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●『韓国の民画と絵本原画展』
華な連休が好天に恵まれた。筆者は遠出をするのでもなく、いつものようにせいぜい展覧会巡りを、しかも1日だけ費やした。



●『韓国の民画と絵本原画展』_d0053294_10162294.jpgさて、展覧会の感想を書くこのカテゴリーは、見た順ではなく、いつも書きやすいもの順にしている。そして書きにくいものは、やがて書く機会を逸してしまうが、それはそれとしてあきらめることにしている。今年は展覧会を見る回数が少々落ちている。行く気にさせるものが毎年減少している気もするが、不景気もあってあまり大きなものが多く開催されないのか、それよりも筆者が昔に見たようなものが何度も繰り返されているのか、そのどちらでもあるだろう。今日書くのは西宮市大谷記念美術館で開催中のもので、即座に同じ美術館で開催された『民衆の鼓動 韓国のリアリズム 1945-2005』を思い出した。同展はてっきり去年だったと思っていると、もう2年前で、あまりの時の過ぎるのが早いことに驚く。つまり、この美術館を訪れるのは2年ぶりであったが、たまにこの美術館に行くことを筆者は好む。閑静な住宅地の中にあって、もう少し阪神の香櫨園駅に近ければ、もっとたくさんの人が訪れると思うが、その駅から歩く距離がまたいいのかもしれない。5月4日の昼過ぎに訪れたが、『民衆の鼓動』展と同じほど館内はガラ空きで、これでは赤字必至と思ったが、宣伝が行き届いていないのか、韓国の絵本などに興味のない人が多いのか、これもどちらでもあるだろう。今国立国際美術館で『ルノワール展』をやっているが、その宣伝の凄さは阪急梅田駅を見るとわかる。あれだけ大きな宣伝をしても観客が多いと充分に元が取れるのであろうが、それに比べると、最初から地味な内容の今回の展覧会は、大きな宣伝をしたところであまり入場者の増加は見込めない。何事も宣伝とはいえ、それには地道な展示を繰り返して基礎固めをする必要がある。若冲人気にしたところで、戦前から大きな若冲展は開催されていたから、そうした積み重ねがあってようやく今の状態に至った。そう考えると、今回の李朝民画や絵本の原画は、数十年後にもっと人気が高まっている可能性がなきにもあらずだ。人は勝手なもので、誰も振り向かないものには冷淡なくせに、大勢の人が注目するものには本質も知らずに飛びつく。
 『民衆の鼓動』展は他の6都市に巡回したが、今回も同様に各地を周るのだろうか。チラシを先日どこかで入手し、それをどこへしまい込んだかわからなくなり、作夜30分ほどかけてようやく見つけた。それによると、主催は西宮市大谷記念美術館、神戸新聞社となっている。これは同館での開催がそうだという意味で、他都市ではチラシのデザインも含めて主催者名は変わるのではないだろうか。あるいはそうとも思えないことがある。それは図録だ。今回は李朝の民画はソウルの嘉会民画博物館という、民画専門の小さな美術館から持って来られた。そして同館が発行している図録が今回そのまま販売された。いい内容で、2100円であったので買おうかと思ったが、何せハングル表記が多く、文章がわからない。今回の展覧会が巡回するのであれば、その日本版を作ったのではないだろうか。それは比較的簡単なことであろうし、それがないというのはやはり巡回しないのかもしれない。韓国の民画関係の図録は日本では筆者の知る限り1冊あるのみで、それはそこそこ高値で売られ、日本での李朝民画の人気をよく示していると思えるが、なぜ民画のみの展覧会、そして図録がこうも少ないのかと昔からとても不思議だ。韓国ドラマ・ブームに便乗して李朝の民画がもっと日本で一般的な人気を得るかと思っていると、案外そうではない。相変わらず日本は韓国美術には冷淡であり、また無知に等しい。いや、これは近代以降の中国美術に対しても言える。中国が無視出来ない国力を持って来たので、それなりにその現代美術も紹介されるが、まだまだ少ない気がするし、韓国のものとなるともっとそうだ。