●嵐山駅前の変化、その32(駅舎、広場)
単に1日で風景が変わってしまうもので、今日は3月18日の駅前写真を掲げるが、円形の植え込みであったところはアスファルトが敷き詰められて円形広場になった。



そこにしとしと終日雨が降る。桜の開花もまだで、観光客はひとりもいない。いや、確かこの日、駅を見下ろす場所に立って写真を撮っていた時、そこから10メートルほど離れたところで、合羽を着たアメリカ人らしい中年婦人が桜の林の前でうろうろしていた。同じような観光客らしき若い女性ふたりに地図を示しながら、何やら訊ねているようだが、どうも埒が明かないようだ。筆者は写真を撮った後、そこに近寄った。すると、若い女性ふたりは地元のおっちゃんが来て安心といった顔つきになって婦人のそばを離れて、渡月橋の方面に去った。婦人は英語で書かれた京都市内の観光案内パンフレットを持っている。その嵐山地区の端に印刷されたマークを指で示しながら、モンキーパークはどこかと英語で話しかけて来た。そこは山の上にあって、天気がよくても登るのに20分から30分はかかる。当日は雨で、とても無理だ。そのことを説明すると、婦人は笑顔で驚きながら、そこに行くのを諦めた。すると今度は次のマークを指してここはどうかと言う。それは松尾大社で、ここから歩いて30分ほどかかると伝えた。するとなおも婦人は食い下がって来て、さらにその下のマークを指して、ここはどうかと質問する。それは鈴虫寺で、松尾大社よりも遠く、しかもバスも少ない。へたをすると1時間ほどかかる。それに住職の法話は、日本語がわかならいと何の面白味もない。英語のパンフレットにそうした寺が観光名所と記してあるのは多少問題があるだろう。婦人は次に嵐山のどこがいいのかと訊ねて来た。筆者はすぐ近くにあるまだ花の咲かない桜を指し示しながら、4月になると辺りがみな桜で埋まってきれいだと言うと、婦人は納得しながら、自分が運の悪い日に来たことを合点した。そう言えば、桜の咲かない嵐山はどこがきれいなのか、外国人にはにわかにわからないかもしれない。歴史的なことは知らないし、また雄大な自然もなく、まるで箱庭の小さな景色だ。それが京都では珍しくていいのだが、そういう小さな風景の美は、外国人にはよさがわからないように思う。婦人は礼を言って先の若いふたりの女性と同じく桜の林を突っ切って渡月橋に去った。水煙で水墨画のように見える嵐山もまたきれいなので、それをその婦人が印象に留めたことを祈る。
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 京都は手間をかけて美を演出し、その洗練のきわみによって日本の文化をリードして来た。手間とは人手がかかることであり、その人の生活を支えるために商品はどうしても価格が高くなる。ところが、何でも安い方がいいという不況社会になると、真っ先にこの手間が切り捨てられる。あるいは手間賃の安い海外でものが作られる。あらゆるものがそうで、ものが安くなるが、賃金は上昇せず、しかも手間をかけてものを作ることがさらにごく一部の人のものになって行く。そうなると、質の低下は必然だ。手づくりのものが工場で大量生産されるようになり、次にその工場で働く人の賃金も高いということになって、海外に委ねられる。そんな日本になると、もう手間暇を要してものを作ることがあほらしく、あるいは罪悪のように思えて、ますます安価な製品がいいという意識が広まる。そうして100円ショップが定着した。一昨日バスに乗って四条大宮を通過した時、ある小さなビルが見えた。すっかり扉を閉じ、もう廃業しているようであった。そこはキモノがまだ飛ぶように売れていた40年ほど前に建ったが、その後は下降線をたどった。よくある話だ。バスで思い出した。走るバスの中からある大学の卒業式を見た。今年はほとんどの女性が振袖を着ていたようで、キモノ人気がすっかりなくなったのではないことがわかる。筆者の散歩道沿いにはそうしたキモノのレンタル店が数年前に出来て、かなり盛況のようだ。そして、夜でもその店の大きなガラス窓から照らされた内部がよく見えるが、ぶら下げてあるキモノはみな量産の安物だ。とはいえ、そうしたことがわかる人は1000人にひとりもいない。そうしたキモノは以前は日本で作っていた。今はアジア諸国の工場でプリント、つまり印刷で作らせる。人件費が日本の10分の1以下で、それが商品価格を驚くほど安いものにする。筆者が白生地屋で購入する価格よりも安価だが、帯や小物など、着用に必要なものを揃えるとそれでも最低20万以上はするから、一般市民にすれば高い買い物だ。どうしようもない安価なものをそうした価格で買わされるのであるから、安物買いの銭失いそのままだが、庶民にはそうした選択肢しかない。また、着付け店や髪型を整えてもらうためにも万単位のお金がかかる。だが、出来た振袖姿は、本人にはわからないが、京都ではプロがたくさんいるから、一瞬で値踏みされてしまう。いくら美人でも、その安い振袖によって育ちがわかり、また美人でなくても豪華な振袖を着ていると、公家の血筋かと思われる。
