光がいつもと違って見えるのは黄砂の影響だ。今日は3月21日の駅前写真を掲載する。円形広場は人が歩くようになった。夕暮れに見えるが、正午前後であったと思う。
いつもとは雰囲気が違って、なかなかよい。駅に電車が着いた直後で、人が続々と出て来ているが、桜はまだ咲いていない。いや、正確に言えば、20本に1本程度は5分咲きと言ってよい。桜の品種はいろいろで、嵐山は長く桜を楽しんでもらいためでもないが、多くの品種が植えられている。駅のホームの横はほとんどが八重の品種で、嵐山ではほとんど最後に満開になる。マスクをしている人が写っているのは、黄砂が花粉と同じく鼻炎にはよくないからか。そう言えば筆者は今なお毎日くしゃみをしているが、この日もくしゃみを連発していた。だが、黄砂はこの日だけであった。光が違って見えるで思い出した。10年近く前か、寺町御池の北にわたる時のことだ。上空にはとても厚い雲があって、雷雨が来そうであったが、西日が真横から強く照っていたため、辺り全体が金色に光って見えていた。太陽が西に傾いていなければ、ただの曇り日であったのが、厚い雲の隙間から太陽が射したのだ。目を西に向けると目がつぶれるのではないかと思うほど光は強かった。こんな光景は生まれて初めて見るなと思いながら、光ひとつで見慣れた景色ががらりと変わることの不思議を思った。そうであるから、肖像写真も同じことなのだ。500円の自動撮影ボックスで自分の履歴書用の写真を撮ると、たいてい指名手配の犯人みたいに写るが、それも光の調子がまずいからだ。写真館で撮ってもらうときれいに写るのは、照明が巧みであるからで、カメラマンは光源について熟知する必要がある。ムードのある空間も光の演出による。裸電球ひとつが部屋の中央からぶら下がっていると、いかにも侘びしいが、それが夜店に使用されればまた情緒がある。筆者は街中育ちなので、青い灯、赤い灯が好きで、それはこのブログ上段のヘッダーのデザインにも表われていると思うが、ネオンを自宅に飾りたいと昔(30年前)から思っていながら、今なおそれを実行していない。先日ネット・オークションで悪趣味な商品として、ムンクの「叫び」のネオンが売られているのを見つけたが買わなかった。それは「叫び」の絵の叫ぶ人の輪郭に沿わせてネオンが貼りつけてあり、白と黄色の2種類の色で光る。絵の高さは60センチほどだったと思う。数種ある名画シリーズの1点で、ほかの数種類はネオン部分がみな原画の部分を適当に選んだという感じがあって、少しも面白いものではなかった。どれも自宅の通常のコンセントに接続出来るので、面白グッズとして使うのもいいが、そのように光るグッズは今こうして書いているすぐ近くに2個あるのに、それを点灯させることは1年に1回もなく、「叫び」ネオンを買ってもそのまま埃をかぶるだろう。思うだけで実行しないことはとてもたくさんあって、そういう「思うだけ池」の中から最も浮上するものに焦点を絞って本当に入手することに向かうが、最も浮上が目立つものは昔から思い続けているものとは限らない。むしろ新しい場合の方がほとんどかもしれない。
3月21日は、渡月橋方面から来た人が、駅前の様子が違っていることに気づいて筆者の目の前で声を上げた。だが、大多数の人は1年に一度は来ないはずで、駅前が変わっていることがわからないだろう。そう言う筆者も駅前のコンビニが出来る以前の木造の古い店がよく思い出せない。過ぎ去るものはどんどん忘れられる。このブログにしても毎日掲げているが、5年前の文章を読む人は、キーワード検索でたまたま見出したからで、それ以外の古い文章は読まないに違いない。古いものは新しいものより価値がない。それで、たとえば筆者がこのブログをやめるとする。そうなれば最新の投稿も日が過ぎるごとに遠くて古いものとなり、もはや誰も読まなくなる。それを知っているからこそ毎日投稿するのではないが、投稿という行為に意味があって、内容は古くてもかまわないと考える。古い文章も書いてすぐの文章もあまり内容に大差ないからだ。自分はこんなことを考えて生きていますよと、誰かに訴えたい思いがどこかにあるのかもしれないが、それよりも人生は心臓の規則正しい鼓動でもあって、その規則の正しさを毎日の投稿になぞらえることで、筆者のようなきままな自由業人は折り目をただすという効果を期待するからではあろう。あるいは、出し惜しみせずに、いつも全部出し切るという思いを持つべきで、やれるところまでやってみようという思いによるか。それにしてもこの2か月ほどは毎日こうして文章を書く必要があって、時には数日後れになったが、ひとつ変化があったのは、ワープロで文章を書いてそれをパソコン用に変換することをせず、そのままパソコンで書くようになったことだ。親指シフトの方が断然慣れて早いが、3階に上がるのが面倒になっていた。それに倉庫と化していることもある。ワープロを使うと気分が改まっていいが、掲載画像はパソコンで見るから、写真について説明するのにいちいちパソコンを見る必要がある。それならそのままパソコンで書いた方が、速さは別として、便利だ。もうひとつパソコンで書く方がよいのは、このブログの冒頭のひとまわり大きな青い文字を毎回変えていることで、その文字をメモ帳に順次記録している。そして過去に使った文字とだぶらないように検索するのだが、それはワープロでは出来ない。そんなこんなの理由で、この2か月は自分の生活も過渡期であった。
以前に書いたように、駅前の変化シリーズは今日でしばらく中断する。数十日程度だ。昨日は駅前ホテルの建設業者が住民会議の開催を来月11日に開催したいと伝えて来たが、それを取りまとめることのほかに、自治会長の仕事が今月来月はとても多い。向こうから飛んで来る矢か弾を片っ端からうまく避けながら前進している気分だが、大きな仕事がふたつ停滞していて、昨夜はうなされて自分の叫び声で半分目が覚め、またそのまま眠った。こういうことが2、3か月に1回程度あって、脳波を調べてもらった方がいいかもしれないが、病院嫌いなので行くことはない。また、原因は自分ではわかっているつもりで、それを取り除けばよい。その原因は当然精神的なストレスだ。書き始めると長くなるので書かないが、そう考えればこのブログは自分の考えを何でも書いているようで、実際はそういうことはない。それでも心身のバイオリズムは意図には無関係に表われているはずで、その意味ではやはり等身大に近い筆者を提示しているとも思える。であれば、夢の中で叫ぶといったことがこうした文章のどこかに反映されていることになるが、ムンクの「叫び」のネオン・パネルのことが頭にあったからか。夢の内容はそれとは何の関係もないが、光の当たらない心の内部が、夢の中ではぽっこりと浮上し、その記憶がこうして書いていることに作用する。現実に夢が混じり、夢に現実が作用する。未来の夢を語れとよく言うが、まだわからない未来が夢のようなものであるならば、過ぎ去ってもう見えないことも夢だ。人間は前後を夢に囲まれながら歩いて行く。このブログの副題「美術や音楽、夢日記などの六味感想戀態思惑歩録」は、なるほどよく出来ていると自賛しておく。「六味感想」はもちろん「無味乾燥」にかけた洒落だが、「六味」は「感想戀態思惑」の6つの文字がみな「心」を持っていることを示す。これが「七味」でないところがミソで、その一味足りないところが、またそれを公言するところが愛敬というものと思っている。