ここには、アジア蔑視とまでは言わないにしても、美術は明治以降日本が率先して欧米風を取り入れて来たという自負があり、中国や韓国の現代美術はいわゆる日本からすれば後れた手法によるものに過ぎないという見方があるように思える。それはさておき、民画の図録は結局買わなかった。その後、別の美術館に行く予定があったので、重いのは面倒であったことと、もう1冊絵本原画の図録も売られていて、どちらを買おうかと迷ったからだ。そのもう1冊は、小冊子程度のページ数の少ないもので、1000円少々であった。主に絵本作家たちを紹介した内容で、民画についても簡単に触れてある。だが、それも買わなかった。絵本の簡単な紹介なら、実際の絵本を買う方がいいと思ったからでもある。また、今回『民衆の鼓動』展の図録見本がソファの上に2冊ほど目についたが、同展の図録は100冊以上が在庫として残っている。その人気のなさを思えば、今回の2種の図録もまだ当分の間はありそうだ。確認するのを忘れたが、絵本原画の図録はひょっとすれば西宮市大谷記念美術館が作ったものか。だとすれば、この展覧会は他都市に巡回しないだろう。そして、そうであればこの美術館の大きな意気込みが伝わって頼もしい。同館の館長の講演が会期初日にあったらしい。この展覧会が日本各地を巡回するのであれば、そのたびにその館長は講演に行くことになり、それは少し現実的でない気がする。
 チラシには、企画協力として、メディアリンクス・ジャパンという会社名が上がっている。これは東京の会社で、主に絵本原画関係の展覧会を企画し、また絵本の出版を行なっている。それは外国で人気のあるものを翻訳して日本で売るというもので、あるいは日本の絵本を外国で紹介してもいるのだろう。なかなかいいところに目をつけたものだ。絵本の原画は軽くて小さく、運送費が安くて済むし、展覧会は大人から幼児まで幅広い世代に歓迎されるであろうから、年間にいくつも開催出来るし、ひとつくらい人気がなかっても他のもので損失を補填出来る。おそらくそのようにして絵本原画展をここ数年のうちにたくさん企画して来た会社だ。今回も同社が韓国の絵本に目をつけ、それだけではちょっと物足りないところがあるというので、嘉会民画博物館と交渉して作品を借りたのであろう。筆者は韓国の絵本については全く無知であったので、今回は絵本原画のみであっても見に行ったが、そこに絵本原画と関係する民画の展示もあるというのであるから、これは興味が大いにそそられた。なぜ民画と絵本を並べたかだが、これは絵本作家たちが語っているように、絵本は昔の民画と同じという考えによる。後述するが、これはなるほどと思わせる。また、そうした考えに立って韓国の絵本作家が絵本を作っているとなると、これは日本の絵本作家とはある意味ではかなり違って、絵本が独自の内容を持つであろうことを思わせる。何事も意図が肝心で、それが奥深く、また幅広いものであるほど、作品は人を打つ。日本には李朝民画のような伝統がなかったので、日本の絵本作家の原点がどこにあるかとなると、筆者は即座に判断出来ないが、日本画家や洋画家が絵本の原画を描くといったこととは別に、イラストレーターなるものが登場して絵本に手を染めるということも起こった。そのどちらにも大なり小なり欧米の絵本や欧米の美術からの影響があるが、日本画家による絵本の場合はやまと絵の伝統が活かされることがあり、日本の絵本には平安朝からの伝統が引き継がれていると見ることも出来る。そこに、李朝民画を現代の絵本と考える韓国の絵本作家たちの作品を対峙させると、両国の絵本の違いが大きいことを知る。だが、今回筆者が思ったのは、確かに韓国古来の伝統文化を絵本の内容に盛るという作品が多いにしても、その表現のノウハウは日本が培って来たものが目立つのではないかということだ。これは日韓併合という歴史があったことからしても、また戦後の日本が絵本の分野でさまざまなめざましい作家を輩出して来たことを思えば当然で、日本の絵本や作家の影響を受けないでいることはまず不可能であろう。あるいは、直接日本の絵本作家ではなく、日本の絵本作家が模範としたイタリアなど外国の絵本作家の作品を研究するという態度もまたあったに違いないが、それも突き詰めれば日本の絵本あってのことだ。