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 今年の卒業式、バス中から京都のとあるホテル前に、素晴らしい振袖を着ている若い女性が立っているのを見かけた。おそらく小売価格では500万円はするだろう。そうしたキモノを親から揃えてもらえる女性がいる一方、レンタルで済ます人もあるが、レンタルする人は人生で1、2回しかキモノを着ず、またたたみ方や保存の仕方も知らないから、レンタルで充分なのだ。それに豪華なキモノと量産の安価製品の違いもわからない。このように、何でも人は住み分けていて、昔から何の問題もない。キモノが飛ぶように売れていた時代のキモノは、今見ると全くひどい商品で、よくぞそんな技術で飯が食えていたなと驚愕させられるが、そうした大量生産のキモノを扱ったおかげで、先に書いた四条大宮のとある店もビルが建った。それが今は閉店状態というのは、あたりまえのことで、何の不思議も哀れもない。豪華な友禅のキモノというのは、昔から金持ちだけのものであった。それは今も変わらない。レンタル店で並ぶのは、キモノを少しでも知っている人が見ると恥ずかしくなるような柄と色使いで、文様の意味や、あるいはキモノの柄の構成といったことはほとんど何にも考えていない。ところが、そんな商品でもとにかく着用出来る形はしているから、同じ形のものがなぜ数百万もするのか大半の人には理解出来ない。100円ショップと百貨店の専門店を思い浮かべればよい。昨日は1個10万円のガラス・コップを高島屋で見かけたが、ぱっと見は同じものが100円ショップで売られている。だが、ぱっと見が同じだと思うのは全くの素人で、そこには歴然とした差がある。その差は、それを作るに要した手間の差なのだ。だが、その手間は時として無料と考えられる。筆者の自治会長にしてもそうだ。あるいはこのブログの文章もだ。人は無料のものはありがたがらない。本当に優れたものが無料、あるいはきわめて安価で手に入るとは誰も思わない。百貨店はそういう人の心理をうまく突いて商売をして来たし、今もそういうところがある。その一方で激安スーパーだ。本当に手間のかかる無農薬野菜は、そうでない野菜の数十倍の価格がするはずだが、人々はそれを暗に知りながら、どうせ人間の寿命はとか何とか思いながら、安価なものに手を出すしかない。
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 豪華な振袖を着用していたホテル前の女性の親が、本当にキモノの柄や染めの技術のことを知っているかとなると、その可能性はかなり低い。価格を信用して、高価なものはいい技術を用いていると思っているだけのことだ。それでもそういうルート、つまり、腕のいい職人がどうにか生活出来る収入が確保出来て、しかも百貨店やそこに納める業者も利潤がしっかりとあるという流通システムは、ひとつの文化であり、財産でもある。そうした古典的な流通システムはどんなに不況になっても、1万人にひとりくらいいる大金持が支えるから、どうにか染めの技術はアジア諸国で量産されるプリント製品とは別に保存されて行く。何の問題もないわけだ。民主主義になっても、ごく一部の大金持と、そうでない大多数の人々がいる。だが、民主主義の方が、本物の技術は伝えられにくい。にわか成り金が登場し、そうした人々に審美眼が宿ることはごく少ないからだ。その分、今までにない文化を生み出す力になり得るが、それが洗練されるには何世代もかかる。そんな洗練はどこ吹く風で、今はとにかくよく売れるものが有名になり、そのことが大きな価値とみなされる。一昨日バス待ちの時に背後の書店があって、その窓に1Q84という話題になっている小説の3作目がずらりと並んでいた。それを見ながら老夫婦がにこやかに話をしていた。おそらくその小説のファンなのだろう。昨日のTVではその小説を解説する本が出ていることが紹介された。たとえばその小説にはクラシック音楽がたくさん出て来るらしい。そのひとつにヤナーチャクの『シンフォニエッタ』がある。それをTVでは紹介していたが、あまりに有名なその曲を知らないような人がその小説を買って読むのだろう。筆者はその小説の中にたくさんのクラシック音楽が登場することを知って、何だかいやな気がし、またそうしたことをあえてする小説家であることを納得もした。だいたいビートルズの「ノルウェーの森」を小説の題名にすることもそうだ。知っている人にはあまりにもあたりまえのことを、わざとらしく使うというところに、何と言うか、大多数の庶民に目を向けた儲け主義が見え透いている。あるいは庶民を侮ったと言ってもよい。『シンフォニエッタ』や『神々のたそがれ』などを聴いたこともないという、多くの庶民の知的度をくすぐるという手法は、自分がいかにも庶民にちょっとましな音楽を教えてあげましょうというスノビズムが見え見えで、迎合主義よりなお始末に悪い。あるいは当の小説家がそんなところのクラシックしか知らないとことを示すかだ。どっちにしても、よく売れて、庶民が喜び、出版社もウハウハで何の問題もないということだ。だが、筆者は読まない。
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by uuuzen | 2010-04-19 11:07 | ●駅前の変化 | Comments(0)


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