので、大抵の仏教美術に関心のある人ならおおよそそのひどさは知っているが、それでもここまでひどかったのかと思わせられる内容で、明治政府の神道国家化というヒステリックとも思える徹底した仏教弾圧を今さらながらに恐ろしく思わないわけには行かない。いつまた日本がそのようになるかわかったものではないと心配するが、いつの時代でもそうした集団ヒステリーは無知から生ずるもので、教育や政治の重要さを痛感する。興福寺の五重の塔を焼却してその金具を売ろうとしたところ、民家に延焼する危険があるというので住民の反対があったというが、全く空恐ろしい話だ。もし燃やされていたならあのあたりの風景はどのようにひどいものになっていたかと思う。もしそうなっていたら入江泰吉は写真家になっていなかったかもしれない。明治になってからの仏教遺産の無価値化への道はたちまち国宝級とも言える寺宝の海外流出を促し、興福寺の財宝も無残にも処分されたが、一方で奈良の骨董商は大儲けをしたという。商売人はどんな大切な遺産でも自分の欲得のためにはどこかへ消えても平気ということだ。奈良の商店街を歩いていると、骨董商がぽつぽつと目につくが、そうした店から興福寺の宝も流出したのかとつい想像してしまう。それでも興福寺には多くの国宝に指定されるものが残ったから、その創建時や再興した時の威容の凄さを思い知る。
 バルケンホールの荒削りの木彫作品をたくさん観た1時間ほど後に、国宝の四天王立像や十二神将立像、文殊や金剛力士など、多くの力強い鎌倉期の仏教彫刻を間近に接すると、同じ具象(人体)の彩色木彫りであるのに、こうも表現が違うかと絶句あるのみであった。どちらがいいかわるいかの問題ではなく、人間はこうも違うようにあることが出来る不思議さだ。最初の展示室の四天王立像は圧巻で、彩色がかなり劣化しているが、元はどのように派手であったかを想像するが、この点に関しては確か1年ほど前のニュースで、どこかの機関がコンピュータで復元し、それをCD-ROMに収録して販売を始めるとあった。その時に完成画像の1枚が提供されていたが、あたかも本物を見るような雰囲気があった。それはいいとして、四天王立像の足元に踏みつけられる餓鬼が表情豊かで、法華寺のそれとほとんど姿は変わらず、500年やそこらでは鬼の進化しないことがわかった。それにしてもチケットにもあるように、鎌倉時代にもなると、餓鬼はうんと造形的には変化に富み、それなりのキャラクター的愛らしさも増していることがよくわかる。阿修羅像は予想どおりやって来なかったが、それは完全な木彫りではなく、木を芯には使用しているが仕上げはもっと脆い乾漆技法によっているので、動かすのが困難なのかもしれない。どんなものでも今や遠いところに移動して展覧することが可能になっているかのようだが、現地へ行かなければ見られないというものがあってよい。週間朝日百科『日本の国宝』の興福寺の3冊を見ると、展覧会にはやって来なかった作品が数多い。板彫りの十二神将立像もそうした例だか、これはバルケンホールのレリーフ作品をどこか思い出させるもので、そう考えるとバルケンホールにこの興福寺の諸像を見せたい気がする。また、展覧会には『日本の国宝』には載っていない作品もいろいろと展覧出来たが、厨子に入った吉祥天は浄瑠璃寺のものよりもっとふっくらとして、しかも座像だが、色はきれいに残っていて印象に強く残った。厨子の奥に描かれた波間の白象の絵は鮮明なカラー写真(『日本の国宝』には掲載されていない)が厨子横に展示されていたが、こうした気配りも気持ちよかった。京都国立博物館所蔵の『興福寺曼陀羅図』をコンピュータ処理によって各像を立体化(とはいってもただ平面の絵をそのまま少し立体的かつ拡大して見えるようにしただけ)して説明に使用していたが、これは画集ではわかりにくい事柄を少しでもわかりやすくしようという心遣いで、展覧会ならではの試みであったと思う。『興福寺曼陀羅図』は寺の諸像が各建物の中にどのように配置されていたかを知るための重要な資料となっているが、まだ解明されていないことも多く、それもまた興福寺の複雑な歴史を示していて、興味を抱けばきりがないことをよく伝える。また、多くの絵画の中でも江戸期のまとまった絵巻物の展示はよいアクセントになっていた。奈良の寺と言えば江戸時代とはあまり結びつかない印象があるが、決してそんなことはないことがよくわかった。それでも上田秋成が書くように、奈良は鹿が入るというので昼間から家を閉ざして、すっかりさびれた感じがするというのは今でもあまり変わってはいない。そのさびれた感じが落ち着いてたまにはいいのだが、京都もいずれ同じようなことになるだろうから、今のうちに日本がこうした奈良や京都の文化遺産を今後どのように保存するかをもっと真剣に考えた方がよい。
 それと関係して、日本の仏教が今後どうなるかさっぱり予想もつかないが、梅原猛が言うように、本当に仏教の中から偉大な僧が現われて、これからの日本のあるべき精神世界を支えるような存在になってくれればと思う。興福寺が明治になって廃れたのも地元住民とは意識が乖離し、しかもろくな僧がいなかったからだろう。これは上田秋成も言っているように、江戸後期にはもう僧侶たちがすっかり駄目になっていて、その延長上に廃仏棄釈が起こって一気に歴史ある寺が衰退した。若冲のまとまった作品が相国寺から出たのも同じ理由からだ。今後の日本で神道一辺倒に戻す動きをする政治家が出ないとも限らないが、神仏習合の意味をもっと学校で教えるなどして、日本が辿って来た歴史と形ある仏教遺産の重みといったものを次世代に継いで行かなくては、本当に新しい何かも生まれ得ないと思う。古い、たとえば法隆寺をなぜ国費をかけて保存する必要があるのかといった馬鹿げた意見を吐く友人がいたが、古いものをただ古いだけで意味がないと考えるのは野蛮なことであって、古いものの中にまだ解明されないあらゆる事柄や、その古いものを今後も保存して行く中で培われる才能や技術というものがあることを何ひとつわかってはいない。本当に新しいものは古いものを核としていて、古いものがなくなればただ停滞のみが永遠に続くことを知らないのだ。新しいとものを感じるには古いものを知っているからであり、より古いものをたくさん蓄えている国はそれだけ新しいものをまだまだ生む力がある。1000年という年月のスパンで仏教遺産が数多く日本には伝わっていることの凄さを改めて確認するには、こうした寺宝展はゴッホ展以上に美術館で何度も開かれる必要がある。中金堂が落成すればまたきっと展覧会が開かれると思うが、2020年頃まで生きているどうか。生きていてブログをまだ続けているかどうか。
by uuuzen | 2005-06-28 00:11 | ●展覧会SOON評SO ON
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