 ただし、韓国の絵本が日本や欧米の絵本の研究を踏まえて独自のものを生むというところが凄いところだ。模倣だけに終わらないどころか、そこには紛れもない韓国風がある。それは韓国に独自の文化があり、それを充分に表現し得ているからだ。韓国の絵本作家の層がどれくらい幅広く、また大きいものかは今回の展覧会だけで判断することは出来ない。今回の作家たちは、特に李朝民画との関係で韓国文化を色濃く示すものだけが選ばれていることは容易に想像出来るし、企画者の恣意が入っている。それをどこで補えばよいかだが、今回は会場最後の売店で、展示された作家のもの以外の絵本が売られていた。そのほかに、2年ほど前にどこかで開催された韓国の絵本原画展の図録もあって、それらを概観すると、民画とは無関係と言ってよい作風、内容のものが目立った。つまり、想像する以上に韓国では絵本が多様で、これは大きな発見であった。そうした絵本のうち、韓国あるいは海外で有名になったものに限り、日本で翻訳されて出版されるが、そうでないものはまず日本で見る機会がない。だいた韓国の本が日本で出版されることが珍しいから、それも当然だろうが、一方では絵本は日本の作家だけでも非常に多くいるので、わざわざ韓国のものを紹介する必要もない、また紹介しても売れないだろうという考えがあるのだろう。そこには絵本は美術ではなく、どちらかと言えば幼児や児童の教育に関係するもので、であるならば他国の文化を色濃く反映したものよりも、まず日本独自のものが優先されるから、韓国の絵本は日本の幼児児童にはむしろ不要と言える。韓国で絵本の人気があるのは、教育熱の大きさから理解出来る。ただその教育というものが、日本で言う公文式のような反射神経の発達を促すようなものだけではなく、美的なものに対する関心を増加させる意味合いがあって、そのために絵本が盛んであるとすれば、これは日本と同じで、子どもに良質のものを与えるという思いから発している。その良質という点が美術と関わって、こうした絵本原画点をこの美術館は昔から盛んにやって来ているし、今では日本中どこかでいつも絵本原画展が開催されるまでになったが、今回の展覧会の面白いところは、李朝民画と絵本をつなげると発想だ。絵本が教育のひとつとして位置づけられるのであれば、民画もそうだということになるが、実際民画にはそういうところがあった。
 チラシ裏面の文章によると、民画は李朝末期から20世紀前半にかけて、中産階級の庶民の家庭で飾られていた絵の総称とある。画題はおおよそ決まっているが、儒教の教えを説く文字の一部を絵に置き換えた文字絵や富貴の画題を扱ったもの、あるいは日本にはない「冊架図」といって、書物を積んだり、その間に花瓶を置くなどした本棚を描く絵など、大きくいくつかに画題を分けることが出来る。儒教国家であった李王朝では、日本ほどに絵画は重視されす、絵師の地位は低かった。学のある人が水墨画を描くことはあったが、専門の絵師は旅をしながら儒教の教えを絵に溶け込ませて、つまり教育的な側面を大きく持った絵を家庭に供給した。それは絵であるので、子どもたちは儒教の教えよりも、絵の面白さにまず反応したであろう。それが現代では絵本ではないかというのだ。民画の作者は多くが無名であったようで、落款はなく、また画風はあまりさまざまで、いくらたくさん見ても次々と目新しい画風のものが出て来るという、取りとめのなさを思わせる。つまり系統立てること不可能という自由奔放性がある。概してどれも下手だが、その下手にも段階があって、より上手なものが当然あるが、その上手なものが必ずしも下手なものより味わいがよいとは限らない。日本の美術ならば、画派というものがあって、古い無落款の絵画を見ても、ほとんどどの流派に属すかは即断出来るという安心感があるが、李朝民画は常にゲリラ的で、何がどこにどれほど眠っているかわからない。したがってその魅力に囚われると恐ろしいことになる。簡単に言えばこうだ。たとえば若冲ならば、新発見の作品があっても若冲だとわかり、それですぐに安心出来る。ところが李朝民画はどこの誰がいつ描いたかわからず、しかもある作品をいいと思っていると、それを覆すような別の作品に遭遇し、そのことに切りがない。収集し尽されていないから、研究も尽されておらず、わずかな図録があっても、そこからもれている作品の方がはるかに多く、そのもれている作品の中にどれだけ凄い作があるのかという途方もない考えに襲われる。これは誇張ではない。数年前に筆者はネット・オークションで素晴らしい民画を見た。高値だったので買わなかったが、その画風は他のどの民画にもないもので、あまりのその自由奔放さと実に達者な筆さばきに心底感心した。そうした作は民画ではある意味とても珍しい。だが、そういう作も含んでいることに呆然とさせられる。誰も李朝民画の本当の凄さを知らないと思えるし、また誰にもそれはわかりようのないほど、民画がすでに一般に流布しており、全容を把握することは不可能だ。それは日本の画派や画壇という絵の見方を根底から揺るがすもので、絵というものが本当に何ものからも自由であるべきことの証明もすると思える。
 さて、絵本について簡単に書いておく。どれも韓紙に膠と顔料で描かれたもので、緻密な画風のものが目立った。若い女性が半分以上占めていたと思う。イ・オクベの『お話袋のお話』(2008)、ハン・ビョンホの『天下無敵の五兄弟』(2009)と『トッケビとおかゆ売り』(2005)、クォン・ユンドクの『仕事と道具』(2008)と『猫はわたしだけのまねをする』(2005)、ハム・ヒョンジュの 『暗行御使(アメンオサ)の虎』(2007)、イ・ユッナムの『水宮歌(スグンガ)』(2003)、チェ・ウンミの『沈清歌(シムチョンガ)』(2003)、ペ・ヒョンジュの『ソルビム~お正月の晴れ着』(2006)と『ソルビム2~お正月の晴れ着(男の子編)』(2007)。どの絵本も全点の原画が展示されていたと思う。ただし、文字は記入されておらず、それは製版段階で活字が重ねられた。ある意味ではどれも日本の絵本作家の画風を思わせるものだが、技術的には日韓の差はないと言ってよい。むしろ韓国の方がよりていねいで、李朝民画にある雑さ加減は全く見られない。このことは、李朝時代に緻密に描くことの出来る絵師がいなかったことを否定するし、また一見下手に見える民画も実際はそのようにあえて描いたとも思わせる。韓国の古典文化に密接につながった作品は『沈清歌(シムチョンガ)』だ。これはパンソリの物語を絵本にしたもので、登場人物は仮面を被って写実的に描かれる。だが、作者の腕の見せどころは、実際の仮面劇では、仮面は顔が固定しているから、語りや身振りで感情を示すところ、絵本では絵でそれらを表現せねばならず、そのために、仮面を現実にはあり得ないように、目元や口元を場面ごとにわずかに変化させて表情を作った。これは絵本であるから出来ることであって、その発想は秀逸だ。日本の能をそのように絵本にする才能があるかどうかを考えればよい。ペ・ヒョンジュの2点は韓国の民族衣装を着る少女と少年をそれぞれテーマにする。家具調度などが綿密に考察されて緻密に描かれており、やはりこれも日本でキモノを着る女の子を採り上げて同じような完成度の高い絵本がないことを思えば、伝統文化に対する愛着は韓国の方が日本より強いと感じる。この2点で思ったのは、また少年少女の顔つきで、これは日本のマンガの影響が大きいだろう。同じように取材に多大の時間を費やした作として『仕事と道具』がある。これは子どもたちに職業の多様性と、そこで必要とされる道具に関する知識を与えるのに格好の絵本と言える。日本に似たようなものがあるかもしれないが、もしあるとすればこの絵本と比べさせて日韓の差を感じさせるのもいい。
by uuuzen | 2010-05-07 10:16 | ●展覧会SOON評SO ON
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